「はぁっ、はぁっ」
〝そこを右ね〟
暗い森のなかを走っていると、いつかのあの日を思い出す。
不気味な森に、狼の遠吠えが響く夜。トゥーレちゃんがこれはフォレストウルフという、群れを作らない習性を持つ狼であることを教えてくれた。
ホゥホゥとフクロウの鳴き声がこだまする。これはこの森独自のエルアウル、神聖なフクロウっていう意味の名前で、エルフとは古くから親しまれている良い魔物さんだって。ちょっと怖いけどね。
ときたま、茂みがガサガサッと揺れると、びっくりして立ち止まってしまいそうになるけれど。
風に乗って耳に届くシエル様の声が、立ち止まるなとわたしを止めない。
「ぃたっ」
擦りむいて、転んで、暗闇に心細くなりながら、指示を頼りにがむしゃらに。
月明かりに蒼く染まる森のなかを、山のなかを走って進む。
――一定のペースでシエル様のあの風圧が波のように訪れた。
背中を押されては身体の芯を突き抜けていくその風に引っ張られてしまいながら、それでもなお進んでいく。
どうやらこの風圧はサーチ? 周囲の地形や物体を瞬間的にマッピングするものらしくて、それで敵の数だとか、今現在のわたしの居場所を把握してくれているんだそうです。
そんな魔法が使えるなんて本当にこの世界はすごいと思うし、なによりもシエル様がただただ格好良すぎると思っちゃう。
〝あー。一人そっちに行った。気を付けて、とりあえずは左へ〟
その一言にドキッとした。
でも立ち止まる余裕もなくて、声のまま無我夢中で左へ。――と、足を踏み外す。
「きゃア――……んっ、んん!」
反射的に叫びたくなってしまって、でもグッと口を抑えて堪える。
荒くなって乱れた呼吸を正しながら、泣きそうになりながら。
うぅ……もうやだぁ……。
でも挫けません。わたしが一番に諦めるわけには、絶対にいかないですから。
早く、立て直さないと。
〝多少遠回りになるけど撒かないと意味がない。ユズ、大丈夫だね?〟
「っ、がんばります!」
本当はもう無理と根を上げてしまいたいほどだけど、でも捕まるのなんてぜったいイヤだ!
だから、大丈夫です! がんばります!
頑張らないと……!
少しずつ、蒼白い光で森のなかを照らしてくれていた月が雲に隠れていく。
徐々に手の届く範囲以上の外が見られなくなっていて、急激に狭まった視界にざらつきのある不安感が心を襲った。
走る。走る。挫けるな。トゥーレちゃんを心のなかに、トゥーレちゃんのあのかわいい笑顔を思い浮かべるんだ。
仲良くなって、一日一日立つほど色々な顔を見せてくれて、いまではキスまでしてくれちゃうくらいの、あのトゥーレちゃんを心のなかで。
それだけで、不安感は散らされるようになくなっていく。……気が、する。
「はぁっ……はぁっ……」
〝――ダメだ。追い付かれる。ユズ、聞いて。カチカをちゃんと持っているね〟
「はぁ……んく、はい」
〝それを右手側に投げて。囮に使おう〟
そう言われて、ポケットにしまっていたカチカの石を手にとって、息を呑む。
これはついさっきのを見れば分かるけど、目の前で使えば相手を一時的に無害化させられる閃光弾みたいなもの……なんだと思う。
それを、ただ注意を引くためだけに使うのは、不安になるし、恐れ多いけれど。
「ふぅっ……ふうー……」
長く息をはいて、浅く空気を取り込んで、息を止める。睨むのは遠く。
まるで暗闇には輪郭の一つも浮かんでいなくて、ちょっと木に跳ね返って戻ってきたらどうしようとか、あんまり現実味のないことを考えてしまう。
だめだめ、振り払って。
前を見る。なるべく遠く。物音を立てないように、これは偽物のわたしを遠く離れた場所に作るということなのだから。
「〈カチカ〉」
投げながら唱えた。
〝――走れ!〟
どこまで飛んだとか、ちゃんと発光したかとか、見ている余裕がないままに前を向く。
その声と再びの風圧に背中を圧されながら、わたしはもう一度走り出す。
ずっと、ずっと。
全てを見ないようにして、いまどうなっているかも理解出来ないままで、ただひたすらに。
――目の前でグルルと牙を向いてこちらへ唸りをあげる、赤い目の魔物がいた。
「ひ……」
その猛烈な敵意に、わたしの勢いはみるみる萎んで消えていく。
狼だ。慎重な歩調で、こちらを品定めするかのようにわたしの周囲をぐるりと回りながら、そこに一匹。
狙われている。どうしよう。
野性動物に襲われる。その恐怖が、途端に身を竦ませてきた。
かっ、咬まれる。
咬まれるで済めばいいけど、食べられる! 病気を持っていたら死んじゃう! そもそも魔物だから毒とかだって持っているかも!
