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高崎スピンオフ アンリミテッドパラノイア

※残酷な表現アリ。




 名前を忘れた女がいる。

 顔も知らない女がいる。

 大事だったはずだった。かけがえのないモノであるはずだった。

 それは全て、俺が人間でなくなる時に支払った代償として、記録からなくなった。


 朧げな記憶だけが残り、それは時に俺を苦しませる。



 ◆ アンリミテッドパラノイア  ◆



「コクマ」


「……私の名前は高崎です」

 嗄れた男の声に呼び止められて、いつも変わらないスーツ姿の高崎は遮られた思考に深い苛立ちを示しながら笑みを浮かべて応対した。お得意の営業スマイルに、男は高崎がどのような人格なのかを理解しているからか、心底気味悪そうに鼻を鳴らす。

「ふん」

 彼はゲブラー。第五地球の管轄者であり、緋き眼をした賢者。

 高度の神性を持つため、プライドが高く――高崎に言わせれば老害認定されるほど、ソリが合わない相手だが。

「次その名前で呼んだら殺しちゃいますよ」

「くだらん」

 挑発するような高崎の口振りを一蹴する。少しだけ高崎は面白くないような顔をして、踵を返そうとしても、すぐにゲブラーは続けた。

「どこへ行く?」

「……野暮用で。というか、呼び止める暇があるなら貴方も世界線管理に努めるべきでは? 我々の時間は止まっていますケド、ほら。世界は常に動き続けてるじゃないですか」

「若造が」

「貴方は格下じゃないですか」

 目に見えて苛つくゲブラーに、片手で口元を隠しながらくつくつと笑う高崎を見る。

 経歴で言えば最長にも近い世界の管理者がゲブラーだが、そんな相手に対し、高崎に言わせれば〝今や対等な立場で俺が上〟。

 世界の外、時間という枠組みのないこの空間において、疑うことがない驕り。

 歴の違いは確かにあれど、全ては力があるか否かだろう。

 ふっ、と次に鼻を鳴らした高崎は、今度こそその場を立ち去ろうとする。

が。

「待て」

「……なんなんです?」

 それでもしつこく呼び止めるゲブラーに、いい加減面倒に思ってしまいながら。


「ある人間がお前に話があるそうだ」


 ――高崎は面白がるように両目を細めた。


 ◆ ◆ ◆


 こつ、こつ、と何もない空間を歩く。

 世界の外とは虚構の園だ。上下左右、物質とされるものは本来ならば一つもない。

 しかしその外界にいる〝生命体〟の魂が持つ記録を投影することによって、簡単に仮設世界は生み出される。

 高崎が歩くのは味気もない廊下だった。

 周囲二メートルだけ構成される彼の世界。ひんやりとした冷気でも漂いそうな、薄く仄暗いビルの廊下を、ぶら下がったような蛍光灯や、まだ少しだけチカチカとその消耗を繰り返す灯りの下を、彼はなんでもないように歩く。

 仮にゲブラーがここを歩けばどうだろう。その周囲はゲブラーの領域となり、森か、あるいは無限の蔵書を誇る書斎と化すかもしれない。

 それはゲブラーにしか見えない世界で、高崎もまた、その眼に映る〝世界の外〟は、無機質なビルオフィスにでも見えていた。

 世界の外とはそれほどに、面白くもない夢だった。


 ガチャリとドアノブを回す。

通された部屋は真っ白な立方体。奥行きなんてないようなその空間の中央には、木製のカフェテーブルと椅子が二つ。用意されたティーカップには湯気が立ち、その周囲だけ存在証明が成されているような、雑な仮組みの〝共有〟だった。

 奥の席に腰をかけ、そこで高崎を歓迎したのは、冴えない面の陰気な男。

「やぁーやぁーどうも、オレの名前はフィリップ。まあ偽名なんだが、よしなにしてくれ」

 両手を広げては、持ち上げたティーカップに「あちっ」と慌てる男に、少し嫌悪感を浮かべながら。

ドイツ・スイス系の二十代後半、あるいは三十代前半の、無精髭に眼鏡をかけ、くすんだ金髪を肩口までにした清潔感はない男。開口一番に偽名を名乗るあたり、面倒くさい相手だろうと高崎は判断する。

