高尾は東京から新幹線に乗って、大阪駅までたどり着いた。
大阪には以前に大会の関係で一度だけ訪れたことがある。
その時は観光するような時間の余裕はなかった。
そして今は、時間はあっても気持ちの上で余裕がない。
何より松葉杖を突いての移動は大変で、観光を楽しむことは難しいだろう。
大阪駅は非常に多くの人で混雑していた。
あらためて見てみると、歩く人の速度が非常に早い。
大阪人の歩く速さは秒速一.六メートルで、世界最速だと言われている。
ギプス固定を施し、松葉杖で改札に向かう高尾には、少し厳しい慌ただしさだった。
人混みに苦労しながら移動していると、二人組の気の良い中年男性が話しかけてきた。
「兄ちゃん足痛そうやなあ! 大丈夫か?」
「え、あ、はい」
「荷物持ったろか?」
「止めとけ止めとけ、こいつに預けたら中身すっからかんなって返ってくるで」
「んなわけあるか! ちゃーんと紙切れ一枚残しといたる。『荷物はいただきました』って」
咄嗟に身構え、慌ててしまうが、相手は気にした様子もない。
そして、何が何やらわからない内に、駅の改札まで案内し、人でごった返すなか、歩きやすいように道を拓いてくれた。
「ここが改札や。後は何処に行くつもりなん?」
「あ、ありがとうございました! ここまで来たら、迎えの人が来ると思います。助かりました」
「ほな、兄ちゃんあんじょうな」
「また会ったら美味いたこ焼き屋紹介したるわ」
「こいつ家連れ込む気や! きーつけや」
「アホか、ちゃんと『わなか』連れてったるわ」
「そこは『タコ八』ちゃうんか?」
高尾が唖然としている中、男たちは気にした様子もなく軽く手を振って、離れてしまった。
なんなのだ。
一体何がなにかわからない。
呆然としながらも、スマートフォンにメッセージの通知が来たため我に返って、確認する。
紹介してくれた飯田が、駅から送ってくれる予定になっていた。
返信をして待つこと三分ほど。
移動や遠征の多い高尾だが、足の不自由な今は、気を張ってしまっていたのだろう。
以前に会った飯田の姿を見て、高尾の体からホッと緊張がほどけた。
「ちゅーっす!」
「飯田さん!」
「高尾くん、お久しぶりっすね。うわっ、マジで足痛そう」
「今日はお世話になります。今は固定してるんで、それほど痛くないですよ。ただ、本当に治るのかは不安です……」
「まあ安心してくれて良いっすよ。俺の腰も腰椎分離症っていうけっこう重症だったんすけど、完全に治って、今じゃ全力で動けてるっすからね」
飯田が荷物を持ってくれて、案内してくれる。
車のドアを開け、荷物とともに高尾を乗せると、飯田は軽快に車を走らせた。
少し音量を抑えてヒップホップが流される。
飯田は車に乗っている間、膝の話はしなかった。
むしろ積極的に、未来の話題を選んだ。
ワールドカップやスペインリーグについて、注目している日本のライバルはだれか。
プロになったら契約金の使い方はどうするのか。
そんなことを話していたら、あっという間にたどり着いたのは、裏通りの小さな喫茶店だった。
「住所は……たしかにここっすね。ゆっくり降りるっすよ」
「はい」
痛めた足を使わないように、慎重に体を動かす。
杖を出して、手すりに体重を預けて、車の外に出た。
どこからどう見ても、普通の喫茶店に見えた。
ここに、足が治る治療法が、五百万円もの大金を支払う薬が、本当にあるのだろうか。
ドアを開けてもらい、軽く頭を下げて扉をくぐると、コーヒーの焙煎した香ばしい香りが漂ってきた。
「いらっしゃい。はじめまして堺です」
「はじめまして、よろしくお願いします」
テーブル席に座っていた男が、微笑をたたえながら、高尾を迎えた。
周りにはとんでもない美女が四人もいて、ドギマギしながら、向かいの席に座った。
用意が良いことに、すでに書類と大切そうな箱が置かれている。
「飯田さんも、わざわざ案内ありがとうございます」
「紹介したのは俺っすからね。ぜんぜん良いっすよ。それより、この子が高尾くんっす。日本サッカー界の至宝っすよ」
「それは大変だ。責任重大だね」
「いや、そんな僕は……」
堺という男は、まだ二十代前半に見えた。
まるで世界でも一流のプロアスリートと対峙したときと同じような威圧感に、ゴクリ、と唾を飲む。
