買い物を済ませた翌日、朝食を終えて再び街を探索しようと思っていた渡たちに、宿の主人から声がかかった。
モイー男爵が面会に応じるので、本日の昼過ぎに登城しろという内容だった。
モイーが昨日に帰ってきたとして、まだ次の日だ。
他にも多数の面会を望む者がいたはずなのに、あまりにも早い時期に面会が叶うことに驚いた。
一体どういう理由からか、色々と考えられはしたが、推測でしかない。
それよりは、今は急いでやることがあった。
宿の借りた一室で、渡は服を着替え、部屋に何度も入退室を繰り返す。
決まった位置まで歩き、立ち止まる。
「服はこちらを着てください。入室が許可されたら指定の位置で立ち止まって両手を重ねて体の前に」
「こ、こうか? なんだか不思議なポーズだな」
「そうです。両掌を前に向けるのは、武器を手にしていない証です。もう少し姿勢良く立って、顔は許可されるまで上げません。目線は足元辺りを見つめてください」
「難しいな」
「顔を上げて良し」
「はい。……どうだろう?」
「よろしいでしょう」
マリエルの声に合わせて渡は顔を上げる。
貴族との面会ということで、渡はマリエルから急いで礼儀作法について実戦形式で学んでいた。
マリエルの元貴族という肩書は、こうしたところでも活きている。
普通、正しい礼儀作法を習うだけでも高額な授業料を取られるものだ。
貴族の常識や社会通念、数多の知識。
そういった諸々の付加価値を考えれば、やはりマリエルの金額は安すぎただろう。
「普通、平民にそれほどしっかりした作法は求められません。ですが相手は貴族です。あまりに不作法で失礼なら処罰されますし、そうでなくとも交渉にも影響があるかもしれません」
「マリエルがいなきゃ礼儀作法ができてないと判断される所だったよ。助かった」
「こちらこそ、お役に立てて何よりです。問題は……」
「エア、だよなあ」
同じ地球でも国が違えば礼一つでも変わる。
異世界ならなおさらだろう。
口頭では事前に聞いていたのだが、実際に服を着飾って、想定された体運びをしてみるとなかなか難しい。
細かく注意を受けながら、渡はこの国の礼儀作法を学んでいく。
不安そうに渡が視線を向けたのが、もう一人の奴隷であるエアだ。
熱心に練習している主人の前で、彼女は大きく欠伸をしている。
マリエルの指導についてもアタシはいい、と断っていた。
「アタシはアタシの部族の礼儀作法があるし大丈夫なのだ!」
「まあ、失礼にならなきゃ俺は構わないが……。エアの剣を取り戻すんだからな。相手を怒らせないように気を付けろよ」
「その点はダイジョウブイブイ!」
「ほんとーかよ……」
「アタシを信じて!」
「ああ、信じるよ」
自信満々に両手を突きだしてニギニギと指を屈伸する動きからは、恐れや不安の色は一切見られない。
あまりにも自信満々すぎて、かえって心配になってくるのだが、本人が言っている以上信じるしかなく、また渡にもそれほど余裕があるわけではない。
さらに何度か練習を繰り返したあとは、渡たちは服装や持ち物をチェックして、慌ただしく食事を済ませて登城した。
○
「止まれ! 所持品で怪しいものがないか確認する」
「よろしくお願いします。こちらは非常に繊細な壊れ物で、領主様に御見せするものですので、丁重に扱っていただけると助かります」
「うむ。分かった。……ふむ、武器はコチラで預かっておく」
「エア」
「わかりました」
城門で門衛に所持品検査を受けて、城の中に入ることを許される。
エアが武器を取り上げられて不服な態度を示さないか不安だったが、渡の心配をよそに、エアは当然のように木刀を預けた。
拍子抜けするほど問題ない入城だった。
「主はアタシを見くびりすぎ。傭兵として貴族と話すこともあるんだから、武器を渡すのも知ってるよ?」
「そうか。これは俺が悪かったなあ」
「まあその気になれば武器は奪えばいいだけだしね」
「おい」
小さな声で恐ろしいことを言われて、渡は気が気ではなかった。
まあ、どこででも暴れる狂人でもないところだけは救いだろう。
そのまま門衛の一人が案内に立ち、渡たちを連れて行く。
(これから貴族と会うのか。そう考えると緊張してきたな……)
珍しい城の内部の光景を普段なら満喫しているはずだが、今の渡にはそこまでの余裕はない。
喉が渇いて心臓がうるさい。
頭が上手く回らず、しっかりしなくては、という思考ばかりがぐるぐると回った。
○
ふっと気付けば、すでに広間に入り挨拶を済ませていた。
必死すぎて余裕を失っていたが、ようやく言われていた動きができたと思った途端、思考が戻ってきたのだ。
面を上げよ、との家令の命を受け、渡は顔を上げた。
初めて見るモイー男爵の印象は、爽やかな壮年男性というものだ。
やや痩せ型で顔が整っている。
少しばかり白髪交じりの髪が綺麗に手入れされていて、後はグレイの瞳が輝いているように見えた。
「男爵様、この度は忙しい中、面会の機会を頂き誠にありがとうございます。旅の商人をしています渡と申します」
「ワタルか……。この辺りでは聞かない響きの名だな」
「はい、ここより遠い異国から来ました。今しばらくは南船町を中心に活動しています」
「我は
