その一帯にだけ、辺りの喧騒がふっと途切れたような静けさがあった。
まるでお寺や神社の中に入ったような、不思議な静けさだった。
長時間人ごみの中にいてそれなりに緊張していたからか、渡たちはほっと肩の力が抜ける。
途端に少し疲労を覚えた。
「こんにちはー、こちら見させてもらっていいですか?」
「どうぞ」
渡の声掛けに、美女は言葉短く答えた。
だがそっけない感じはしない。
わずかに笑みを浮かべているからだろうか。
応えの声は涼やかで、聞いているだけで心地よく感じる美声だった。
商品もだが、つい渡は美女の顔を観察してしまう。
調和のとれた細面で、切れ長の目が特徴的な女だった。
年齢は二十代後半、行って三十代前半だろうか。
睫毛が長く、瞳はアッシュグレー、紫がかった長い髪を髪飾りで留めている。
紫紺のゆったりとしたローブを羽織っているが、豊満な肢体は隠しきれていない。
相当な美女だった。
あまりじろじろ見ると失礼と思い、渡は視線を商品に移す。
「こちら素敵なネックレスですけど、なにか付与がかかっていたりします?」
「ええ。とっておきのものが。貴方ならきっと気に入ると思いますわ」
美女が微笑みかけて答えた。
口の端をクッと持ち上げるような上品な笑い方。
とっておきというからには、かなり貴重なものなのだろう。
もったいぶるような口ぶりに興味が湧く。
「へえ。拍子抜けにならないと良いんですけど。どんな能力か教えてもらえますか?」
「これはね……『変身』のネックレスなの」
「変身!?」
「マリエルは知っているのか?」
「ええ。大抵の貴族なら持っている物ですよ」
美女の答えに大きな反応を示したのは、渡ではなくマリエルだった。
表情を急に険しくさせて、ネックレスに顔を近づけて凝視している。
突然の変化に、渡は驚いてまじまじとマリエルの顔を見つめた。
マリエルは真剣な表情でネックレスの細部までを観察していた。
ネックレスは非常に細いチェーンでできており、銀のような色合いをしている。
二センチほどの宝石の中に様々な色と輝きが混入されているが二つとして同じ色はない。
とても美しい宝石だった。
マリエルが反応したのには理由がある。
『変身』の能力は実際に姿が変わるのではなく、他者からの見た目を変えるという能力だ。
その効果故に諜報活動や犯罪行為に重宝されている。
為政者は防諜や防犯のためこれらの所有を厳しく制限し、また回収していた。
だが、諜報員や犯罪者が何らかの理由で死亡したり捕縛された後、世間に出回るケースもないわけではない。
元貴族であるマリエルが知らないわけのない能力だった。
マリエルが小声で渡に話しかける。
「ご主人様、これは何としても手に入れましょう。見逃せば運や太いコネクションがないと手に入らないものです」
「そんなすごい品なのか?」
「商品としての価値はもちろんですが、これから否応なく注目を集めるご主人様に必要不可欠な道具です。姿を変えれば顔を覚えられず、余計な注目も避けられます」
「なるほどな。ついでに俺もイケメンになれるわけか」
「ご主人様は今のままでも十分素敵ですよ」
「あ、ありがとう……。ごめん、ちょっと本気で照れてる」
渡は現時点でも砂糖を売ってウェルカム商会から王都に、万華鏡からモイー男爵に影響を持ち始めている。
今後、富以外に余計な騒動や注目を集めてしまうことは容易に想像できた。
渡が姿を変えられれば避けられる騒動も少なくないだろう。
エアの護衛にも役立つと思われるし、なによりも獣人として目立つエアの耳と尻尾をごまかしながら日本で活動するのにも良さそうだった。
目の前で急にいちゃつき始めた二人に、美女が冷めた目で見つめていた。
「相談は済みましたか?」
「ええ、すみません。こちらはいくらで販売されてるんですか?」
「そうねえ……。領主とかに持っていったら金貨五枚ぐらいだし、最低でも同じぐらいは欲しいわね」
「なるほど。マリエル?」
「大丈夫です。ご主人様の顔は悪くありません。それに私とエアがいるじゃありませんか」
「その話じゃねえよ。金額の話だよ。あとその言い方だと俺がブ男に聞こえるんだが?」
「そうでしたか。まあ妥当な金額だと思いますよ」
(今度絶対にお仕置きしてやる)
渡は財布の中身を確認する。
手持ちの資金は金貨十枚が残っていたから、出せない金額ではなかった。
南舟町に戻ればウェルカム商会から新たに支払われる予定もある。
「商品を確認させていただくことは可能ですか?」
「もちろん。ただ持ち逃げされても困るから、ここで使ってね」
「分かりました。エア、一度着けて、耳と尻尾が隠せないか試してもらえないか?」
「分かった。なんだか面白そう」
エアがネックレスを持つと、首にかけた。
目の前で見ていても信じられないような不思議な光景だった。
マジシャンが目の前のコインやカードを一瞬にして消してしまうように、不意にエアの耳と尻尾が見えなくなる。
じっくりと観察しても普通のヒト種の少女にしか見えない。
「どう?」
「見ていても信じられないけど、獣人じゃなくて俺と同じヒトにしか見えない」
「えへへ。おそろいだね」
「エア、ちょっと頭触るぞ」
「ん。……あひゃっ!? 耳に指突っ込んだらダメっ!」
「わ、悪い! 見えなかったんだ」
「う~~~~!」
エアが悲鳴を上げたので、渡は慌てて手を引き戻した。
涙目になってエアが睨みつけてくる。
よっぽど不快だったらしい。
「ふふふ、どうかしら?」
「ありがとうございました。これで安心して買うことができそうです」
トラブルはとにかく、商品としての効果は間違いなかった。
マリエルが頷いたのを確認して、渡は鞄から財布を出すと、テーブルに並べる。
カチャリ、カチャリと澄んだ金貨の音が鳴り響いた。
「これで金貨五枚ですね。ではいただいていきます」
「はい、お買い上げありがとうございました。じゃあ渡り人さん、またどこかでお会いしましょう」
「え? ……いない!」
「ええっ!?」
「気配も臭いもまったくなくなってる」
店を去ろうとしたとき、耳慣れない言葉に気づいて渡が振り返った時、そこには何もなかった。
美女の姿はなく、店のテーブルや幌といった設備も消えている。
多くの店が並んでいる中、ぽつんと空き地になっていた。
渡たちは呆然と顔を見合わせていた。
辺りに喧騒が戻り、邪魔になりそうだったので慌てて移動する。
「なんだったんだ?」
「さあ……。エア、ネックレスは?」
「ある。今もつけてる」
「それは残ったままなのか。なんか狐に化かされたような話だな」
「妖精の気まぐれか魔女の悪戯でしょうか……」
「ん?」
「え?」
「なんだその妖精の気まぐれって」
「ご主人様こそ。狐が化けるってどういうことです? 狐は狐ですよ」
どうやら似たようなことわざが存在するらしい。
エアが『変身』のネックレスの能力を使って、狐のような耳と尻尾に変身し、ぴょこぴょこと動かして笑いを誘う。
渡はマリエルと顔を見合わせて、異世界でも同じような体験がすることに気づいてしばらく笑いあった。
不思議な体験だが悪意を感じなかったことと、商品が確かなことを前に、疑問を覚えながらも気持ちを切り替えることにした。
そしてその夜、三人はモイー男爵が勧めた星見ヶ丘の丘に来ていた。