「世界本流調停委員会の高崎、と申します。ご用件は?」

「まあまあ急ぐなって。まずは紅茶でもどうよ」

「お構いなく」

「マジで? へレーナの作るあの忘れられない、煌びやかな味をオレは必死に再現――」

 二言目にはのろける辺りも面倒くさい相手の証。話を遮るようにかちゃりとティーカップに手を伸ばし、話を遮っては。

「まずいですね」

「よぉし喧嘩だ。てめー許さないぞ」

「煽り耐性ゼロですか貴方」

 ぐるぐると肩を鳴らしてわかりやすく怒るフィリップに笑顔の裏では辟易しながら。

 情報解析をする。

「……お前人の情報勝手に見てるだろ」

 フィリップ。本名はテオフラストゥス・ホーエンハイム。俗に言うオカルトの混合物で出来た醜い第五地球の住民で、錬金術師。第五といえばゲブラーの管轄世界か。

 第五地球の正史において、暦一九七一年生まれ。一九九九年に世界の外へ到達。以後歳を取ることなく、複数の世界間を自由に行き来する術を得る。

人の身を捨てないため、高崎らのような管理者にはなれないものの、利害関係の一致から手を組み、存在を認可されている者。現在は行動制限中。

要するに、爪弾き者か。

「だったらオレも読み上げるぞー、本名、高崎け……」

「やめろ」

「……怖いな、ジョークだよ」

 この存在は、つまりゲブラーが処理できずにできた異端者だ。手元の紅茶を飲み干すように呷る藍色の眼と合って、高崎は眉根を顰めると彼はすぐに目を逸らした。

「本題に入りましょうか」

「お前の笑顔すっげー不気味だな。まあいいよ、率直に聞こう! お前は、人間だったな?」

「はい」

「思ったより素直だった……だが、お前は、元人間だな?」

「そうですね」

「じゃあお前は、実は自分の本名を知らないわけだ」

 ピッと人差し指を差されて、癇に触る。

 高崎が答えないでいると、フィリップは一度眼鏡を押し上げてからさらに続けた。

「初恋の相手も知らないだろ」

「……」

「両親の名前は?」

「興味がないので」

「嘘をつくな」

「……なんなんですか?」

「お前の心を晴らしに来た」

「結構です」

「待てよ、コクマ」

「……その名はやめろ」

「じゃあこう呼んでやる」

 ガタリと立ち上がっても。右腕を強く握り込まれ、カフェテーブルに伝わる振動で落ちたティーカップは粉々に砕けて。



「高崎圭太。悪魔憑きの少年よ」



 夢に落ちる。


 ◆ ◇ ◆


「高崎くん、一緒に帰るよ」

 ――ああ、あいつの声がする。

 俺が好きだった女の声だ。

「日向梨花」

 名前もすぐに思い出せた。

「ん……急にフルネームって。なに?」

 振り返り、彼女は聞く。

 俺は言う。

「俺が迷惑じゃないか」

「え……?」

 彼女の手を握る。

 その手が少し震えているのも感じる。

「俺は呪われているんだよ。どうせ噂も知っていたんだろ」

「そ、そんなことないよ……」

 ぎゅっと強く握りしめる。

 彼女の顔が少し歪む。

「だからお前は俺から逃げた」

「ちがう……!」

 その反応が全てを表している。

 まるで、俺から今すぐにでも逃げたいように、腰が引けているじゃないか。

「正直に言えよ」

「聞いて、高崎くん……!」

 逃がすわけがない。掴んだこの手は離さない。

 ぐいと引き寄せて耳元で言う。

「俺はお前を殺したんだぞ」



「ちがうよ!」



 ―――。

 ガラスが割れる。遥か遠くに忘れていたような思い出の夢が、粉々に落ちる。

 これは夢だ。そして俺が一度たりとも、あいつに対して気付けなかった真意がある。


「これから行うのは〝刻駆け術〟」


 目の前に自称錬金術師がいた。

「座標指定。回帰、十六の史。お前が悪魔を自覚した日」

「……やめろ」

「失くした感情はオレが一時的に貸してやる」

「やめろ……ッ」

「これがオレに唯一できる、人としてのよしみで行う餞と知れ」

「邪魔を、するな!」

「開門」

 ――光が差した。


 ◆ ◆ ◆


 高崎圭太は呪われている。両親が事故死した。姉は強姦魔に殺された。実家に一度引き取られるも、すぐに祖父らは他界した。

 転々と。転々と。

 彼の行先には死が付き纏う。心が荒む。救われないし、誰も寄り付かなくなってくる。

 葬儀に参列しては、陰口のように親戚からは囁かれた。あの子はなんだ、呪われてるんじゃないか、引き取りたくない、でも本人には罪がないでしょう?

 親が死ぬくらいなら。姉が殺されるくらいなら。こいつら全員死ねばいいのに、とは何度も何度も考えた。

考えるだけで、何もできなかったが。


 渋々となんとか引き取られた叔母の家では、なるべく関わらないように、孤立して、自己完結しようと思っていた。決して良くは思われなかったが、それでも追い出されないだけマシだと思っていた。

 中学生の頃。いつだろうか、校庭に野良犬がやってきたのだ。校内が騒がしかったのを覚えている。

 頻繁にくるその犬は、子犬を連れていることも判明した。クラスメイトの数人が秘密裏に飼い出したことも噂になっていた。


 犬ですら家族がいるのだ。

孤独を拾う〝愛〟があるのだ。


 劣等感にも似た、あるいは下らない八つ当たりみたいな感情を、この小さな獣相手にぶつけた時。ついに自分でも、壊れていることを自覚した。

 人として大切なものが。本来ならば自分にもあったはずのものが。

 数えられなくなってくる感覚に、彼は笑みを浮かべるようになった。

 楽しいと。

「西暦二〇〇九年。九月二十七日。お前が失意した日だ」

「そうですね」

 高崎圭太の罪が明らかになるのは早く、学校には叔母らが呼ばれる事態となった。

 そしてついに見限られた。叔母は少年を不気味に見て、その旦那はまだ一定の理解を示そうと努力をしてくれていたが、彼が心を開くことはなかったのだ。

 それでも旦那の方が引き取った責任は果たそうと、しかしこの地域に留まるには高崎圭太の悪名は広まり過ぎていて、遠い地方。高校に上がる頃、彼が呪われていると囁かれている事さえ知らない旦那の方の親戚に、今度は預かることとなった。

