言っては何だが、エアは最初に見た時、渡という主人に大きな期待を抱いていなかった。
優しそうで、ひどい扱いは受けなさそうに見えた。
悪い人ではないけれど、極めて優れた人にも思えない。
だから奴隷として最低限、部族の誇りを失わない程度に護衛の仕事を果たそう。
どうせ期待すればするほど、後で落胆することになる。
そんなふうに考えていた。
「エアが決めるんだ」
「アタシが……? アタシが答えていいの?」
「そうだ。君は当事者だからな。奴隷だとかの身分は、今は関係ない」
「わかった……わかりました!」
「よし、頼んだ!」
だから、渡がエアの決断を求めてきたときには大いに驚いた。
奴隷の意思表示を求める主人などあまり聞かない。
命令を下すばかりだ。
特にエアの以前の雇用主は、彼女に手加減しろ、苦戦したフリをしろなど、不本意な戦いを強いることすらあった。
人族は金虎族の誇りを理解できないのではないか。
自分たちの種族以外に信用できる者はいないのではないか、と不信を抱かせるほどだった。
本当に言ってしまって良いのか、勝手な要求だと怒られないだろうか。
希望を抱いて、絶望したくない。
それなら安易に希望を抱かせられたくない。
エアは迷いながら、震える口で意見をしようとする。
その姿は少し前に見せた天真爛漫な雰囲気とは程遠い。
「アタシは――」
「――あの、ちょっと良いですか?」
「マリエルか、今はエアに意見を求めてるんだが、どうした?」
「私はエアさんが以前使っていた武器も候補に入れた方が良いと思うんです。闘技場で戦っていた剣闘士時代の扱いなれた武器は聞いたことがありますよ」
「ああ、その手もあったか。エアは剣士だったっけ?」
「うん。そうです」
渡の何気ない質問に、エアは震えた。
戦士としての誇りと、奴隷に落ちた境遇への怒り、そんな自分の身を招いた己の言動に対しての失望。
様々な感情がないまぜになって、ハキハキと話すことができない。
そんなエアの態度に不審に思ったのか、渡は気遣うように質問を投げかけてきた。
「なにか想い入れのある武器だったりするのか?」
「一族で一番の勇者に贈られる剣だった。でも、奴隷になったとき、借金の返済に売られたと思う。主催者の男が取り上げたから……」
「そっか。それは辛かったな。可哀想に」
優しく頭を撫でられて、涙が浮かびそうになった。
信頼をおいて幾度も危難を乗り越えた愛剣『虎氷』は、半身のようなものだ。
この剣と自分の腕があれば、どんな敵も倒し、どんな困難も乗り越えて見せる。
そんな自信に溢れていたこともある。
不敗を誇りながらも奴隷落ちした時、そして愛剣を失った時、エアの誇りは二度傷付けられた。
そして今、その一つが回復されようとしている。
「エアはその武器を取り戻したいか? それとも、先ほどの三つのどれかで新しい武器が欲しいかい? 俺は君の意見を尊重する」
「アタシは……アタシは……」
――取り戻したい。
売られてしまっただろう剣を、もう一度手元に置いておきたい。
だが、大業物だったはずの自分の武器は、きっととても高価い。
それこそ購入を断念した武器屋みたいに、奴隷に落ちたエアよりも高い値がついている可能性もある。
そんな物を、今お金に困っているらしい渡に要求できるものなのか。
エアには分からなかった。
エアが顔色を窺うように渡を見上げる。
渡が笑みを浮かべて深く頷いている。
「遠慮するな。まずは希望を言えば良い。判断は主人の俺がする。意見を聞いているんだから、素直に答えてくれたらいい」
「アタシは、アタシは取り戻して欲しい! もう一度、一族の誇りを、戦士の誇りを取り戻したい!」
「よく本心を言ってくれたね。俺が『約束』する。君の剣を取り戻してみせるよ」
「あるじぃ……」
頭を撫でていた渡が、エアをぎゅっと抱きしめた。
けっして体格に優れるわけではないが、とても力強く、人としての温かみを感じる。
ああ、この人はアタシの気持ちをちゃんと理解してくれてる。
頼もしい姿に涙が浮かびそうになった。
「良かったね、エア。取り戻してくれるって」
「うん、うん……」
「渡様に奴隷の購入を勧めた判断は正しかったようですな」
マリエルがそっとエアの背中を撫でてくれる。
主人だけじゃなくて、同僚にも恵まれた。
奴隷に落ちたことは幸せなことではなかったけれど、その不幸の中にも幸運はあったのだ。
一生懸命に生きて、逆に怒られた。
一族の誇りを穢されたと思ってすべてに投げやりになったが、これも自分を理解してくれる主人に巡り合うためだったのかもしれない。
金虎族は認めた主人に忠誠を誓い、命尽き果てるまで戦う。
一度信じればけっして裏切らないし、疑わない。
無二の信頼を預けるのだ。
まだそこまで信頼するには早いが、渡はその主人に相応しいかもしれないと、エアは思いはじめていた。
このまま本当に渡が剣を取り戻してくれたその時には……。
渡が真剣な表情でウィリアムに向き合う。
「ウィリアムさん、今、彼女の愛剣がどうなっているか、調べる方法はありませんか?」
「そうですね……。マソーさんから遡れば売り払った先や買い取り先も分かると思いますよ」
「そうか。仕入れ先に伝手があるわけですね」
渡の発言にウィリアムが頷く。
どうやら取り戻すのも難しい話ではないかもしれない。
希望が湧き上がっていく。
「商人か好事家か、あるいは貴族の手に渡った可能性が高いですね。良かったら彼女に一筆
「ありがとうございます! ……でも、奴隷商の件からずっとお世話になってて、良いんですか?」
「もちろんです。といっても私は商人ですからね。誰に対しても同じ様なサービスをしている底抜けの善人とは思わないでいただきたい。変な噂が立って、恥知らずが大挙しても困りますからね」
「ご厚意に感謝します」
渡が深々と頭を下げた。
自分のために、主人が頭を下げている。
その姿を見た時に、まだ何の役にも立っていない奴隷のために頭を下げる、この変わった、だけど優しい人に忠誠を捧げようとエアは思った。
世の中にはこの優しさにつけこもうとする悪人が、きっと沢山いるだろうから。
○
ウィリアムがサラサラとその場で手紙を書き終えた後、手紙を渡に渡した。
ところが、渡はエアに手紙を渡してしまう。
エアは驚いて目を見開きながら、手紙を受け取った。
「こちらをマソーさんにお渡しください」
「エア、大切な手紙だ。君がしっかり持っているんだ。いいね? ウィリアムさん、本当にありがとうございます」
「わかった。ぜったい手放さない」
「まあ、恩に着ていただく必要もありませんよ。私としても、ワタル様にはご相談したいことがありましたしね」
「なんでしょうか。ここまでお世話になっていますし、できる範囲では協力したいところですが」
今度はウィリアムが相談を持ちかけ始めた。
これまで優しげな眼をしていたウィリアムが、表情はそのままに威厳を感じさせる。
ごくり、とエアは唾を呑み込んだ。
(この商人は武器を持たないけれど、アタシとはまた違う戦いをする歴戦の戦士だ)
エアは目と口と頭で戦う商人の戦い方が分からない。
だが、身に纏う雰囲気で素人なのか、警戒すべき熟練者なのかの違いぐらいは見極められた。
渡とウィリアムの二度目の商談の始まりだった。