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第40話 会社の設立

 渡の自宅の事務室は、今のところ主に渡とマリエルの二人が専有していた。

 デスクトップパソコンを置いた事務机とオフィスチェア、タブレットに大きな書類棚などが置かれていて、スペース自体はかなり広い。


 そんな執務室で、渡はパソコンを操作しながら調べ物をしていた。

 個人事業主から会社を設立しようと考えているのだ。


 渡が以前に食品衛生責任者の資格を取ったときのように、現代では資格の取得などはかなりインターネットの対応が進んできている。

 会社の設立に必要な手続きも、かなりネットでできるようだ。


 今後はマイナンバーカードの対応によって、確定申告なども含めてもっと便利になってくれれば良いのだが。


「じつはさ、税理士の先生から、個人事業主のままだと税金対策に限度があると怒られたから、会社を設立しようと思ってるんだ」

「おめでとうございます、でよろしいのでしょうか?」

「そうだね。いわば行商人や露天商が、商会を立ち上げるようなもの、と言ったら良いのかな」

「凄いことではありませんか! おめでとうございます」

「う、うん。ありがとう」


 ピンと来ていなかったマリエルに、異世界の暮らしを想像しながら伝えると、とても喜んでくれた。

 素直に喜んでくれると、渡としても嬉しい。


 マリエルは貴族として、権威の良いところも悪いところも見てきているのだろう。

 だからこそ、商会として立ち上げることの意義を、しっかりと捉えている。


 渡としては、会社を設立すれば、マリエルたちの居場所をちゃんと作ってあげやすい、という意味もあった。

 今は就労ビザで日本に滞在しているマリエルたちだ。


 個人事業主に雇われるよりも、法人会社に雇われた方が、公的機関からの余計な注目を避けられるはずだった。

 ただでさえ目立ちたくないことをしながら、同時に有名な人とばかり接している日々を送っている。


 リスクは可能な限り減らしておくべきだろう。


「ところが、この会社を設立するには、かなり書類が多くて忙しいみたいなんだよ」

「なるほど……。私でお手伝いできるのでしょうか?」

「絶対に俺が書かないといけない書類も多いけど、細かい作業は任せることになるかな」

「分かりました。お任せください」

「はは、頼りにしてるよ。ステラはポーションの製造を進めてもらわないといけないし、エアとクローシェは護衛仕事が本分だからね」

「あの二人は……そうですね」


 会社を設立しようと思えば、銀行口座開設から各種の届け出、社会保障の設定とやることが目白押しだ。

 だが、頼れるのはマリエル一人になりそうなのが現状だった。


 エアは明らかに仕事内容には一線を引いていて、力のいる運搬作業なら手伝ってくれるが、事務作業は一切手伝おうとはしない。

 クローシェは何でも器用にこなすが、致命的なポカをしでかしそうなんだよなあ。


 会社の設立をするには、相当にあれこれと動かないといけないらしく、渡ひとりですべての作業をするのはかなり大変だ。

 最終的には信頼できそうな司法書士を利用することになるだろう。


 ただ、何よりも会社を設立するにあたって、重要なことをまだ決めていなかった。


「細かい仕事は行政書士の人にお願いするとして、まずは会社名を決めようと思う」


 ◯


 全員がリビングに集まって、昼食を取る。

 テーブルにはマリエルが調理したカレーライスとトマトサラダが並んでいた。

 カレー皿にたっぷりのツヤツヤご飯が、そしてジャガイモや人参、スジ肉がゴロゴロ入ったルーが満たされている。


 プンプンとカレーの匂いが家に漂っていたから、誰もが今日の料理を予想していたとはいえ、配膳されると途端に食欲を誘う。


 カレーといえばらっきょう漬けや福神漬けなどの酢の物が多いが、堺家ではらっきょう漬けが鉄板だ。

 あと醤油とウスターソースが常備されていて、入れることもあった。


 大喜びでむしゃむしゃと食べ始めたのが、エアとクローシェだ。


「おおー! 今日はカレーだ! しかも唐揚げもついてる!」

「美味しいですわ! こちらに来て心底良かったと思えるのが、マリエルさんの料理がどれも本当に美味しいことですわね」

「二人が喧嘩しないようにたくさん作りましたからね。お腹いっぱい食べてください」


 二人してスプーンを素早く動かし、頬を膨らませて満面の笑みを浮かべた。

 勢いよくがっつきすぎて、エアの頬にルーが飛んでいる。