 そこに一つ上の日向梨花は居たのだ。

『高崎くん? が、これからウチに住むの?』

 愛想良く生きろ。問題を起こすな。学費は負担するが、親戚の方には迷惑かけないでくれ。

 と、叔母の旦那には最後に強く釘を刺されたから。

『よろしくお願いします、高崎圭太って言います』

 下手くそな笑みを使うようにした。

「で、高崎少年はどんな人間だったんだ?」

「品行方正ないい子でしたよ。それまでの過去が嘘だったように」

 日向夫妻は心優しく、その娘の日向梨花もまた、年頃であったはずなのに強く嫌がることはなく受け入れてくれた。

「人生というものを嘆いてはいましたが」

「お前が捨てた感情は悲嘆だったか」

「はい。これでも不幸を不幸として受け止める人生だったので」

「同情はできる」

「求めてないですね」

 登下校を共にする。学校でもまた愛想良くする。へらへらとして、慣れないキャラでクラスメイトと会話する。

 いつだって心は冷えたままだ。

 だからいつしか、ずっと一緒にいたせいもあるのだろうが、日向梨花にはすぐ気付かれた。


『何に無理してるの?』


「……懐かしいですね」

 日向夫妻には結局、素の自分を見せることはなかったが、それから彼女は初めて高崎圭太の理解者になってくれていたと思う。

 高崎圭太という人格を、それまで支えてくれたのは間違いなく彼女の存在だった。

「この眼鏡も、彼女が選んでくれたんです」

 視力が悪くなってきてると話すと、さりげなく彼女は眼鏡を買ってあげてよと親に言う。

 夫妻に対して申し訳なくなることの場合が多かったが、それでも少年高崎圭太にとっては温かいものに違いなくて。

 話しやすい相手というのが本当に、かけがえなくて。

『うん、やっぱり似合うね!』

『そうか?』

『うんうん。カッコいい』

『……じゃあこれでお願いします』

 ツンツンといじるように絡む彼女に、強く抱く不快感はそれほどまでなかったと記憶している。

 朝起きる。登校する。共に帰る。夕食をする。アイスを食べる。繰り返す。

 そんな日常があったから。

 人間らしい喜怒哀楽を覚えていたから。

「……十分お前は人間だよ」

 時間が来た。座標指定、第二地球の九月二十七日、日本のある地域に転移した二人は、当時のその世界に生きている高崎圭太と日向梨花の観測を続けている。

 それは夕暮れ。校門で落ち合って二人で歩き出すはずの下校時。

 日向が来るのは遅かった。

『ごめん! まだちょっと掛かりそう! 先に帰ってて貰える?』

『今日は父親が早い日じゃないのか』

『そうそう! 待たせても心配させちゃうから、高崎くんだけでも先に行っててよ』

『……』

『なに?』

『いや』

 お前がいないと気まずくなるとは、正直に言えなかった。

 手を振って別れる。それ以上会話はなく、彼女の伺うような視線を尻目にそっぽを向いて歩き出す。 

「なんででしょうね」

 コミュニケーションを取っていればよかったのか、取らない方がよかったのか。

 久々の一人の時間というものに、息を吹き返すように想起する昔の記憶が、一人で歩く少年の心にさざなみを立てる。

 日向夫妻に引き取られて以来、唯一孤独というものを身近に感じたのが一人で行う帰路だった。

「追いかけるか」

「……ご自由に」

 興味本位で追いかけようとするフィリップにあまり乗り気じゃないまま付き添う。

 帰り道は土手を歩く。民家の隙間を差す夕暮れが、いつも二人の影法師を作っていたが、今日はたった一つだけ。

 その影が、ケタケタと笑っているように見えてしまう。

 手招いているように見えてしまう。

 きっとそれが、〝俺を不幸にする悪魔なんだ〟と、一人自室で見る影や、今こうやって出来ている影に考える。

「当時の私は少しだけ精神的に安定していました。だからその中で、二つの可能性を考えては憂いていたと思います」

「ほう?」

「俺と親しんだ人間ほど早く死ぬ。あるいは、俺が少しでも気に障った人間ほど、死にやすい」

「オレ今日何回貴方様のご機嫌お損ねいたしましたでしょうか……?」

「ゲブラーが死なないので後者は外れていましたね」

「なら安心。いや出来ないな」

「実際、誰とも関わらなかった中学時代は誰も死にませんでしたよ。犬は殺しましたが」

「……おぞましいな、あんた」

