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第38話 乾杯

 黄昏時だった。

 日が丘の向こう側に沈んでいき、空が紅く染まっていく。

 モイー男爵の城が夕日を背にして色濃い影を作っていた。


「きれいな空だなあ……。今考えれば、こうして空を眺めて楽しむ余裕もなかったんだ」

「お疲れ様でした。貴族との交渉は本当に大変だったと思います」

「主、ほんとうに、ほんとうにありがとう」

「まあこうして終わってみればいい経験になったよ。それにこれからもいい商品を売ろうと思えば、貴族を相手にすることも増えそうだしな」


 空が赤から宵へと少しずつグラデーションしていく様を見つめながら、渡たちは道を歩いていた。

 商業地区の繁華街の通りだ。

 仕事終わりの職人たちが忙しなく行き来している。

 風呂に向かうもの、家に帰るもの、そして繁華街の飲食店に消えていくものなど、向かう先は様々だ。


 ランプに照らされた店の看板はぼんやりと明るく照らされ、ビールジョッキのようなものから、ステーキ肉にソーセージ、魚、スープが売りなら野菜と鍋など、それぞれの得意とする料理をシンボルにしている。


 どの店に入ろうかはまだ決めていなかったが、せっかくだから美味しいものをたらふく食べたい気分だった。


「今日は商談の成功を祝ってたっぷり食べるぞ!」

「楽しみですねえ」

「おうおう! アタシも食べるぞー!」


 いつもと変わらぬ騒がしさだが、変わった点としては渡と二人との距離がずいぶんと近くなった。

 腕を絡めたり、手をつないだり、往来の邪魔にならない程度に体を触れながら、渡たちは一見の食事処を探す。


 また、これまで木刀を提げていたエアの腰には、愛剣に代わっていることも特筆すべき点だろう。

 どことなく物足りなげであったエアの背中がビシッと武人として一本の線が通っている。

 少しでも危険を察知できる腕に覚えのあるものなら、けっして渡たちには不用意に近づかない。


 ふいにとても食欲を刺激する香ばしい匂いが辺りに漂っていることに気づいた。

 おもわず唾液が出てくるような、本能を激しく刺激する匂いだ。

 匂いは表通りにある一軒の店から漂ってきているようだった。


「すごくいい匂いがするな。なんの匂いだろう?」

「これはお肉を焼いてるんでしょうけど、香草も使ってるんでしょうか」

「ふんふん、これはタプタプの肉だと思う。これは間違いない」

「エアは分かるのか? すごい鼻だな」

「金虎族は獲物を逃がさないために、鼻が利く」

「犬とか狼の種族とどっちが鼻は良いんだ?」

「そっちには負ける。でも強いのはアタシだから!!」

「分かった分かった。その点について疑ってないよ」


 エアが強く主張するので、渡は頭を撫でてやる。

 にへら、と笑み崩れる態度は美しいというよりも可愛らしい。

 そのままグリグリと頭を手のひらに押しつけてくる。

 耳のコリコリとする軟骨をくすぐると、エアの目がとろんと蕩けていくのが分かった。


 黙ってきりっとした表情を浮かべていれば美人だが、こうして話すとどことなく稚気が感じられて、美しさよりも可愛さを感じてしまう。


「ご主人様、このお店のようですね。席が空いているか聞いてみます」

「頼むよ。これだけいい匂いがしたら混んでそうだ」

「エアと少しだけお待ちください。エア、護衛は頼んだわよ」

「任せて」


 遠慮なく店の中に入っていくマリエルの姿に頼もしさを感じる。

 交渉ごとに関しては、渡よりもマリエルのほうが達者かもしれない。

 機転が利くし、すぐさま動く実行力も大したものだ。

 それでも彼女は奴隷として、主人の渡を常に立ててくれている。


 二人ともとても大切な女性たちだ。


 店は狭い個室でよければ、まだ空きがあるらしい。

 店に入ると、たしかに肩を寄せ合うような小さなスペースに、木椅子が並べられていた。

 狭いがけっして汚くはない。

 隅々まで気の行き届いた清掃がされていて、肉を焼いているはずなのに、ベッタリとした油のベタつきは一切感じられなかった。

 それだけでも好印象だ。


 店員が注文を取りに来て、オススメのメニューを頼んだ。

 目玉はやはり外まで漂っていた匂いの原因、タプタプの香草焼き。

 味付けは店で熟成されたオリジナルソースだと説明を受ける。

 飲み物はエールを頼むことにした。

 度数が低く水のように飲めるそうで、あまり酒の強くない渡でも飲めそうだ。


 それほど待つことなく料理がテーブルに並ぶ。


「それじゃあ、エアの剣に乾杯!」

「ご主人さまの御免状に乾杯!」

「かんぱーい!」


 皿に並んだのは香草焼きにされた分厚い肉だった。

 表面に焦げ目がついていて、ナイフが吸い込まれるように柔らかい。

 すうっと切り分けると、中からじゅわっと脂がしたたって、途端にむせ返るほどの香草の爽やかな香りと肉の香ばしい香りがくる。


「美味い!! 肉汁がたっぷりなのに全然油臭くない!」

「これは美味しいですねえ」

「うめうめ。主、あーん」

「おっ、おお。あーん……。なんか恥ずかしいな」

「ご主人様、顔がだらしないですよ。もう。口元が汚れてるじゃないですか」

「ん、悪い。ほら、じゃあ今度は俺がマリエルに。あーん」

「も、もう。私は奴隷なんですよ。世話を焼くのは私の仕事なのに……あ、あー……って何よエアその顔は!?」

「べっつにー。嬉しそうだなって」

「~~~~~!!」

「ほら、早く食べてくれよ」

「あ、あーん。んっ❤ ご馳走様です」


 狭い個室で肩を寄せ合ってわいわいと笑いながら肉を食べるのは楽しかった。


 タプタプは水場近くに生息する四足歩行の獣で、体重が半トンほどもある大型獣だ。

 性格は極めて温厚で大人しく、水草や下草を食べて生息している。

 野生生物としては破格の味の良さ、臭みの少なさで肉好きには評価の高い獣だった。


 肉を食べ、薄い酒で口を湿らせながら、会話は弾む。

 特に話題の中心になったのは、エアの剣のことだ。


「一族の宝なんだっけ」

「そう。一番強い戦士に贈られる」

「どういう能力なんだ?」

「主、耳を寄せて」

「こうか?」

「うん、そう。……レロ」

「うひゃあ!」


 顔を近づけた渡の耳が、エアに舐められた。

 ぞりっという鼓膜を震わせる音に首筋がゾワゾワとして、渡は飛び上がった。

 ビックリしてエアを見つめるが、エアはにんまりと笑みを浮かべていた。


「主、こういうのは人のいるところでは言えない。秘密にしておかないと」

「そ、そうか」

「そう。能力がバレるだけで対策されやすくなる」


 ドキドキとする胸を押さえながら、渡は思い出したことがあった。

 有名な剣術の奥義は一族以外には秘されていることも多いのだとか。

 相手の能力や剣筋を知れば知るほど対策が立てられ不利になる。

 だからこそ意表を突いたり、技自体を秘密にすることで優位に立つ。

 少なくとも誰が聞き耳を立てているかしれない、初めて訪れるような店で言える質問ではなかったのだろう。


「だから、知りたかったら夜に、部屋でね?」

「お、おう」

「剣だけじゃなくて、アタシのこといーっぱい教えてあげるから」

「おう……」


 ごくり、と唾を飲み込んだのは、エアの話しぶりが艶めかしかったからだ。

 少しやましい想像をしてしまった。


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