ハノーヴァーへと赴く日の前夜。
渡は寝室でゆっくりと本を読んでいた。
ライターをしていただけに、本を読むのは好きだった。
特に旅行記は沢木耕太郎の『深夜特急』をはじめ、いくつも読んだものだ。
知らない土地で知らない人と出会い、交流を深めていく姿には数々のドラマがある。
明日のハノーヴァーではどんな出会いが待っているのだろうか。
素敵なものならば良いのだけれど。
キリの良いところまで読み進めていたら、かなり遅くなってしまった。
「やばっ。早く寝ないと」
明日は長距離移動が必要になる可能性も高いから、しっかりと休んでおかなければならないというのに、十二時を回っている。
ゲートの場所次第では騎乗移動が必要になるのだ。
寝る前にいつもの習慣でトイレに向かうと、非常灯のついたダイニングで、マリエルが座っていた。
銀色の美しい髪は、わずかな光も反射して、暗い部屋でもよく見えた。
コップにお茶こそ入っているが、手につける様子もなく、ぼんやりと佇んでいる。
こんな時間に何をしているんだか。
「どうした、寝れないのか?」
「あ、すみません。別にどうということはないんです。もう寝ますので、ご心配なさらないでください」
「いや、良かったら話を聞くぞ。どうということもないやつが、こんな時間にぼうっと考え込んでないだろう」
「大丈夫――」
「――大丈夫そうじゃないから言ってるんだ。自分一人で抱えるんじゃなくて、俺にも悩みを打ち明けてくれよ。俺は未来の旦那だぞ」
「…………わかりました。未来の妻の相談を聞いて下さい」
「そうこなくっちゃ」
渡はマリエルの隣に座った。
マリエルが頷くと、コップを手に持って、ぽつりぽつりと話し始めた。
「明日、ハノーヴァーに向かって、かつての領民たちは私たちをどう思ってるんだろうって考えると、不安になってしまいました。棄てられたと思ってるんじゃないか。私たち一家のことを恨んでるんじゃないかって」
「なるほどな。昔は領民と仲が良かったんだっけ?」
「そうですね。貴族といっても子爵なんて実質的には村のお偉いさんに毛が生えたようなものですし。とくにうちは財政が厳しかったですから、多くの配下を抱えられるわけでもないですし、相当に距離は近かったと思います」
かつて親しく付き合っていたからこそ、厳しく責められればつらく感じるものだろう。
もしかしたら、怒り狂った領民に石を投げられるかもしれない。
そんなことを想像して、憂鬱になってしまっていたらしい。
「仲の良かった人たちに責められたらつらいよな」
「結果的に領民を見捨てたことに違いはないので仕方ないとは思うんですけどね」
「そんなことを言うなって。マリエルもご両親も、できる範囲でギリギリまで領地を発展させようと努力していたんだろう。見捨てたくて見捨てたわけじゃない。その思いはきっと領民にも伝わってるはずだよ」
「そう、でしょうか……」
「明日になればハッキリするだろうけど、俺はそう思ってるよ。普段の領主としての活動に、思いが滲み出てたはずだ」
渡を見るマリエルの目が、揺れる。
いつもハキハキと自分の考えを口にするマリエルの声が不安に揺れていた。
けっして力が強い訳ではないが、人としての芯のある強さを感じさせるマリエルにしては、珍しくも儚げで弱々しい姿だった。
肩に手を回すと、軽く引き寄せた。
「それに、誤解があったなら、ちゃんと説明すれば良い。マリエルは領地のためにその身を捧げたんだ。なんだったら俺が好色な購入者役として芝居を打ってもいいぞ。ぐへへ、奴隷の貴様はもう領地には帰れないんだぞーって」
渡の下手な冗談に、マリエルがくすっと笑った。
滑らなくて良かった。
あと、悩んだ儚げな姿も美しいけど、やっぱりマリエルは笑顔が可愛くて似合っている。
ドキッとするほどに可愛らしい。
「もう、ダメですよ。自分たちだけじゃなくてご主人様まで誤解されるなんて、私許せません」
「その言葉をそっくりマリエルに返すよ」
「あっ……。これは一本取られましたね」
「理解を示してくれていればそれでいいし。もし誤解されてるなら、ちゃんと説明しよう。エアだってクローシェだって、そしてステラも。誰も協力を惜しまないはずだ。これまでの積み重ねがあるなら、絶対に思いは通じるはずだ」
渡は言葉に力を込めた。
最初から完全に反発していたならともかく、すれ違いがあっただけなら、きっと修復できる。
そのために労力を惜しむつもりもない。
マリエルのためにも、これからコーヒーの栽培を始める自分のためにも。
「まあ、どうしても理解し得ないなら、その時は仕方ないさ。別の方法を考えよう」
「ふふ、ありがとうございます。気が楽になったら急に眠くなりました。ふわっ……」
マリエルが花開くように笑みを浮かべた。
そうそう、やっぱりマリエルには笑顔が一番だ。
安心してリラックスできたのか、大きな口を開け、それを手で押さえながらマリエルがあくびをする。
目尻にたっぷりと涙を浮かべた姿には、先程までの不安は感じられなかった。
もう、大丈夫かな。
「明日寝不足だったら心配するからな。すぐに寝とけ。俺は今からトイレ行くわ」
「おやすみなさい。ご主人様」
「おやすみ、マリエル」
就寝の挨拶をして、渡たちは自室に戻ってベッドに入った。
ぐっすりと、夢も見ずによく眠れた。
◯
そして翌日――。
「渡様たちのゲート利用には、わたくしも同行させていただきます!」
「ええ……ラスティさんがですか……?」
渡たちは、予想外の展開を迎えていた。