美少女が隣にいるインフェリアイ目がけて湖の水をかける。
「わっぷ」
顔を濡らしたインフェリアイが口を尖らす。
「もう……なにするのよ」
「いやあ、そこに顔があったから」
「やっぱりあなた、えげつないわね」
まったく悪びれずに答える美少女に少し引いたインフェリアイ。
顔にかかった水を拭おうとするが、顔に触れた手はなぜか全く濡れない。
「あら、乾いてるわ」
顔をペタペタと触るが全く濡れていない。不思議に思ったインフェリアイは湖の水を掬うと、隣りの美少女目がけて水をかける。
「ちべたい!」
「ぷっ、なによそれ」
顔を軽く振りながら美少女も口を尖らす。
「インフェリアイも割と酷いよね」
「そうかしら? あなたほどではないと思うわよ。それで、どうかしら?」
「どうって、なにが?」
手で顔を拭いながら美少女は首を傾げる。
「顔は濡れている?」
「は?」
なにいってんだこいつ、という顔をインフェリアイに向ける美少女。
見て分からないのか? そう思った美少女だったが、インフェリアイは目が悪いから見えないんだったな、と思うや否やインフェリアイの手を引っ掴み、自身の顔を触らせる。
「あら、濡れているわね」
不思議そうな顔をしながらインフェリアイは美少女の濡れた顔をペタペタ触る。美少女の顔を触って濡れたインフェリアイの手はすでに乾いていた。
インフェリアイは不思議そうに自身の手を見つめているが、美少女はそれに気づかず、袖で顔に付いた水を拭いている。
「濡れているのがなに?」
「この湖の水はすぐ乾くのかと思って」
「へえ?」
美少女は再び湖の水を掬うと、インフェリアイ目がけて水をかける。
そして濡らしたインフェリアイの顔を観察する。
「あー、ほんとだ」
瞬く間に乾いていくインフェリアイの顔を見ながら美少女は水を掬う。
「えー、不思議だなー」
水をかける。
「水になにかがあるのかな?」
水をかける。
「インフェリアイ自身になにかがあるのかな?」
水をかける。
そして、水を掬おうとすると。
「ねえ、やりすぎじゃない?」
インフェリアイが美少女の手を抑える。インフェリアイ自身は濡れていないが服は濡れていた。
「ごめんごめん。でも不思議だね」
その場に腰を下ろした美少女がインフェリアイを仰ぎ見る。
錫色の瞳が美少女を見下ろす。その瞳に美少女が映っているが、インフェリアイの視覚には美少女は映っていないのだろう。映っていないというか像を結んでいないというべきか。
どちらにせよインフェリアイには美少女がどんな表情をしているのかは分からない。
「なによ?」
「いーや、なにも」
美少女は靴と靴下を脱いでズボンの裾を捲り上げると、湖に足を浸ける。ひんやりとした水が美少女の足を冷やす。
「うう……冷たい」冷たさに身を縮ませる。
そして冷たさに慣れてくると、足をバタバタして水面を騒がせる。
「慣れると気持ちいいね」
心地よさに目を細めた美少女の脳裏に一つの疑問が浮かび上がる。
「インフェリアイも足つけてみなよ」
「そうね、せっかくだし」
軽く頷いたインフェリアイも靴と靴下を脱ぎ、ズボンを捲り上げて湖に足を浸ける。
歯を食いしばって冷たさに耐えていたインフェリアイは、身体の内から力が溢れてくるような感覚を覚える、まるでエリメルラ洞窟で光る蝶が霧散した後のような感覚だ。
「気のせいだと思っていたんだけど……」
「どうしたの?」
「見えるわ」
「マジ?」
美少女がインフェリアイの肩を引っ掴む。
「ええ、ハッキリクッキリ見えるわ」
インフェリアイが美少女を見る。
そこには、オーロラのような神秘的な髪を持ち、薄緑色と黄金色の光に煌めく瞳を向けている美少女がいた。
「……綺麗」
呆けた様子で美少女の顔に手を添えるインフェリアイ。対する美少女は驚きを隠せず、目を見開きながら固まっている。