 日向夫妻と関わった。日向梨花と親しくなった。その上で、あれだけ嫌われた叔母も優しさのあったその旦那も、まだ死んだという話は聞かなかったから。

 もう俺は呪われていないのかなとか考えた。

 人間になれてるって思っていた。

 あれはただの偶然で、高崎圭太という存在が引き起こした呪いではないと、希望を抱きかけていたから。

 嘘だった。

「私はここにいるので、興味があるなら一人で見に行ってください」

「お前は来ないのか」

「はい」

 曲がり角。帰宅間近の少年を追いかけてきたところで、コツ、とその足を高崎は止めた。

「もう見ているので」

 二度も見たいとは思わなかった。

「ハ、全然感情あるじゃん。お前」

「さっさと行け」

 ニヤリと笑うフィリップをしっしと追い払う。

 高崎は塀に背中を預けながら、深いため息を一度した。そして、笑みを浮かべる。

「全部思い出した」



 ――日向とついた表札が一つ。ガレージにはいつも七時過ぎに帰宅する父親の車が、今日は二時間早くすでに入れられている。

 玄関扉は開け放たれたまま。いつも綺麗に並べられている靴はごちゃごちゃに乱されていて、人の気配は感じない。

 強い焦燥感だった。早くなる鼓動に脂汗が噴出して、大きく目を見開いた高崎圭太は勢いのままに部屋に飛び込む。

 靴を脱ぎ捨てて、カバンを捨てるように振り払って。

電気も付いていない部屋。梨花がいつも家に近づくたびに『あ、今日のこの匂いはなにかなぁ』とワクワクしながら話していた夕食支度の様子はなかったが、沸かされたお湯がそのまま噴き出そうとしているのは見えた。

『……ッ⁉︎』

 惨劇を見た。惨状を見た。荒らされたリビングに、日向夫妻は倒れ込んでいる。

 眉根を細めて、眼鏡をかけているから余計に明瞭と見える世界に、どんどんどんどん息が上がる。

「強盗、か……」

 ――フィリップは目眩を抑えるように眉間を揉みながらそう呟いた。

 夫妻が死んでいるのはわかる。すぐに確かめるべきだったのかもしれないが、呆然と立ち竦む高崎圭太にはそこまで思考が及ばない。

 ああ、そうだ。やっぱりそうだ。俺はそうだ。間違いないのだ。

 平和なんて幻想だった。俺は俺が生きているだけで人が死ぬ。俺自身が死んだ方がきっと被害は少ないんだろうって、血迷った事は何度も思っていたはずなのに。

 大切な人をまた失った。

 二度目の失意は地の底にまで。


 パチ、と急に電気がついた。

『ねぇ扉開いてるよー!』

 バッと振り返る。

 明るく染まった廊下から差す光が、高崎圭太に影を生む。

『電気もついてないし……高崎くんなにして』

 ひどく歪んだ顔で、ずんずんとこちらに進む梨花の目を見る。

 彼女はそんな圭太の様子を訝しみながら、ふっとリビングに目を向けた。



『え』



 その一言がすごく怖かった。

『ち、ちがう……! まて、見るな!』

 焦る。焦る。色褪せる。

『嘘でしょ……?』

 嘘じゃない。視界が暗くなっていく。

『なんで後ずさるんだよ……っ』

 手を取ろうとしても、叶わない。


『なにしたの……?』


『―――』

 俺が、したと、思われてるのか。

『いたっ』

 ぱしっと手を取って握りしめた。彼女の顔が、初めて見るような怯えに染まる。

『ねっ、ねえ、離して……』

 ぐっ、ぐっと逃れようとする彼女の非力な手を、強く握りしめて、少年は苦い顔をした。

 言葉が思い浮かばないのだ。

『こわいよ……!』

 全部、俺の、せいなのだろうか。

 彼女の目には、涙が浮かぶ。痛そうにする苦悶とは別に、見えてしまった現実に対して。


『ねぇ、もう、かえしてよ……』


 震える声でそんなふうに言われて、圭太の目にだって涙は浮かぶのに。

 緩めた手に、彼女はすぐに自身の腕を引き抜くと、怯えるように、逃げるみたいに、家を飛び出そうとするから。

ハッとして、すぐに呼び止めようと追いかけた。

『危ない――』


 ドンッ。


 鈍い音が一つした。

 息が止まる。

 膝を突く。

 失意するように崩れ落ちる。

『おかしいだろ……』

 二〇〇九年九月二十七日。強盗一家殺害事件。一人娘は事件現場を目撃したのち、飛び出したところを交通事故で死亡。

 運転手は自首したものの強盗の方は見つかっていない。別姓の預けられていた少年は無事であり、事件とは無関係であることが証明され、一樹施設に引き取られていたが叔母の元に帰ることとなる。