「そういう理由でしたか。王都に行かれていて帰還されたばかりだとか。忙しい中、こんなにも早く面会の希望が叶って不思議に思っていました」
「ふん。我の自慢のコレクションを披露しようと思ったのだが、珍しい砂糖に注目が集まってな。出所もまったく情報が出ないから、これ以上は意味がないとすぐに帰ってきたのだ」
「な、なるほど」
どこまで情報を開示して良いのか、渡は迷った。
出所を話さないということは、その者からすれば内緒にしておいて利益を得たいはずだ。
渡が不用意に話して不興を買いたくはない。
かといって知っていて黙っていても、これもまた良くなさそうだ。
話すべきかどうか悩んだ渡だったが、多忙なモイーが次の話題に移ったことで、砂糖の出どころを伝える機会を失った。
「今回の面会の理由は『大虎氷』だそうだな」
「こちらの奴隷のエアがかつての持ち主でした」
「経緯は購入時に聞いているし、紹介状にも書かれていた。ふうむ。おい、どうだ?」
「ハッ……恐るべき遣い手です。我々が命を楯にしてでも、男爵様を逃がすのが精一杯でしょう。許されるならば敵対は避けていただきたいところです」
「おおっ。お前たちをしてそこまで言わせるか」
下位貴族の男爵とはいえ、羽振りの良いモイーの下には数多の猛者が集っている。
特に身の回りを固める騎士は、精鋭中の精鋭であり、モイーも実力には信頼をおいていた。
背後を護っている護衛の回答に、モイーははじめて意外なものを見たという表情を浮かべた。
そして『大虎氷』をテーブルに置いてみせる。
「よろしい。奴隷落ちする剣闘士ということで宝の持ち腐れにならないか心配だったのだが、交渉の権利は十分にあるようだ」
「これが『大虎氷』ですか」
試されていたらしい。
『大虎氷』は日本刀と比べると鞘がとても大きい。
曲線を描いていることから片刃の刀なのだろうが、かなり大振りの刃だと想像できる。
柄は何らかのモンスターの革を使っているのだろうが、渡の目には区別がつかない。ただとても滑らかで光沢があることは一目で分かった。
武器の鑑定などできず、そもそも鞘に収まった状態だというのに、その刀からは何とも言えない風格と威圧感を感じた。
思わず背筋が薄ら寒くなる。
これを鞘から抜けばどれほどの怖さを感じるのだろうか。
(これがエアの愛剣か……。エアの反応は……?)
渡のすぐ横に控えたエアが、食い入るように見つめているが、少しも動かない。
瞬きさえもせずに見入った姿が渡の胸を打った。
今すぐにでも取り戻したいのに、必死に衝動を抑えているのだ。
なんとか交渉を成功させて取り戻してあげたい。
渡は肚に力を込めて、気合を入れた。
交渉に備えて力の入る渡と違い、モイーは極めて平静を保っている。
エアの武力を知って平然としている胆力は、貴族という地位に立脚するとはいえ、生半可なものではない。
交渉が決裂すれば、最悪自分の命すら危ういと知ってなお、平然としているのだ。
モイーの目が渡やエアから、マリエルに移る。
「ところで、君は見覚えがあるな。もしや……ハノーヴァー家の令嬢ではないか?」
「はい、以前は大変お世話になりましたマリエルです。今はこちらの渡様の奴隷となってご奉公させていただいています」
「左様か。ハノーヴァー家はたしか取り潰しになったのだったか。まあ命に別状はないようでなによりだ」
モイーの発言に、マリエルがほんの一瞬、何かに堪えるような沈痛な表情を浮かべたのを渡は見逃さなかった。
(マリエルの実家はハノーヴァー家と言ったのか)
彼女の元の姓をこんな時に知ることになるとは。
今知ったことが果たして良かったのか。
話の最中でありながら、マリエルの情報が気になってしまう。
「一度お会いしただけだと聞いていましたが、すごい記憶力なのですね」
「私のような領主は人の顔と名前を覚えるのが仕事のようなものだ。大抵の者は一度見れば覚えるし、君の奴隷のように見目良く印象に残りやすいなら尚更だ」
「
貴族同士だけでなく、渡のように面会を求める者も毎日のように訪れるだろう。
そう考えると、たしかに人を覚えるのが仕事というのも確かだ。
「俺としては、男爵様に満足していただける、魅力的な商品を準備してきたつもりです。買い戻させていただけないでしょうか?」
「よろしい。たしかに買い戻したいという気持ちも分からなくもない。我も故あって手放した逸品をなんとしても取り戻したいと思ったことはあるからな」
「ご理解いただき、ありがとうございます」
「とはいえ、我も何の得もなく手放したくはない」
「それは当然かと思います。俺も対価としてこちらの――」
貴重な品を、と渡が言葉を続けようとしたときだ。
モイーが言葉を遮って、条件を突き付けてきた。
「――そこでどうかね、君の奴隷のマリエルを我に交換するというのなら、条件を飲もうじゃないか」
「そ、それは……」
思ってもみない要求に、動転した。
どう断れば角が立たずに済むのか、渡は思考を走らせる。
だが、モイーは続けざまに言葉を発して、渡の退路を断ちに来た。
「まさか、本来なら必要ない頼みを聞いてやっている上に、貴族である我の好意を無碍にすることはあるまいね?」
続いた発言に、渡の顔にぶわりと汗が噴き出た。