サッカーの競技場では臆したことのない高尾でも、戦う舞台が違えばどうしても緊張してしまう。
「先に条件を再確認しておきましょうか。当方からの条件は二つ。販売価格は五百万円。振込を確認してからのお渡し。もう一つが、今回の治療について一切の情報の制限です」
「はい。事前に聞いていました」
「これから、高尾さんには色んな人から質問されると思います。大半の人からは純粋な気遣いからでしょうが、中には真剣に、あるいは利益を求めて来る人も多いでしょう。マスコミだけでなく、監督やコーチ、親戚、あるいはチームの有名選手など、断りづらい人から聞かれることも多いと思います。ですが、決して話してはいけません。この契約を破ると、まずあなたは賠償金額で破滅します」
かなり念をおして、秘密を守るように強く要請された。
高尾はしっかりと話を聞いて、危険性も納得する。
たしかに赤の他人ならともかく、世話になっている監督やコーチ、先輩から聞かれて断るのは大変だろう。
それでも治るなら――。
「約束します。監督とかコーチとか、お世話になってる誰に聞かれても、教えません。約束は守れって、父ちゃんと母ちゃんに言われて育ちました」
「そうですか。立派な両親に育てられたんだねえ……」
渡が嘆息した。
その姿が一瞬だけ羨ましそうに、高尾には映った。
高尾はスマートフォンの銀行アプリを操作する。
登録されている自分の口座には、ちょうど五百万円が用意されていた。
小さい頃から少しずつ少しずつ両親が貯えてくれていた、大切なお金だ。
いざという時のために、必要になったら使えと。
膝を治してサッカーを続けるためなら、それは
父も母も、このお金を稼ぐのにどれだけ苦労したのだろうか。
父も母も、手はボロボロだった。
全部自分を育て、夢を叶えるためだ。
いつもいつも頑張って働いてくれていたのを、高尾は知っている。
父は若い頃大好きだったというタバコを辞めて、たまに家で飲むお酒もビールから発泡酒に変えていた。
母が新しい服を買わなくなって、いつも同じ服を着回すようになって、どれだけ経っただろうか。
お金の重みに、高尾の手が震えた。
何度も呼吸を繰り返す。
アプリで送金する、たった一度のタップができない。
「ここで治らなかったら、お父さんとお母さんの頑張りも無駄になるっすよ」
「そう、ですよね」
そうだ。夢を叶えるために、父も母も自分を犠牲にして働いてくれていたのだ。
なら、俺がすることは体を治してプロになって、契約金と給料で報いることだ。
夢を叶えて、親孝行するんだ……!
震えた手が止まる。
支払いを終えた。
「入金を確認しました。ありがとうございます。早速商品をお渡しします。どうぞ。こちらが治療薬です」
「これが……」
小さな薬瓶に入った液体に、こんな少しのものが、そんなに高いのか、と不思議にも、少し不満にも思う。
「効果はすぐに現れます。心配だったらギプスは後で外しますか?」
「いえ、治るんなら、すぐに歩けるようになりたいです」
「分かりました。マリエル、ギプスカッターを」
渡がギプスを切断していく。
回転ノコギリのようなものが高速のモーター音を鳴らしながら、ギプスが切れた。
重しを外された足は軽かったが、同時に支えを失って、まったく安定感を感じない。
「さあ、飲んでください」
「分かりました……んぐ……」
ゴクゴクと一気に飲んだ。
さあ、これで何が――!?
体が、膝が光ってる!?
「あつっ!?」
急な熱を感じたと思ったら、光が収まった。
それと同時に、関節が外れていたのでは、と思うような不安感がなくなり、自分の膝が
治ったんだ、と本能的に直感した。
恐る恐る椅子から立ち、体重をかける。
高尾はゆっくりと、確かめるように膝を動かした。
何度も執拗に、色々な動きを試し、その度に治ったことを実感する。
「おれ、またサッカーができるんですね……」
高尾が顔を手で押さえた。
声が嗚咽で震え、押さえた手の隙間から、たくさんの涙が溢れて、床を濡らす。
「おれ……がんばります……」
ぐすっ、ぐすっと鼻を鳴らし、うっ、うっと嗚咽をあげ続ける。
胸の内に湧き上がったのは、堺への感謝と、そして何よりも両親への深い感謝だった。
「いやー、治ってほんとうに良かったっすねえ!!」
飯田の明るい声が、喫茶店に鳴り響いた。