 二度のショッキングな事件に対して、家族を失うという物を経験した少年は、それから。


「終わりました?」

「……笑顔で出てくるなよ」

 げっそりと痩せたようなフィリップを笑顔で歓迎する高崎に、フィリップは心の底から不気味そうにそう言った。

「これからは無用な野次馬と余計なお世話は控えるべきじゃないですかね」

「どうも警告ありがとう。先に言えやボケ」

「それじゃあつまらないじゃないですか」

 ケタケタと笑う。

「全部思い出せました。これ以上は留まっても面白いことはないですよ」

「元人間のよしみなんてなかったわ。お前人じゃねえ」

「貴方とは経緯も何もかもが違いますから。私は望んで人間であることを放棄しました」

「その目的は?」

「可能性を潰したかったんです」

「……可能性?」

「世界本流調停委員会ですよ。本流以外は必要ありません」

「……ああ、クソ、よっぽどクズだなお前」


 この話には続きがある。高崎圭太がその身にある〝本物の悪魔〟を自覚し、人間であると足らしめる構成物質の感情のうちの一つを捨て、名を失い。記録も情報もなくなった、一人の人外として再生した時。

 ずっとこの日に囚われていた彼がまず行ったのは、全ての世界線を見ることだった。

 日向梨花と高崎圭太のストーリー。いくつも何通りも存在するもしもの世界のその中で、日向一家が強盗被害に遭わない世界線。かつ、高崎圭太がそこで幸せに生きられる世界を探した。