 渡はエアの頬についたカレーを指ですくうと舐め取った。


「落ち着いて食べろよ」

「ニシシ! ありがと!」


 まったく、仕方ないやつだな。


 本当に食べっぷりが良くて、見ている人間も食欲が湧いて、幸せな気持ちになる。

 渡もカレーを口に運ぶ。


 まったりとしたルーの中に、カレースパイスの香りとスジ肉の脂の旨味、野菜の甘味などが渾然一体となっている。

 旨いなあ、としみじみと感じた。


「マリエルの料理は本当に美味しいよな。婆ちゃんにレシピを聞いて、実家の味も覚えてくれてるし。もうマリエルのいない食卓が想像もできないよ」

「ご主人様のお口にあって嬉しいです。ですが、こちらでは本当に多くのレシピがあって驚きます。こんなに多量のスパイスを使う料理があるんですもの。……ん~、ちょっと辛すぎたかしら」


 マリエルは音も立てずカレーを食べていたが、ルーの辛さに眉をひそめた。


 マリエルには、カレーは甘口に作ってもらっている。

 その代わり、自分たちで辛さを調整できるように、後から唐辛子や胡椒などのミックススパイスを追加できるようにしていた。


 エアとクローシェは完全な甘口だが、これは獣人ということも大いに関係しているのだろう。


 渡は少しだけ追加した、ほぼ甘口。

 マリエルは中辛。


 そしてステラは――


「はふっ、からくて美味しいですぅ……」

「……見てるだけで目が痛くなりそうだ」

「あなた様もいかがですかぁ? 美味しいですよぉ」

「いや、遠慮しておくよ」


 ステラは超辛口が好みのようだった。

 一人だけ多量に辛味成分を追加している。


 多量の汗をかいてはふはふと息を漏らす姿はどことなく扇情的だった。


 人が多く集まれば、好みの味付けも大きく異なるものだ。

 全員を満足させることは難しいが、それでもマリエルの作るカレーは、皆に評判良く受け入れられていた。 


 ◯


 食後、口の中の辛さを洗い流すために、アイスクリームを各々食べていた。

 エアが好んでいつも食べているから、ファミリーサイズのバカでかいアイスが常備されている。


 エアの一推しはストロベリーだそうだ。

 今もアイスクリームディッシャーという名の、わざわざアイスを取る専用の道具を使って、三つぐらいの小山を作っていた。


 クローシェはチョコ、マリエルとステラ、そして渡はバニラをそれぞれ食べる。

 食後のまったりとした落ち着いた時間を狙って、これから長く使う予定の会社名を決めるのだ。

 渡一人だけではなく、皆の意見を求めて、納得してから決めたかった。


「ワタル商会でよろしいのでは?」

「やだよ、ぜったいヤダ!」

「ええ……どうしてでしょうか?」

「だって、これまでの反応を見てご覧よ。今後世界的に有名になっちゃうのはほぼ確定でしょう?」

「そうですね。アミール氏、ファイサル氏などの反応を見れば、まず間違いないかと」

「じゃあ、俺の名前をつけた屋号はいらないかなあ。俺、そこまで自己顕示欲強くないんだ。世界のサカイ、とかワタルとか呼ばれたくない」


 マリエルはキョトンとした表情を浮かべて、コテリと首を傾げた。

 くっ、そんな動作一つでも可愛らしい。


 思わず怯んでしまいそうになるが、渡としてはここは譲れないところだ。

 日本の自動車メーカーは創業者の名前をつけられていることが多いが、服飾業界の雄、ユニークにしろ、ハードバンクにしろ、現代ではあまり創業者の名前をつけない。


 こればかりは現代人ならではの感覚なのだろうか。


「ええー、自分の名前つけたら良いのに」

「お姉様の言うとおりですわ! 自分の名を世に広く知らしめる。戦士としてこれ以上の誉れがありましょうか!」

「俺は戦士じゃないんだって……」


 エアとクローシェも理解できないようだった。

 もしかして、変に目立ちたくないのは俺だけなんだろうか。


 いや、恥ずかしがり屋のステラならば!

 渡がステラを見ると、彼女はぽっと頬を染めた。


「あなた様の芳名が世に轟くのはぁ、誉れ高く嬉しいかと思いますぅ」

「ステラ、お前もか」


 ステラはその境遇から一番渡のことを特別な存在として見ている。

 渡の意見ならば従うだろうが、渡の名を、素晴らしさを広めたいと狙っている急先鋒だったことを、今更ながらに思い出した。


 誰も同調者がいない。

 このままではワタル商会になってしまう……!


 渡はガックリと手をついた。


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