屋敷に戻ったら妻がいなかった。
置き手紙や言付けもなく使用人たちの姿もない。よく周りを見渡すと屋敷の壁は剥がれ落ち、あちこち傷んでいる。
屋根も傷んでいるのか雨漏りが酷い。カーペットも、カーテンも黄ばんでかなり酷い状態だ。もう何年も使われていないかのようで、嫌な予感がした。
(可笑しい。手紙を寄越したときは家の状態が酷いなんて書いてなかったはずだ)
王都での用があったので少し離れていただけだ。
なのに――。
ギシギシと軋む廊下を歩いて部屋に向かった。
いつも食事を摂っていた部屋も、夫婦の部屋も寝室も――誰もいない。
「アリア? どこに居るんだい?」
声を出しても返事はない。
ふと「春になれば――」と妻が何かを言っていた気がする。
薔薇庭園で珍しい薔薇が咲いたと話していたような。
大抵は政略結婚だったが、それでも私たちは愛し合って結ばれた。
彼女は年々体が弱ってしまって、そのたびに薔薇庭園の薔薇を部屋に飾った。
(そうだ。薔薇庭園……)
ふらふらと薔薇庭園に向かった。外は雪が降り始めており庭を白く染める。
薔薇は手入れがされていなかったが、屋敷を取り囲むように血のような赤い薔薇が咲き誇っていた。この大地の養分を全て吸い尽くしているかのようで、ゾッとするほど美しい。
雪が降る。
しんしんと降り注ぐ雪は止むことなく私の体に積もっていった。
どのぐらい外にいたのだろう。
どのぐらい薔薇を見ていたのだろう。
甘い薔薇の香りが記憶を霧散させる。
(こんなに見事な薔薇が咲いているのに、どうしてマリアが隣にいないのだろう?)
ずっと傍らにいると約束した愛しい妻。
『――は、私のせいでない』と、私のために泣いてくれた妻。
可笑しい。
記憶がごちゃ混ぜで妻との記憶はあるのに、妻と最後に会話したのかが思い出せない。
寝室に向かうまでの気力はなかったようだ。体の節々が痛み、体が妙に重い。
「マリア」
ふと甘い香りが鼻孔をくすぐる。
薔薇とは違う。
この香りは――。
『
妻の言葉が鮮明に思い出し、私は慌てて雪の中から這い出て薔薇庭園の奥に突き進む。棘が私を拒むかと思ったが、そんなことはなくまるで私の歩く道を作ってくれる。
奧には目印のような貝殻が置いてあった。
あれは妻と一緒に海のある街を訪れたときの記念品だった。
私はあまり自分の領地からでなかったことを話したら妻が「旅行に行きましょう」と言い出したのだ。病弱なのに時折、突拍子もないことを言い出す。
『旦那様は――ですけど、きっと幸せになります。だってシナリオにもちゃんとハッピーエンドになるって書いてありますもの』とか『ヒロイン補正がかかっているのできっとなんとかなるはずです』などよく分からないことを言っていた気がする。
私と妻は魔法学院で出会って、恋に落ちた。
妖精たちの交流が途絶えつつあったのを妻が復活させて、多種族との交流も広め国同士で国交を開くなんて話も出た。
妻を狙っていた連中は多かったけれど、なぜその中で私を選んだのか――そういえば昔聞いたことがあった。
『私の推しだったんですよ。それに貴方には幸せになってほしかったのです』
そうこの時もよく分からないことを言っていた。
私は充分幸せだったし、妻が居たらそれでよかった。
「マリア」
貝殻の下に埋まっていたのは昔見た木箱。彼女の宝物入れがどうしてここにあるのだろう。寝室に大事にしまっていたはずだ。
疑問が膨らんでいく中、鍵の付いていない木箱を開けた。
中には年季の入った手紙と、小瓶と私が彼女に贈った結婚指輪が入っていた。
もしかして妻は私に愛想を尽かせて出て行ったのではないか?