 たしかにあった。

 だが高崎は、それを認めて、許すことができなかった。

「種明かししましょう。私の中にある悪魔とは、運命でした」

 親が死ぬ。姉が死ぬ。犬を殺す。日向夫妻が殺される。日向梨花を事故で失う。

 それは全て、導として辿るべき確定された運命として。

「人外となった私が、人であった私に対して行うお膳立てです」

 始まり、一つの世界線では確かに偶然だったかもしれない。が、それは徐々に必然に塗り替えられていったのだ。

 ハナから道は決まっていた。もしもなんてありえない。否、もしもという可能性を潰した、本当の意味での悪魔がそこにいた。

「だから私は高崎です。そして元人間でありながら、世界の管理者として選出された。貴方にはあって私にはないのが、〝今ここにいないとする〟可能性なんです」

「ロクな死に方しないぞお前」

「うるさいですね」

 その日の晩。眠れぬ高崎圭太を相手に、人外となる方法を囁いたのも、かつての高崎だ。その意図はただの腹いせにも過ぎない。

 この数多ある世界線において、何人もの自分がいても、己を己足らしめるのは自分自身しか存在しなくて。

 どこかの世界にいる自分が幸せに生きている事が、心の底から許せなかった。

「強盗ってやつも実はお前なんじゃないか」

「面白いことを言いますね」

「イエスかノーで答えろ」

「忘れました」

 ケタケタと。そう言って高崎は笑っているから。

「さっさと感情返せ」

「どうしましょうか。久々に覚えた悲嘆、懐かしくて、なかなか居心地がいいのですよね」

「ふざけんな」

「優しくなくなりましたね」

「当たり前だろ」

 わかりやすく、初めの頃のような友好性はなく高崎をイヤそうに見るフィリップが面白くて、高崎は口元の笑みを隠すように片手で覆って笑顔でいる。

「お前、いつ人外になったんだ?」

「暦でいう二〇一六年です。二十四歳の頃ですね」

「日は浅いな」

「時の概念はないじゃないですか。早々に私は退屈で飽きそうです」

「自分で選んだ運命だろ」

「別に後悔はないですよ」

 刻駆け術を行使していたフィリップは、改めてそこで術式を閉じるため、詠唱を始める。

 高崎に譲っていた赤い結晶のような感情は胸元から抽出され、パシリとフィリップはそれを受け取っては。

「ふぅ……うえ、地味にお前の記憶が混ざってるわ」

「勝手に覗くなよ」

「急に敬語を解くなこわい」

「私はまた、元の時間軸に戻れば思い出した記憶は全てなくなるんですね」

「……そうだな。だがお前の中に微かに残る記憶は、多少は補強されて残るはずだ。感情は失っても徐々に再構築される」

「詳しいですね」

「人間はどこまで行っても人間だ。お前もいつか、誰か愛せる人ができれば、人間らしくもなっていくだろ」

「ありえない」

「ふっ、だろうな」

「はっ倒すぞ」

 時が正しい流れに戻る。目の前に展開していた邂逅は、遥か彼方へと離れていって、渦を巻いて絞られると、闇の中へと消えていく。

「……人間のよしみ、ですか」

「それ以上でもそれ以下でもねえよ。お前に対して、今回の件で失望したし」

「勝手に期待されていても困るんですが。まあいいでしょう」

