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第25話 モイー男爵領への出発の準備

 資金が手に入った。

 それはつまり、モイー男爵と交渉する準備が一つ進んだということだ。

 エアの機嫌は一気に良くなり、渡に対しての信頼や好意もとても高くなった。

 フンフンと鼻歌が歌われ、可愛らしい顔に笑みが浮かぶ。

 大きな瞳が輝き、頬が上気する様は成熟した体とは反して、幼い少女のようだ。


「出発出発しゅっぱつだ~♪ アタシの剣をとりもどせ~♪」

「ちょっとエア、貴女も準備しなさいよ!」

「ご機嫌だな」

「アイ、主! アタシの剣がもうすぐ戻ってくるんだろう? すごく楽しみだ!」

「おおっと、ほら、急に抱き着くな! おっぱいに意識が行って俺が仕事に集中できなくなるだろう!」

「ちょっと聞きなさいよ、エア、貴方だけご飯も着替えもなしになるのよ」

「それはやだー、しょうがないからアタシも準備する。アタシの主はおっぱい好きだ~♪ いつもチラチラ見てくるぞ~」

「おい、その歌はやめろ。事実すぎて訂正できないだろうが」


 室内はとても騒がしかった。

 渡はダイニングのキッチンテーブルにノートパソコンを置いて、メールの返信とWEBライターとしての記事の執筆をしていた。

 もともとある企業から小さな案件を受けていたのだが、突然異世界に行き来するという非常事態を前に、進捗が遅れに遅れていた。

 担当者から進捗確認のメールが届いて、返信にどう書くべきか苦労したほどだ。


 ポーションと比べて稼ぎが大きいわけではないが、一度引き受けた仕事。

 そのままうやむやにはしたくなかった。


 エアは即席の歌を歌いながら、椅子に座る渡の体に抱き着く。

 満面の笑顔で耳をピンと立てて尻尾はフリフリ、驚くほど機嫌が良い。

 ただ奴隷としての仕事は、まったく役に立っていない。


 室内に篭もっている以上、護衛の必要はない。

 炊事や洗濯といった家事は、エアがまったくできないわけではないが、マリエルの方が上手だった。

 対してマリエルは購入した服や下着、日本の食糧を鞄に入れて、今後の旅程の準備を始めていた。


 モイー男爵領は馬車で三日の距離にある。徒歩ならば健脚の者で四日。

 普段は家に引きこもりがちな渡の足ならば、余裕を持って五日は見ておいた方が確実だ。

 幸い領都は街寄り――というより王都寄り――のため、街道を進み領地に入ってすぐにあるそうだが、日帰り旅行というわけにはいかない。

 馬車の手配ができるかどうかによっても必要なものが変わる。

 相応の準備が必要だった。


コイツら・・・・でモイー男爵が納得してくれたらいいんだけどな」

「大丈夫だと思いますよ。私も見た時ほんとうに驚きましたし」

「珍しい物を沢山持ってるんだろう? 正直不安だよ」


 準備の一つには、モイー男爵との交渉を優位に進めるための交易品も含まれている。

 その選定にはマリエルやエアの意見も大いに取り入れられた。


「主、がんばって、ね? がんばれ❤ がんばれ❤」

「わかったわかった。エアの応援はありがたいけど、今は大切な仕事をしてるんだ。道中の護衛のためにも、鍛錬を頼む」

「わかった!」

「はぁ……。ご主人様、良かったらコーヒーを淹れましょうか?」

「頼む。終わったらまた準備を進めてくれるか? 悪いな」

「いいえ、お気になさらず」


 肩に感じるエアの胸の感触に意識が全集中してしまい、先ほどから原稿がまったく進まない。

 テキストエディターを見たら「ふにふに、ぷよぷよぷるぷる」ばかり書いて文章の体をなしていなかった。

 エアは楽しみで楽しみで仕方がないのだろうが、渡としても放りだせない大切な仕事だ。

 一度気持ちを入れ替えて、ちゃんと集中して取り組みたい。


 マリエルとエアがこちらに住み始めて今日で十日。

 七月も中旬に入っている。

 マリエルは現代日本の調理器具にも慣れ始め、美味しいコーヒーを淹れてくれるようになりだしている。