胸が焼けるような苦々しい思いがしたものの結論を急いではダメだと手紙の封を開けた。すでに何度も開封された後が残っている。
私以外の誰かが彼女の手紙を読んでいたのだとしたら腹の底から怒りが沸いた。
今すぐにでも殺してしまいそうな殺意が漏れる。
ふわりと、甘い香りが漂って怒りが薄らいだ。
不思議な筆舌に尽くし難い甘い香り。
『愛しの
この手紙を読んでいる頃には、私は――多分亡くなっているのでしょう。
ずっと一緒に居ると言ったのに、約束を破ってしまってごめんなさい』
妻の字だ。
よく知っている。学生時代何度も手紙のやりとりをしたから彼女の癖も覚えていた。
手紙を持つ手が震えていて文字がよく読めない。
彼女が亡くなった?
そんな馬鹿な。
そう叫びそうになるのをグッと堪えて手紙の続きを読む。
『学院生活を経てヴェルハイム様に
領地から出て海の街まで遠出もできた、だから呪いはきっと解けたのだと安心していたの。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
私がもっと早く貴方の異変に気付けばよかった。
歳を取らず、薔薇が領地を覆い囲むように咲き誇っていることも、貴方の呪いが貴方自身を蝕んで人ならざるモノになりつつあることを――私は見抜けなかった』
何を言っているのだろう。
この手紙は妻の悪戯だろうか。
それとも屋敷に戻ることが遅れた私に対する嫌がらせか。
『一緒に居る時間が楽しくて、幸せで――だからこのまま時間が流れると思ってしまった。
ごめんなさい。ごめんなさい。
歳を重ねて皺が増えて、体力も落ちた私に貴方は当時の私を受け入れられず、私が若い頃のままの「病弱だ」ということで辻褄合わせをしていて気付いたの。
呪いの進行は進んでいくと自我を保てず、領地内を薔薇で閉ざしてしまう。だからマーリンから特殊な薬を調合してもらったの。箱の小瓶に入っているでしょう。それを一粒飲めば大丈夫だから』
この辺りから文字が滲んでいた。
私の涙だったのか、それとも彼女のものか。
なんとか続きは読めた。
『
彼女を、妻を、マリアを忘れる?
視界が歪んだ。胸が突き刺さるように痛い。
『ずっと傍にいるという貴方との約束を破ってごめんなさい。
貴方と過ごした日々が愛おしくて、輝いていて、だからマーリンから薬をもらったときに騙してでも貴方に飲ませようと――何度もしたのに、できなかった。
私を忘れてしまうのが悲しくて、決断できなくて、貴方をさらに苦しめることになってごめんなさい』
そんなことない。
私は、自分が呪われているなんて気付いてすら居なかったのだから。
庭園の薔薇が屋敷まで浸食していないのは、降り続けている雪の影響だろう。
特殊な魔法がかかっている。
そうだ。
マリアが息を引き取った日、私は事実を受け入れられなくて魔力を暴走させた。
そこからの記憶は断片的だ。
討伐部隊が何度も屋敷に突入し、そのたびに棘で追い返していった。
では、妻の遺体はどこに?