 日向梨花。いつの間にか、抜け落ちるように失っていた大事なものを、何度も数えるように呼ぶ。

 今の高崎という人格にとっては。

 まるで執着のように、朧げな記憶の中で、指折り数えて見つけた高崎という名を、名乗り続けた意味もあるのかもしれないと。

「心地のいい夢が見れました」

「何よりだ」

 夢が、覚める。


 ◆ ◆ ◆


 際限なき倒錯。

 それがフィリップが今日、元人間の管理者。第二地球を預かるコクマという名を名乗らず、前世に縛られた〝高崎〟という名を名乗り続ける異端の者と、接触した上で導き出した答えだった。

 その性質は、ひどく歪んでいる。

 捻れて捻れて、何度もループして。

 精神崩壊を引き起こして。

 彼を彼たらしめているのは、未来、人外となった彼が過去の人間だった彼に介入してしまったからだ。

 言うなれば、パラドクス。数多ある世界線において、それ以外の可能性を完全に切除したせいで、救われない循環機構が今現時点の高崎を構成している。

 愚かだ。それ以外に形容する術はない。

 間違っている。それ以外に下せる評価もない。

「悪魔ね……」

 前世。第五地球で稀代の錬金術師として生きていた当時、フィリップは何体もの悪魔と呼ぶ存在を実際に見てきた。

「よっぽどお前の方がおぞましいぜ」

 救いがたい。手を差し伸べるにも足らない。

「面白そうなやつだと思ったんだけどな」

 生粋のバカだ。だからきっと、近いうちにやつは死ぬ。

 神と人間は相容れない。世界の外とは孤独だから。

 もしかしたら、仲良くなれるかもなんて夢を見たが、儚い嘘だった。

「オレはちっと後悔してるかな……」

 自重気味に呟いた。

 扉も存在しない白い立方体に、フィリップは閉じ込められている。


 ◆ ◆ ◆


 ――名前を失った少年がいる。

 顔もないような少年がいる。

 彼は悪魔に魂を〝売らされた〟。

 それに後悔があるわけではなく、また自分自身にする同情でもなく、ただ純粋に、人ではなくなったことをありがたいと思っている。

 次に向かうのは第三地球。

 世界間転移が複数の世界線で発生していると聞く。第二地球の住民だ、本来ならば管轄外だが、高崎が対応しなければならない。

 座標は絞れた。対象が異世界について言及したようだ。

 今すぐにでも向かっていい。


 世界の外。そこには新たに構築された〝家〟があった。

 人はいない。広い一軒家だというのに、生気が宿っているわけでもない。荒らされた時のあのままの再現。

 ばたんと冷蔵庫を開けた。その中にあるアイスバーを取り、対して味も感じれないままに食べる。

「つめた」

 立ち鏡は割れている。戸棚は荒らされたようにごちゃごちゃしてる。ソファは刃物で破けている。沸かされたお湯はぶくぶくと。

 伏せられた写真立てには、誰が写っていたろうか。

「つまらねぇな」

 微かに揺れ動いた感情に、高崎は一度指を鳴らした。

 構築されていた再現は、瞬きする間に0へと戻る。



 食べ終えて捨てたアイスバーは、アタリの文字が残っていた。


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