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第46話 タイガン・ウッドローの熱狂

 全米オープン、最終日。

 幸いにもツアー中は晴天に恵まれた。


 青空の下に白い雲が風に流れ、陽気なアメリカの大地をより暖かなものにしていた。

 だが、それ以上に会場には熱気があった。


 例年多くの観戦者が詰め寄る大会だが、その日コースは異様な緊張感に包まれていたのだ。


 そもそも、観戦者数が桁外れに多い。

 コースの周りを分厚い人垣ができていた。


 その視線が集まるのが、タイガン・ウッドローだった。

 選手がショットを打つと拍手を叩くが、観戦者の目は、期待は一人の選手に集中していた。


 ゴルフの観戦は静かにするものだが、固唾を呑んで選手のワンショットを待ち構える。

 その緊張感は例年以上に激しかった。


 彼が構える度に、誰もがひときわ集中し、その動きの一つ一つを見逃すまいと息を止めて見守る。

 ウッドローは息子とコースの内容について二言、三言相談し、しっかりとアイアンを握って構えた。


 パシュン、というダイナミックでありながら、無駄のないスイング音の直後、豆粒のように小さくなったゴルフボールは大空を駆け巡り、狙いすましたようにグリーンのホール近くにドンッと落ちる。

 強烈なバックスピンがかかったボールは、ピタとピン側に止まった。


 おおおお、とどよめきが湧き上がった。


 ウッドローだ。

 あの天才、タイガン・ウッドローが帰ってきた……!!

 復活だ!


 テレビ中継だけでなく、動画サイトのライブ配信でも、多くの視聴者が興奮に包まれていた。

 ゴルフ好きなら誰もが一度は魅了された、本物の天才。


 近年では調子を崩し続け、復調は絶望視されていただけに、全米オープンという晴れ舞台で劇的な回復を見せているタイガンに、誰もが驚き喜んだ。


 日本のテレビで放映されている番組でも、実況と解説の口ぶりは熱を帯びていた。


『いやあ、これは非常に面白い展開になりましたねえ』

『はい、正直ウッドロー選手がここまで調子を戻してくるとは意外でした。現在二ホールを回って、成績はアンダー五。トップとはわずか二打差。十分に逆転優勝を狙えます』

『ウッドロー選手は今回優勝すると、歴代最多優勝記録に並びます。解説の永田さん、ウッドロー選手の復調はプレーのどこに感じられますか?』

『ショットの精度がすべて良くなっていますね。ドライバーの距離、アイアンの正確性、そしてパターの見事な読み。もともとウッドロー選手は、果敢なチャレンジをものにしてきた選手でした。狙いが外れた時も多いのですが、そこからのリカバリーが凄まじい。ところが今回は、そもそも狙いを外さない。すごく安定している感じがします。このあたりはキャリアを感じさせます』

