お地蔵さんと祠のゲートを渡って異世界に入ると、渡はホッと息を吐いた。
むせかえるようなアスファルトの熱感から解放されたからだ。
南舟町は高層建築物が少なく、日陰も多くはない。
だが、代わりに室外機による高温化とも、熱されたアスファルトの暑さとも無縁だった。
というか、湿度がだいぶマシな分よっぽど過ごしやすい。
「暑いのは暑いけど、こっちの方がかなり涼しいんだよな」
「そうですね。ご主人様の家の中は快適ですけど、外はビックリするぐらい暑いですよねえ」
「アタシあの暑さ苦手……。燻製になっちゃいそう」
「俺は『清涼の羽衣』があったから助かってるけど、二人にも似たような付与の服があってもいいかもなあ」
「ぜひお願いします」
「アタシは……動きやすいやつだったら欲しい。なかったらガマンする……」
「エアは無理するなよ」
「ダメ。動きづらいのは守れないから」
清涼の羽衣は、以前ウェルカム商会で買い求めたものだ。
日本の酷暑では特に役に立っていて手放せない。
とはいえ、渡としても一着だけでは替えがないために、また手に入れたいところだった。
マリエルも暑さには苦労しているようで、少し元気がない。
エアなど家から出た途端、尻尾が垂れ下がってへばってしまっていた。
それでも護衛としての仕事は万全にこなそうとする仕事意識の高さは信頼に値する。
エアの仕事の忠告は全面的に信用することにしている。
だからこそ、良いものがあったら買い与えてあげたかった。
ゲートから出て、そのまますぐ歩き始める。
「しかし今日は忙しくなりそうだな」
「この街に今日来た一番の理由は、薬師ギルドに訪問することですよね?」
「ああ。だがその他にもやるべきことは多いぞ」
「ウェルカム商会に顔を見せて砂糖の補充を行ったり、以前から頼んでいた物件の内見を行ったりしないといけません。時間に余裕がなさそうですね」
「ひとまずは持ってきた砂糖を預けて、お金を回収しよう」
「はーい」
お金には急に困らなくなってきた渡だったが、忙しさは段違いだ。
貧乏暇なしとは言うが、今は前よりも違う忙しさを感じる。
(それでも月々の生活費の支払いで汲々としていた頃に比べたら、精神的な充足感がまるで違うけどな)
渡たちは相変わらず大通りを歩いているのだが、何度も行き来をしていて、なんとなく街の様子も分かってきたことがある。
知識が増えることで、同じ景色を見ていても、見えるものはずいぶんと変わってくるものだ。
治安のことも考えて、渡は基本的には大通りしか歩かない。
自然と最低限は綺麗な身なりをした人が多くなり、またある一定以上の身分の人は何らかの付与がかかった物を身に着けている。
それは表から露骨に見える場所に飾っている者もいるし、服やベルト、靴といった一見どうなのか分からない形で身に着けている者もいる。
渡のサマーセーターも後者のタイプだ。
中には耳に驚くほどたくさんのピアスを着けていて、そのすべてに付与がかかっている(であろう)人物もいた。
そんな社会では、見た目で安易に能力を判断すると痛い目に遭うことも出てくるだろうし、同時にみすぼらしい見た目だとますます嘗められる危険も高くなる。
また、金と適した商品を手に入れる運さえあれば、能力を底上げをして這い上がれる可能性もありそうだ、ということが分かった。
この世界に来た当初、相当奇抜な服装をしていた渡がごろつきから狙われつつもすぐさま襲われず、警戒されていた理由もそこにあった。
この国の貴族や大商人たちはどれほどの品を身に着けているのか、興味が掻き立てられる。
そして同時に、そういった付与を得ずにガラドドスと一蹴して見せたエアの底知れない強さにも、ますます信頼がおけるというものだった。
借りる予定の倉庫は祠からほど近いはずだが、先に一度ウェルカム商会には顔を出さなければならない。
商会に着く頃には、体の暑さも多少は収まり、エアもマリエルも元気を少し取り戻していた。
「こんにちは、ウィリアムさんいますか?」
「おお、ワタル様! お待ちしておりましたよ! さあさあ、マリエル様とエア様もこちらに!」
今回はいきなり応接室に案内された。
その動きがいつになく性急だったように渡には感じる。
さっそくお茶が用意された。
室内は湿度がさほど高くないため過ごしやすい。
「よく来てくださいました。お久しぶりですね。最後はモイー男爵に会いに行かれたのでしたか」
「はい、その節はお世話になりました。おかげでエアが愛剣を取り戻すことができました」
「ほうほう。それは良かった。モイー男爵と言えば知っていますか?」
「なんでしょう?」
「最近なんでも珍しい万華鏡なる美術品を手に入れたらしく、衆目を集めているのだそうです。いったいどこでそんな物を手に入れたのやら」
「ははは、そうですねぇ……」
渡は苦笑いを浮かべて茶を飲んだ。
それを交渉したのは私ですよ、とは渡も言えなかった。
言ってしまえば、どこで手に入れたのか、他にも手に入るのかと話が続くに決まっている。
ウィリアムにはとても世話になっているが、販路を一つに絞ってしまうのは依存関係を作ってしまい健全ではない。