「あ、あわわ……」
ゆっくりと後退するように一歩一歩、後ろへ下がる。とは思っても、追っ手が気になって後ろにも引けなければ、道のないような森のなかじゃ、ここを抜け出すことも出来ない!
パニックだ。八方塞がりだ。狼はシンプルにこわいよ!?
どうしよう、さっそくカチカを囮に使ったことが悔やまれる。
いや、例え持っていても、狼に使った時点で追っ手にわたしの居場所をバラしてしまうようなものだから、どのみちダメなんだろうけど、でも。
回りにはなにも転がってなかった。棒もなければ枝もない。石ころもなくて、ただ雑草ばかり。ただ少し拓けた空間になっている。
拓けているけれど、先程から頻繁に転びかけてしまうようなほどここら辺の森は根っこが飛び出してしまっているからで、上手く逃げ切れる自信がなかった。
詰んでいます。だれかたすけて!
「ガルルル……」
ひぃいいいい。
や、野性動物はだめだって! ペットじゃないなら触れません!!
ものすごくこわい。なにあれ、血……? すでにもうなにか食べてるの……!?
口許にべったりと付着する何かの赤黒さに、本当に戦慄する。もういやだ!
これは無理だよ!
「うううううう」
何かあったっけ、何かあったっけ、森のなかで出来ること。生き残る手段。ここから逃げ出せるだけの、なにか!
動物が怖がるもの!
…………………………………………………ま、魔法ってどうやれば使えるんだろう……。
う、うううう、ううううううう!
トゥーレちゃんは魔法を感覚だって言った。
イメージだ。大丈夫。実物を一度見たことあるんだから、あの時の感覚を確かに。
〝……魔法? 魔法使おうとしてる?――やるしかないか。いいよ、簡単にだけど指南しよう。媒体は?〟
上着を脱いだ。ぐるぐると左手に巻いて、インナー姿になって、狼を睨み付ける。
〝それでいこう。さて、物質とはそこにあるだけでエーテルという粒子を産み出す。魔力だね〟
わたしの明確な敵意。それに、狼はより強い唸りをあげていて、だんだん腰が引けてくる。
深呼吸しよう。
ふー、ふー、ふー、ふー……。
〝黒色の光粒だよ、光の粒子。立ち上るエネルギーだ。それを見て、想像して。信じて〟
目を瞑って意識しようと思ったけど、狼が怖いし、シエル様にちゃんと見るんだと言われて、頑張る。
くるまった洋服を一点に見つめた。
そこから、言われた通りに想像する。思い描く。
大丈夫。ゲームとか漫画とかアニメとか、なんかきっと、あるじゃない。
考えられる。似たようなものを思い出して、ここに当て嵌めてみて。
そういうのは、悲しいかな――得意でもあるよ!
〝それを凝縮するように。その粒子がエーテルだ。あとはそれを、好きなように魔法にして。君なら出来るよ、ユズ〟
「――っ! ふぁいあー!」
トゥーレちゃんが使って見せてくれた、炎の魔法。空中で燃え広がるそれは、すごいと感嘆する暇もなく洋服に……引火した!?