『なるほど。現在トップを走っているマーケ選手、昨日まではなんとアンダー十二の好成績でしたが、今日はスコアを落としてアンダー七。調子を崩していそうですね』

『背中から追いかけられているプレッシャーは相当大きいでしょう』


 息子をキャディに快進撃を続けるタイガン・ウッドローは肌艶の調子もよく、五歳以上は若返って見えた。


 そんなタイガンがコンディションを上げたのは、オープン戦が始まるわずか三日前のことだった。


 ◯


 渡からすれば、タイガンの全盛期は物心がついたかどうかの頃の話で、一時代を築いた人という実感があまり湧かない。

 それでもその名は知っていたし、祖父がそれとなく名前を挙げていたのを覚えている。


 時代の寵児も怪我には勝てないか、というような不調を惜しむ声だった。

 きっと、本当にすごい人だったんだろう。


 そんな渡だったから、マリア・グラーシェの紹介で、タイガンから再度連絡が入ったときの対応は早かった。

 元より紹介元さえしっかりしていれば、すぐに受けても問題ない相手だったのだ。


 おまけに相手の大会スケジュールが直前に迫っていると聞けば、可能な限り迅速に対応してあげたい、と思ったこともあり、日本に渡航したその日に会うことを決めた。

 ポーションを飲んだらすぐにアメリカにとんぼ返りすることになるようだ。


 タイガンとしては、本当は自分が日本に赴くのではなく、呼び寄せたい。


 コースから離れることなく、練習に集中したいところだった。

 だが、渡が世界でも唯一の販売元であり、代えの効かない相手だったこともあり、日本に出向くしかなかった。


 タイガンとしては、相当にリスクを背負った行動だ。

 グレート山崎の言葉が嘘ではないことを願うばかりだ。


 自分が出入り禁止になっていたことを黙っていた山崎たちへの信頼は底をついている。

 それでも、治療薬の存在そのものについては、山崎は否定しなかったし、渡も否定しなかった。


 もはや体調は悪く、全身の不調を治さないことには、今後の競技生活も危うい。


 一縷の望みを賭けての来日だった。

 お忍びの来日で気付かれることもなく、タイガンは渡が指定した喫茶店にやってきた。


 他の来客者が思うように、タイガンもこの小さな喫茶店に呼び出されたことを不思議に思う。

 もっと適した場所がいくらでもあるはずなのに、なぜわざわざこの店に呼び出したのか。


 不安を抱えながらドアをあけると、ドアベルが澄んだ音を立てる。


「お待ちしておりました。堺渡です。こちら助手のマリエルです」

「タイガン・ウッドローです。今日はよろしくお願いします。先日はご迷惑をおかけしました」

「いえ、こちらこそ、二度手間をかけさせて申し訳ない。ただ、まだ希少なこの治療法は、公にしていないため、その点はどうかご理解ください」


 すでに著名人に何度も会っているらしい渡たちは、タイガンを前にしても浮ついたところがない。

 落ち着いた様子で握手を交わし、席を勧められた。


 その態度に、少し評価を改める。

 泰然とした姿には、自分たちの商品に静かな自信を感じさせられた。


「……美味しいな」

「豆からこだわって淹れています。自慢のコーヒーですよ」


 タイガンは喫茶店で出されたコーヒーを飲みながら、渡とマリエルから説明を受ける。

 秘密保持契約をする必要があることと、あまりにも不調が多すぎる、あるいは深刻すぎる場合、一本では足りないケースがあることを再確認した。


「祖父があなたは本当にすごいプレーヤーなのだと言っていました。ただ、怪我をして調子を崩していると。やっぱりお体は悪いんですか?」

「まったく自慢にはならないけど、負傷の数はアスリートの中でもトップクラスに多いと思う」

「……すごい数の負傷ですね」


 脛骨骨折、足底腱膜炎、膝関節の軟骨剥離、前十字靭帯断裂、アキレス腱炎、腰椎ヘルニア、分離すべり症、頚椎ヘルニア、ゴルフ肘、ありとあらゆる不調をこれまで経験してきた。

 そして、手術を重ねてきた。


 若くて無謀だったから、医師から完治を告げられる前に大会に無理やり出場して、優勝をもぎ取ったことが何度もある。

 痛み止めを飲みながらホールを回ったこともあった。


 どれもこれも、自分のキャリアにとって大切な大会だったし、無理をしても結果を掴むことはできた。

 だが、体の悲鳴を無視して無理をし続けた代償は、後々になって大きく返済を求められた形だ。


 もはや手足の感覚は鈍く、体は常に痛みやだるさを訴え続けていて調子の良い日というものがない。


 まるで分厚い手袋をしながらプレーしているような感覚だった。

 ショットも思ったように飛ばず、自分の感覚がまったく信用できなくなった。


 タイガンの説明を聞いた渡の表情が鈍い。


「相当に悪いですね……。うちのポーションはこれまで皆さん一本だけで良くなってるんですが、本当に二本以上いるかも」

「別にお金の心配はしていない。本当に治るならむしろ安すぎるぐらいだ」

「後は二本分となると、一時的に疲労が一気に出るかもしれないんです」

「どういうことかな?」

「組織が回復するというのは、代謝が活発になることと同じです。体内の栄養が使われるわけです」

「ふむ……」

「良かったら先に軽食を食べます? うちのサンドイッチ、美味しいですよ?」

「……いただこうか」


 お腹を満たしておいたほうが良いと言われて、タイガンは苦笑しながら卵サンドを食べる。

 別に喫茶店のコーヒーや食事を楽しみたかったわけじゃないんだが……。


 たっぷりとマスタードの効いたサンドイッチは、カリカリに焼かれた表面と、ふわっとしたパンの食感も合わせて美味しかった。


「さあ、コーヒーを飲んで、食事も取った。次は何が出てくるのかな?」

「お腹も膨れたところで、お待たせしたポーションを飲んでいただきましょうか」

「ああ。……楽しみだよ」


 マリエルが小瓶をテーブルに置く。


 はたしてこんな小さな薬瓶ひとつで治るのか?