慌てて屋敷の寝室に戻るが、そこには何もない。
彼女がいた形跡も残らないほど時間が経過していた。
『マリアの遺体なら火葬して屋敷の裏山に墓があるよ』
「……マーリンか」
周囲を見渡しても彼らしき姿はない。
ただ窓から小鳥が囀るのが見えた。
『よく分かったね。もっとも君の傍に近づけば棘によって吸収または攻撃されるから、小鳥や花々を通して君を見ている。……ちなみにこのやりとりはすでに十三回目だ』
「……そうか」
封書を開けたのは私だけ。
そして私は同じ言動を何度も繰り返し、そして都合の良いように忘れて、
「呪いを解くには薬を飲んでマリアとの記憶を消すしかないのか?」
『ない。その手の呪い解除は対価が大きい。それこそ生涯をかけた思いや記憶を奪わなければならないほどに強力な呪いだ。君というか君の一族が代々受け継いでいった薔薇公爵の呪いだからね』
「……私の一族はなぜ呪われた?」
『両親から聞かなかったかい? 妖精界の薔薇姫を娶ったから。だからこそ愛しい人の想いを断ち切ればその呪いは解ける』
「……私の一族は誰も愛する人との記憶を手放さなかったと?」
『そう。子供をなさなければ薔薇公爵は生き続けるし、公爵夫人が子供をなした途端、呪いによって夫人は死ぬ。公爵は後継者が成人するまで生き続けて、次の『薔薇公爵』が継がれたのちに亡くなる』
祖父のことは覚えていない。父が成人してすぐに亡くなったと聞く。
父も私が成人と共に結婚して亡くなった。
どこか嬉しそうに『これでようやく妻の元に逝ける』と言っていたのを思い出す。
私と妻に子供はできなかった。
この場合は、私の代で呪いは終止符を打つのだろうか。
このまま呪いの効果が切れるまで永劫の時間を生き続けるか、妻を忘れて人間に戻り普通の人生を歩むか。
「マーリンが私を殺すというのはできないのか?」
『無理だね。棘によってガードされる。この質問も前に聞かれたかな』
飽き飽きした感じで返答する友人に、長い年月付き合わせてしまって申し訳ない気持ちが芽生えた。たぶんマーリンはこう私に問うだろう。
『それで薬を飲んで彼女のことは忘れるかい?』
息ができなかった。
マリアとの記憶を、彼女がいたことすら消去する?
私を呼ぶ声、笑顔。抱きしめたときの心地よさ。
私の生き方を変えた女性。彼女以外に誰かを愛すなんてできない。
「マリアを忘れたくない。彼女とすごした日々を私はなかったことにしたくない。……それだけは――できない」
はあ、と溜息が漏れた。
『まあ、そう言うと思ったよ。好きにすると言い。すでに君の領地から住民は待避させているし、棘も今のところ屋敷内に止めている。僕は半分精霊だからね。……マリアにも頼まれたのもあるから最期まで見届けてあげるよ』
「……悪いな」
世の中の物語というものはハッピーエンドで幕を閉じる。
けれどここは現実で、登場人物たちの人生は続いていく。
マリアとの思い出を抱いたまま、薔薇公爵としてその責務を果たそう。
手紙は汚さないように丁寧に折りたたんで木箱に戻し、また穴を掘って埋めた。
それから屋敷の裏山へ向かい、彼女の墓の前に座り込んだ。
真っ白な墓石で、彼女の名前が書かれている。マリア・ローズ・ナイトメア、私の最愛の妻がここで眠っていた。その事実に、現実に、私はようやく目を背けずに彼女の死を受け入れた。
墓石は数年前とは思えない程、年季が入っているように見える。
(ああ、君のために花を持ってくるのを忘れてしまったな……)
どれだけの時間が経ったのだろう。
すでに体の感覚は無い。
降り注ぐ雪は私の体に積み上がり、いつの間にか視界がブラックアウトした。
意識が遠のき、一時な夢が浮かび上がる。
彼女と過ごした日々が蘇っては消えていく甘美な夢。
泡沫のように甘く、淡く儚い。
出会って、恋において、結婚して、長い時間を過ごす。
同じ舞台を見続けるとしても、色あせない輝き。
胸を焦がす思いが溢れてとまらない。
『ヴェルハイム様、愛しております』
「マリア。ああ……私も……君を愛している」
私が命潰えたとき、たぶん彼女は困った顔をしながら待っていてくれるだろうか。
それとも落胆させてしまうだろうか。
必ずそっちに逝くから――もし叶うのなら待っていてほしい。
***
「本当に人間は愚かだ。記憶なんて曖昧なものに
半分精霊の魔道士マーリンは人間の心が分からない。
だから時折、悪戯をして人の機微を知ろうとする。
「薔薇公爵の呪いなんて僕が軽くいじっただけなのにね」
それでも記憶を手放さなかった一族。
愚かにも愛を貫いた夫婦。
それは咲き誇る花のように短い一生で、線香花火のように煌めきあっという間に消える。
マーリンにとっては瞬きと同じ僅かな時間。
けれど――。
「マリア、ヴェルハイム。君たちの関係が――ほんの少しだけ羨ましいよ。ほんの少しだけれど」