 一度使い方が分かると、火力などが安定するから、むしろ使いやすいと評判だ。


 その後、渡はなんとか原稿を書き終え、マリエルは交渉の品を緩衝剤に包んで慎重に鞄の上部に詰めた。

 万が一のことを考えて、今回は二つの品を持って行くことにした。


 これがどのような効果を及ぼすのか、今はまだ分からない。




 渡たち三人が異世界に跳び、祠の前にやってきた。

 最初は警戒していたマリエルとエアだったが、さすがに安全なものかもしれないと思い始めているのか、最初の頃の緊張は感じられない。

 渡自身は驚くほど警戒心がなかった。

 なんとなく大丈夫だという根拠はないが疑う気のしない安心感を覚えていた。


 突然人が現れているというのに、相変わらず不思議なくらい人の気を惹かない。


「悪いが向こうに行く前にゴミだけ拾うぞ」

「分かりました。エア、私が袋を持つから、拾ってくれる?」

「分かった! アタシが火鋏でゴミ取る!」


 こちら側では掃除をしたことがなかったが、いくつかのゴミが落ちていた。

 お地蔵さんとこの祠がなぜ繋がっているのか、理屈では今のところ分からない。

 だが、この二つのワープができなければ、渡の今はなかった。


 そういう意味でとても感謝していて、そのまま放置しておく気にはなれなかった。

 テキパキと指示通り二人が動いてくれて、大きなゴミはすぐさまなくなった。


(モイー男爵の交渉が上手く済めば、一度しっかりと清掃しよう)

(今回の交渉が上手くいって、エアの誇りが取り戻せますように)

(辛く悲しかった過去が少しでも癒されますように)

(俺は全力を尽くすので、どうかお見守りください)


 渡が言葉もなく真摯に祈った。

 すでにとても大きな力を貸してもらっている。

 これ以上を求めるわけではなく、ただただ感謝の気持ちを伝えた。


「ご主人様はオジゾウサンとこの祠の神を信仰されているんですか?」

「さて、どうだろうな。すごく感謝しているのは確かだけど、信仰ともまた違う気がする。俺たち日本人にとって、特定の神仏を信仰する人は多くないし、俺も熱心な信者ってわけじゃないな」

「そうなんですね。てっきり私は風の神ウェルネアスの信仰心による奇跡かなって思ったんですけど」

「それはどういう神様なんだ? 前にこの街には太陽神の神殿があるって言ってたけど」


 以前はあまり触れるのは良くないかと遠慮していた話題だが、マリエルの方から質問してくれているのなら話は別だった。


「ウェルネアス様は風を主に司る神様で、そこから転じて旅、交易や商売にも通じる神様ですね。太陽神様や太陰神様みたいな主神ではありませんけど、商人の人が多く喜捨しているから、とても裕福な神殿が多いそうです」

「ふうん。その話だとたしかに俺に関係してそうだな」


 ただ、地蔵や祠がそれら風神と何らかの関係にあるのかどうかは、今のところ分からなかった。

 その理由の一つには、祠が苔や汚れに覆われて、判別がつかないというところも大きい。

 それを確かめるためにも、今度綺麗にする必要はあるだろう。


「ちなみにマリエルとエアはどの神を信仰しているとかってあるのか? ああ、嫌なら言わなくても良い」

「アタシは武神オルオルのけーけんな信者だぞ!」

「私は家が農神を信仰していたので、今も信仰しています」

「色々な神がいるんだな。今度ちゃんと勉強した方が良さそうだ」


 多神教というところは日本の宗教観と合っていて、違和感が少ない。

 中には狂信者のような危険な人もいるのだろうか。

 繊細な話題だからこそ、無知のままでいることにも、どことなく不安を覚える。


 だが、やはりこれも緊喫きっきんの問題ではない。

 今は何よりもモイー男爵との交渉と、それに向けた準備が先決だ。


「さあ、まずは追加の砂糖をウェルカム商会に届けよう!」

「はい!」

「おうー!」


 三人は足早に移動を始めた。


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