かといって断れば世話になっていて角が立つ。
ウィリアムとはぜひとも仲良く付き合いを続けたかった。
そんな渡の態度になにかしら感じるところがあったウィリアムだが、あえて嘴を突っ込むような愚かな選択は取らず、椅子の座る位置を調整すると、次の話題を振り始めた。
お互いに適切な距離を取れる関係だった。
「じつは、ワタル様にぜひお会いしたかったところなのです」
「何かありましたか?」
「はい。実は砂糖の需要がかなり大きくなってきましてね。先日お預かりしていた在庫がすべて捌けてしまったのですよ。追加の注文も来ていて、お待ちいただいている状況です」
「ええ、すごいですね。たしか十二袋ありませんでしたっけ」
「左様です。初回ということで皆様に同一料金で支払いいただきました」
「凄い金額になりますねえ」
「ただまあ、元々が吹っ掛けた価格だったので、次回以降はさすがに同料金では売れませんがね」
渡は素直に驚いたが、ウィリアムは苦笑を浮かべた。
金貨一〇〇枚が十二袋で、一二〇〇枚。
金貨一枚が一〇〇万円ほどになるので、十二億。
これを一月そこらで稼いでしまうのだ。
渡も儲けているが、ウィリアムは桁が違う。
もちろん、その儲けは適切なところに売りに出すウィリアムの商才あってのものだが、すさまじいものだと感心してしまった。
それにウェルカム商会は何も砂糖だけを取り扱っているわけではない。
それこそ無数にある商品の一部でしかないのだ。
とはいえ、貴族相手の大きな商いなのは間違いないし、商品を用意できなければ困るだろう。
渡はリュックに詰めていた砂糖を取り出すと、ウィリアムに渡した。
そして、すぐさま対価が用意される。
前回未払いだった砂糖十袋分と、今回の六袋分。
金貨一六〇枚の大金だ。
「今後は初回の取引は同じく金貨一〇〇枚を条件にしようと思います。それで断るような家の方なら、そもそも長いお付き合いは難しいでしょうし」
「相手は貴族だけですか?」
「ひとまずは。その後は商会にも手を広げていきたいところですが」
さすがに一つの大袋ではなく、複数の小袋に詰められて金貨が支払われた。
実際に一度に持ってこられて気づいたが、硬貨を一枚一枚数えて確かめるのはそれなりに面倒だ。
「さすがにこれだけの金額を一度にだと、重たいですね。エア、悪いけど鞄に入れてくれるか」
「分かりました」
最近は一気に大金を扱うことが増えてきて、感覚がおかしくなりそうだった。
(今でもお金を持ってると、周りの目が気になって仕方ないんだよな)
つくづく小市民だと実感するが、いずれ動じなくなるのだろうか。
「私も信用できる護衛や輸送人員を雇う必要が出てきましてね。今は人探しの最中ですよ」
「取り扱うものが貴族を対象にしていますし、大変ですね」
「万が一盗賊なんかに取られると大損ですよ」
「私は前にガラドドスとかいうモンスターに襲われましてね。エアがいなかったら大変なことになってましたよ」
「大丈夫だったのですか?」
「ん、よゆーだった!! アタシは強いからね! にししっ」
「とまあ、そんな感じです。強かったのは本当ですね。一瞬で蹴散らしてましたよ」
「はー、なんともまあ。見た目は可憐な少女ですが、優秀な戦士なのですなあ」
「エッヘン!」
「エア、大人しく座ってなさい」
いい気になったエアが爆乳を突き出してブルンブルンさせている。
マリエルが𠮟責しているが、堪えた様子はない。
ウィリアムが直視しない自制心を持ち、またエアの態度に気を悪くしない鷹揚さを持ち合わせていたのは幸いなことだった。
(エアはどうもウィリアムさん相手だと調子に乗るところがあるな。今夜はまたお仕置きかな)
渡はウィリアムに頭を下げながら、どうにかしてエアをコントロールできないか頭を悩ませるが、いい案はない。
なんというか、この大らかさを許されてきた種族、という気がする。
「しかしこれで一息つけそうです。助かります」
「追加もまた持ってこなければなりませんね。そうなると保管できる倉庫がやっぱり必要です」
「その伺っていた倉庫ですが、ご指定の場所の近くで良い物件が見つかりました」
「あっ、そうですか!」
「やったね主!」
「ああ。倉庫には荷車も置いとこう。これでまとめて運搬もできるぞ」
「同じ通りの五十歩ほど先にあります。大きさや家賃も手頃ですし、まずお勧めの物件ですよ。保証人はもしよろしければ私が務めましょう」
「何から何までお世話になってすみません」
「今後もよいお付き合いをしたいものですからな。先行投資ですよ、先行投資」
儲けのためだと言われて、渡も気が楽になった。
もちろん儲けだけではなく、親切心も大きいだろうことは、これまでの付き合いから疑いようがない。
何も知らない渡を騙してさらなる大金を得たり、不本意な契約を結ばせて好き勝手もできたはずなのだから。
「それでは、よければ倉庫を案内いたしましょう」
「よろしくお願いします」
「ウェルカーム! ……じゃなかった。よろしくお願いしまーす!」
「エア、今晩お仕置きな」
「私もお手伝いしますわ」
「う゛にゃにゃっ!?」
ウィリアムの案内に従って、渡たちは不動産屋へと足を運んだ。