渡は土壁と石壁に近寄った。
渡が指定した通り、高さはおよそ三メートルほどもある。
成人男性が上に手を伸ばして、なお一メートルほどの余裕のある高さだ。
相当な力量のあるパルクール選手でもなければ、生身だけで越えることは不可能だろう。
石壁は表面がザラザラとしていて、どっしりといかにも重そうで、かつ堅そうだ。
石壁の継ぎ目はほとんどなく、薄い刃物を差し込むのも難しそうに見えた。
叩けばペシペシと音がして、ひんやりと冷たい。
土壁の方は表面がツルツルとしていて、わずかに光沢がある。
釉薬を塗った陶磁器の質感に似ている。
非常に硬質だが、同時に脆くないのか少し心配になった。
こちらも叩けばペシペシと音がしたが、少しだけ音が高い気がする。
渡は振り返って、ステラを見た。
ステラは杖を手に、満足気に壁を見ている。
「ものすごく硬そうだけど、衝撃で割れたりしないのかな」
「生半可な衝撃なら大丈夫ですよぉ。ただ、衝車を持ってこられたら壊れると思いますぅ」
「それはわたくしの石壁でも同じですわ……」
「そりゃそうだ。まあ壊そうと思えば、それこそ業者に頼んでも壊れるから一緒かな。しかしステラとクローシェでかなり疲れ方に差がありそうだね」
「わたしは精霊魔法を使って、負担を肩代わりしていただきましたからぁ」
「ステラさんの精霊を見る眼の力ですか……」
マリエルが感心して頷いた。
精霊は誰にでも見れるわけではない。
左右色違いであるヘテロクロミアのステラだからこそ、精霊を常に見ることができる。
以前にステラは、この国には多くの精霊がいると言っていた。
精霊の一つ一つは小さく、大きな力を持っていないとのことだが、それでも自分の能力だけを頼りに魔法を組み立てたクローシェよりも、はるかに効率的に魔法を使うことができるようだ。
「ただ、わたしの魔法は大まかなイメージしか伝えられないんですよねぇ。だから、クローシェさんのような美しい石壁は難しいと思いますぅ」
「ほっ!? オーッホッホ――」
「クローシェ、待て」
「――わん……」
渡が落ち着かせようと、肩をぽんと叩くと、自分の状況を思い出したクローシェはすぐに肩を落とした。
すぐに調子に乗ろうとする。
今凹まされたところだろうが!
ステラは謙遜しているが、別に美しい壁が必要なわけではない。
大切なのは、ここを侵入するのは大変そうだな、という示威行動ができれば良いのだ。
壁の反対側に回ると、深さ一メートルほどの堀ができていた。
手をついて登ることは可能だが、壁の高さを考えると、とうとう乗り越えるには相当難しいだろう。
「これなら侵入対策はバッチリだな。負担にならない範囲で、少しずつ壁を広げていってくれるか。無理は絶対にしなくて良いからな。クローシェもステラも、倒れられたら困る。とくにステラはポーションの製造が第一だから、無理は禁物だ。良いな?」
「分かりましたぁ」
「了解しましたわ! わたくしの汚名返上のチャンスですもの。無理せず確実に構築していきますわよ!」
「本当に頼むぞ。ステラ、悪いがクローシェが無理をしそうなら教えてくれ」
「し、信用ありませんわね」
「信用は行動で示し続けるんだな」
どの口で信用などと言えたものか。
クローシェががっくりと肩を落として、尻尾をぶらーんぶらーんと揺らしているので、思わず苦笑が漏れてしまった。
ステラ、クローシェの二人が壁の建設に取り掛かっている間、渡は工房の中に入った。
日本で買い揃えた秤に、ビーカーやフラスコ、分流器、シャーレ、薬匙やピンセット、多数のガラス皿や点滴器などの道具が整然と並べられていた。
ステラは几帳面な性格らしさが出ていた。
あるいは、厳密な結果を求める実験をするからこそ、他の物質が混入しないように、徹底されているのかも知れない。
分量を間違えることで薬が毒になることも珍しくない。
渡は角のスペースで、置かれていた大きな石を前に、胡座をかいて座った。
手元には彫刻刀とペンが置かれていて、石は台座に強固に固定されていた。
マリエルが手頃な椅子に座って眺める。
「けっこう大きな石ですねえ」
「本当はもっと小さくても良いみたいなんだけどな……」
石の大きさはお地蔵さんよりもさらに一回りほど大きい。
わざわざ大仏師、榊原千住に頼んで取り寄せてもらった物だ。
あの豪放磊落な男は、特に理由も聞かずに手配してくれた。
相変わらず数年先どころか十年以上先まで仕事で埋まっているらしく、お弟子さんが実際は手配してくれるようだった。
渡が山に石を持ってきた理由は、これを彫って転移する拠点を作るためだ。
いまだラスティから指導されている途中の身とは言え、最初の数文字だけは許可が降りている。
作業自体に時間がかかるだろうから、わざわざこっちに来た時には、先に手を付けておきたい。
正確に、正確に教えられた文字を思い返し、石の上に線を引いた。
これから石を彫って、文字を刻んでいく。
墓石を彫っているような業者ならば一瞬でできるだろう工程だが、渡が手ずからすることに意味があった。
引いた先に合わせて鑿を当てて、木槌で軽く叩く。
コッ、コッ、と音を立てて、本当に少し、石に傷が入った。
「石が大きいと、微妙な調整がしやすいだろう?」
「その分、掘るのは大変そうですけど」
「それは仕方ないと諦めるよ。失敗して大事故が起きるよりよっぽどマシだ」
「それもそうですね。でも、見ていることしかできないなんて、申し訳ないです」
しょんぼりと力になれないことを落ち込むマリエルだが、自分にしかできないことがある、というのは渡にとってはむしろ救いだった。
異世界と行き来して成功し始めているとはいえ、転移ができる人なら、別に自分でなくてもいいのでは、と思えることも多い。
マリエルたちが優秀だからこそ、もはや自分がいなくてもすべてが上手く回っていく気がしていたが、こればかりは自分がやらなくてはならない。
とはいえ、力になりたいと言ってくれるのだ。
彫刻なんて不慣れな仕事で疲れるだろう筋肉を、後でマリエルには揉みほぐしてもらいたい。
「それじゃ、終わった後にマリエルにはたっぷり癒やしてもらおうかな」
「は、はい……。わかりました。精一杯ご奉仕させていただきます」
「え? 肩がコリそうだから、マッサージしてもらおうかなって……スマン。今はそっちの意味じゃなかったんだが……」
「っ……!? ~~~~~ッ!? ご、ご主人様の意地悪」
「いやあ、マリエルはエロい女の子だなあ」
「知りません!」
ボッと顔に火がついたかと思うほど赤面したマリエルが、手で顔を覆う。
耳の先まで真っ赤になっていて、とても反応が可愛らしい。
これは二重の意味で癒やしてもらわないとな、と渡は大きな声で笑った。