ああああ、媒体にしても塵になってはいなくて安心していたのに、燃えてしまったらダメじゃんか!
どどどどうしよう。
トゥーレちゃんがせっかく買ってくれたやつなのに。マカロさんの丹精込めて作ったお洋服なのに!
媒体にしようと思ったタイミングで、原型がなくなることも覚悟だけはしていたけれど、実際取り返しがつかなくなるとあたふたしてしまう。
ややや、ダメだダメだ。あとでものすっごく謝ろう!
いまはこの狼を退けることを考える!
「やああああ!」
ぶんぶんぶんぶん!
熱いあつい熱いあつい!
洋服を振り回す手が熱い。けど、もうやっちまえ心でブンブンと振り回す。
ここらへんが拓けてくれていてよかった、じゃなかったら木に引火して、こうやって振り回すのは本当に出来ないし危なかったかもしれない。
その乱暴で雑すぎる追い払いは、誰が見ても近寄りがたい代物で、狼だって当たり前。
なんとか逃げていってくれて。
「はぁ……はぁ……」
どっと息を吐く。洋服を投げ捨てて消火だけ済ませ、木を支えにしてへたり込む。
逃げなきゃ。走らなきゃ。目的地……安全で見つからないという、シエル様がこの日のために用意してくれたその場所にいかないと。
地面におかれた上着を呆然と眺める。
焦げたのはどの辺りだろう? 広げてないから分からないけど、でも、もうどうしようもないですよね……。
薄い生地で、わりと気に入っていた、かわいいお洋服。
残念だなぁ……。
――でも、ここまでして、逃げてきたんだ。ここまで犠牲にして、わたしはわたしのために逃げ続けたんだ。
本当はもっとやり切るべきところ。ここで諦めてしまうのは、本当にただの無駄で、もったいなくて、損しかないこと。
でも、気力が湧かない。疲れちゃったんだ。
わたしは、本当は誰かにここまでしてもらうようなほど価値ある人間じゃなくて。
それが申し訳なくて。
ずっとバカだった。頭が悪くて、迷惑ばかりかけて、責任は取れないからいつもなにも負えなくて。
だからここまでやばいくらいなことになって、初めて実感して、わたしは高崎さんについて行くほうが、エルフの村のためだったんじゃないかと……当たり前だったことをいまさらながらに考えてしまって。
でも、だから、そうですね。
トゥーレちゃんを失望させたくない。わたしはわたしに失望されたくない。
こんなんじゃ、いたくないんです。
「もっと頑張りたいよ……」
遠くの地響きがここにまで届く。
カチカとは別の光が、瞬間的に遠くの空を様々な色に変えた。
黒煙が立ち上る。風圧がその火の元を掻き消すように黒煙を霧散させた。
わたしが立ち止まっていることが、シエル様にばれてしまう。
〝ユズ? 大丈夫? どうかしたかい?〟
蹲ってぎゅっと、擦り傷だらけの両肩を抱いて独り。耐えられない涙に、昨日までの日常を考えて、高崎さんが来るまでの幸せだけの日々を考えてしまって。
つらい。もう、どれだけ理想を語っても。
わたしは本当に、ダメダメなんでしょうか。
「あ……」
〝ユズ? ユズ? どうした?〟
――風圧が追い掛けるように再び吹いた。
〝っ、いつの間に……!〟
そして、息を呑むシエル様の声。
「バァカ。ここにいるのは全員俺なんだよ」
長髪の見知らぬ黒服。てっきり部下かなんかだとずっと思っていたけれど、違う。
まるで幻が解かれるように顔が変わる。髪型が変わる。体格が変わる。
そこにいたのは平々凡々な顔つきの、体つきの、黒髪黒目。真っ黒のスーツ姿に、青色のフレームメガネを掛けている――
「チェックメイトだ」
高崎さんだった。