本来誰に対しても、王様だろうと物乞いだろうと差別も区別もなく平等に流れる時。
それを一瞬とは言え、加速させたり減速させる時と空間の神の力は本当に強力だ。
クローシェが渡のもとに居続ける権利を勝ち取った後、渡は教会に連日通い続けた。
先述の効果はあくまでも副産物。
一番の目的は、ゲートの新設ができるようになることだ。
渡が勉強している間、エアとクローシェは、ギエンのところとは違う道場を訪れて、腕を鍛えているらしい。
クローデッドに勝利して以来、クローシェは絶好調らしく、連日満足そうな高笑いとともに帰ってくる。
いつか致命的な失敗をしでかさないか、少しだけ心配だ。
教会では、ラスティは非常に協力的で、好意をもって迎えてくれた。
面倒なことを頼んでいるというのに、嫌な顔をするどころか、嬉々として迎えられる。
それどころか、「貴方を助けることが神の教えを守ることに繋がるのです」などと言われ続けていると、ついこの女性は俺を好きなんだろうか、などと勘違いしてしまいそうになる。
勘違いするなよ、と自分に言い聞かせなければならなかった。
いや、本当に満面の笑みで、なんだったら嬉しそうに頬を染めて迎えられたら勘違いしそうにもなる。
ウェルカム商会についての話が出てきたのは、渡が連日の学習によって、ゲートに必要な文字を学習するのに、およそ三割ほどに合格が出たあたりのことだ。
「えっ、ウェルカム商会の人が来てない、ですか?」
「はい。事前のお話では、そろそろ追加の物資をいただけるとのことだったのですが」
「おかしいですね……。料金は前払いしているし、こういう約束事を疎かにするような店ではないはずなんですが。一度確認を取ってみましょう」
「よろしくお願いいたします。わたくしめは日々のお勤めがあって、なかなか出向くことも難しくて。お手間を掛けて申し訳ありません」
「いえいえ。最近はずっとお世話になっていますからね。むしろ俺の方こそお返しができなくて心苦しかったんです」
なにかよほどのことが起きたのだろうか。
あるいは貴族の客から無茶振りでもされて、てんやわんやになっているのかもな。
このときの渡はそれぐらいの、軽い認識だった。
ペンを置いて、ぐっと背伸びをする。
話をして気が緩んだからだろうか。
つい欠伸が出て、涙が滲む。
文字学習は渡自身の筆記用具を用いて行っているが、神の文字を学ぶのは相当に難しかった。
漢字の書き取りのようには優しくなく、正確に、慎重に取り扱わなければならない。
集中力を必要とする学習に、疲れが溜まっていた。
「ふわあああっ……。失礼しました」
「お疲れですか?」
「最近は本当に忙しくて。それにあまり勉強も真面目にしてなかったですしね」
「ふふふ。少し休憩にしましょう。根を詰めすぎても良くありませんから」
「ありがとうございます」
「そうだ! では膝枕をしましょうか」
「いやいや、とんでもないですよ」
ぽん、と手を叩いて、とんでもないことを言った。
いやいやいや、この人一体何を急に言い出すのか。
「とはいえ、ここには寝具はありませんし……。やっぱり膝枕が一番落ち着きますよ」
良い年した男と女が密室で膝枕など、なにか間違いが起きる距離感ではないか。
ドキッとした渡だったが、ラスティは強引に体を寄せると、肩に手をおいた。
「ほーら、緊張しなくて結構ですよ」
「あっ……ちょ、ラスティさん?」
ラスティが優しい声色で、渡の目を手で覆った。
そのままそっと押し倒されて、渡はラスティの膝の上に頭を置いた。
柔らかく、それでいて弾力のある心地よさ。
そのままゆっくりと頭を撫でられる。
性的な快感とはまた違う、ホッとする心地よさに渡の表情が緩む。
膝枕状態での視界は極上空間だ。
バインと突き出た胸部で、視界の半分が遮られている。
というか、そのせいでラスティの顔もまったく見えない。
そして頭を撫でられ続けて、なし崩し的に受け入れさせられた。
意外とこの人頑固だな。
ボロボロの極貧状態でも教会を支え続けるだけあって、意志が強い。
「よくここの孤児にしてあげてるんですよ。……ただ、こんなこと、誰に対してもやってるわけじゃないので、そこは誤解しないでくださいね」
「はい……」
「ほら、リラックスして。緊張してますよ」
「緊張もしますって。もう……」
誰が年若い女性にいきなり膝枕をされて、一切緊張せずにいられるっていうんだか。
とはいえ、ラスティはまったく気にした様子もなく、落ち着いている。
ここで渡ばかりが気にしていても仕方がないのだろう。
思えば激動の一年だった。
渡の環境は激変し、政財界のトップに出会ったり、他国の要人や国王とも交渉し、異世界の貴族相手に商品を売りつけた。
おまけに近頃ではクローシェを手放すかも知れない緊急事態まで迫っていた。
刺激的で楽しく、高揚感に溢れる毎日だったが、同時に心身を消耗させていたのだろう。
なんだか本当に久しぶりに、心底ゆっくりと安らぐことができているのは、ラスティが助祭という包容感溢れる職にいるためか。
ゆっくりと頭を撫でられるたびに、体から緊張が抜けて、精神が解き放たれる。
しばらくすると、静かに寝息を立てる渡の姿があった。
「ふふふ……安心しきった顔ですね。わたくしめを信頼していただいて、嬉しいです。貴方様にはこれから多くの苦難が待ち受けるでしょうが、どうかご健勝で……」
慈母のように、慈しみに溢れた表情を浮かべたラスティは、寝入った渡の頭をずっと優しく撫でていた。
そうすることが、傷つきささくれだった心を少しでも癒せるのだと言わんばかりに。
◯
仮眠から起きた渡は、教会を慌てて後にした。
めちゃくちゃ気恥ずかしかった。
だが、心身ともに回復したのはたしかだ。
ラスティの少しだけ気恥かしくした様子に、渡はますます照れてしまった。
次からどんな顔をして会えば良いのか。
あー、うー、と唸る渡のおかしな態度に突っ込むこともなく、一行はウェルカム商会に向かう。
さすがに確認しておかなければならないだろう。
ゼイトラム神の教会はまだまだ経営が安定していない。
渡の援助がなければ、再び貧困状態に逆戻りしてしまう。
そうして足早に商会に赴いた渡たちだったが、到着して目に入った光景に、揃って思わず言葉を失った。
「なんだこれ……」
「何があったんでしょうか。少し怖いです」
「倉庫の商品がガラガラだね」
「人の気配も少ないし、残ってる人も殺気立ってますわ」
「あなた様、できれば一直線に店長に会ったほうが良いかと思いますぅ」
貴族向けに多くの商品の箱が積まれていた従業員用の出入り口が、今はガラガラになっていた。
そして――。
「ああ、渡様でしたか。ぅぇるかぁ……む…………」
「ウィ、ウィリアムさん……?」
店にいて出向いたウィリアムからは、あの象徴的な挨拶の勢いがまったく失われていたのだった。