 疑問も不安も、液体とともに飲み干した。


 途端、タイガンの体のアチラコチラから、淡い光が発した。


「おおおおおっ!? か、体が熱い……!? ひ、光ってるよ!?」

「落ち着いてください。正常な反応です。すぐに光も熱も収まります」


 渡の言葉通り、すぐに落ち着いた。

 そして感じたのは、圧倒的な快適感だ。


 体の痛みやだるさが一瞬にして解消されたため、異様なまでに軽く、快適に感じる。

 タイガンは自分の手足を呆然と見つめた。


 指を開閉し、手首を回し、肩や首、腰の動きを確認する。

 滑らかで鋭敏で、思った力で思ったように動き、ピタリと止まる。


「なるほどっ、これはたしかにすごい!」

「問題は、完治しているかというところです。いまだに痛みや違和感が残っていたりしませんか?」

「うん、あらためてそう聞かれると、あるね。とくに腰と足は残ってる」

「どうされますか? 完治を目指すならもう一本、お支払いいただくことになりますが」

「飲むとも!」


 今しがた効果をまさに実感したのだ。

 飲まない理由がない。

 タイガンはすぐさま支払いに応じて、二本目も飲み干した。


「おおおおおおおっ!? 今度こそ本当に完璧だ! 痛くない! 違和感もなく、子供時代の元気な頃を思い出すようだよ!」

「問題なく治って良かったです。体自体は急な回復で疲れているでしょうから、しっかりと食べて、早めにたっぷりと寝てください」

「どうせフライト中は動けないんだ。しっかり寝ておくよ」


 タイガンの表情に、満面の笑みが浮かぶ。

 その姿は店に入ったときとはまるで違う、覇気に満ちていた。


「ごちそうさま。このポーションも良かったけど、コーヒーも美味しかったよ」

「どちらも自慢の一品です」

「ただ、飲みすぎてお腹がチャポチャポ良いそうだ。それだけが問題だな」


 タイガンは目に見えて調子の良くなった体に、上機嫌で笑った。



 ◯



 全米オープン選手権大会は、ホールが進むにつれて、その熱狂を緊張を高めていた。

 タイガンの成績、好調ぶりが落ちない。


 年齢を考えても、そろそろ疲労は極限まで高まっているはずだが、タイガンは極めて高い集中を保ち、好プレーを続けていた。


『さあ、最終ホールを回って、マーケ選手とタイガン選手、なんとスコアはまったくの同じアンダー七! 今、マーケ選手が見事にパットを決め、スコアを確定させました。大きな拍手に包まれます。後はタイガン選手のスコア次第で、今大会の優勝者が決まります!』

『ここは通称ガラスのグリーンなどと呼ばれるほど難しいコースです。特に最終ホールは本当にちょっと叩くと、驚くほどカップをオーバーして、どこまでも離れてしまいます。プロ泣かせのいやらしいグリーンですよ』

『おまけにウッドロー選手はボールの位置が良くありませんね』

『グリーンは優しいコースと厳しいコースがあることが多いですが、これは特に難しい場所です。カップから離れていてロングパットになる上に、下りになっていて相当ラインを読むのが難しいですね。これは厳しいかもしれません』

『膝をついて、慎重にラインを見定めるウッドロー選手。おっと構えました』


 タイガンがパットを構える。

 誰よりも極度の緊張に包まれているのは、タイガンその人だろう。


 パターを構えたままピクリとも動かなかったが、やがてわずかにスイングすると、まるで撫でるように優しくボールを動かした。

 短く刈り揃えられた芝はほとんど抵抗もなく、ボールはどんどんと早く進んでいく。


 下りになって加速し、ボールが右に大きく曲がった。

 カップから離れたラインに、ああっ、と誰かのため息が漏れた。


 だが、タイガンはじっとボールを見つめて黙っていた。

 まだ目は少しも諦めていない。


 ボールは一度右に曲がったというのに、次には左に曲がり直り、ピンに向かっていく。

 かなりのスピードを保ったボールはカップの縁にゴン、と当たった後、その身を沈めた。


 タイガンが渾身のガッツポーズを構えていた。


『五年ぶりの優勝です! 全米オープン優勝はなんと十七年ぶり! 最多優勝記録に並びました! おっと、ウッドロー選手、急に屈み始めましたが……泣いています! 男泣きだ!』

『非常に長かった不調を乗り越えて、奇跡のカムバック。過去の栄光があるからこそ、プレッシャーも誰よりも大きかったんじゃないですかね』


 わあああ、と歓声が湧き、いくつものフラッシュが焚かれた。

 カメラマンの猛烈な撮影に包まれる中、タイガンはぐっと顔を上げて立ち上がると、息子と抱き合った。


「どうだ、見てくれてたか!?」

「うん、父さんは、最高に格好いいプレーヤーだったよ」


 その言葉を聞いて、タイガンはもう一度、涙をこぼした。


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