「うそ……生きてるの?」
「なによ、その言い方」
インフェリアイは微笑みながら美少女の頭を撫でる。自分でもなぜかわからないが、自然と美少女の頭を撫でている。
やがてそのまま撫で続けていると、美少女の瞳から涙が溢れてきてこぼれ落ちる。
「どうして泣いてるのよ」
「え⁉」
慌てて目元を拭う美少女、涙を流しているのを認識すると恥ずかしそうにはにかむ。
「ほんとだ……嬉しいのかな?」
「そうなの?」
「……うん」
いつもの様子とは裏腹にしおらしい美少女に、インフェリアイは無性に抱きしめたい衝動に駆られる。
当然そんな衝動に抗うことはせずに、美少女を抱きしめる。
しかし横に座りながら抱きしめているため、身体が捻じれてかなりつらい。インフェリアイは美少女を持ちあげると自身の正面に座らせる。
それからどれ程時間が経ったのだろうか、辺りが暗くなってきた頃。
「寒い」
今までインフェリアイに抱きしめられていた美少女が顔を歪ませる。
「そうね、もう暗いし、そろそろ夕食にしましょうか」
美少女を地面に降ろすと湖から足を上げる。インフェリアイの濡れた足がすぐに乾くのに対して、美少女は濡れた足を地面につけないように膝立ちになりながらテントをカバンから取り出す。
足の乾いたインフェリアイはその場で靴下と靴を履いてドーム内を見渡す。日が沈んだからか、動物たちが姿を消していた。
湖畔に近づいて覗き込む。今は視力が良くなっているため湖の中が良く見える。
「深いわね」
テントの中に膝立ちで入った美少女は濡れた足を拭くために脱衣所を目指す。
鼻歌交じりにリビングキッチンを進み、廊下へと続くドアを開ける。脱衣所にたどり着くと、棚からタオルを取り出し、足の水気を綺麗にふき取り、持って来た靴下を履く。ふやけて冷えていた足が靴下によって温められる。
原生林の夜は冷えるため、防寒具を取りに行く。そのあとキッチンの箱から手軽に食べられる食材を探す。
箱の中を漁りながら美少女は頬を緩ます。
美少女は凄く嬉しかったのだ。今まで美少女を目にした者は皆卒倒するか吹っ飛んでいた、そんな中インフェリアイという美少女を見ても卒倒しない、目の悪い少女に出会った。それだけでも嬉しかったが、美少女のことが見えていないから卒倒しないだけ、ということが少し哀しくもあった。しかし、今日、インフェリアイの視力が良くなっている状態で美少女を見ても卒倒せず、なおかつ真っ直ぐ観てくれたのだ。その事実が今まで人に観られたことが無い美少女にとっては堪らなく嬉しかったのだ。
箱の中から具を挟んだ細長いパンを取り出してテントを後にする。
テントから出るとインフェリアイが手を湖に浸けていた。
「なにしてるの?」
防寒具をインフェリアイにかけながら美少女が尋ねる。
「水に浸けていないと見えなくなるわ」
受け取った防寒具に腕を通しながらインフェリアイが答える。そして美少女が持て来たパンを見ると立ち上がる。
「夕食ね」
「うん、今日も外で食べよう」
インフェリアイにパンを渡すと二人はその場で腰を下ろす。
パンを食べながら美少女は不思議そうにドーム内を見渡す。
「あれ? 動物たちいなくなってるね」
「ええ、気がついたらいなくなっていたわ」
ドーム内にいた全ての動物が姿を消して今は二人しかいない。風も吹かず、昨日はしていた葉の擦れる音すらもしない、外界から隔絶された様な不思議な静寂がこの場を支配している。
「この中だったらテントに入っても問題なさそうね」
「そうだね、寝るのは中で寝ようか」
パンを食べ終えると温かいお茶を飲んで一息つく。
「どれぐらいで見えなくなるの?」
「計ってないからなんとも、あなたがテントの中に入っている間に見えなくなったから、そこまで長くないわ」
「あーそれは残念」
ずっと見えるわけではないのか、と肩を落とす美少女。
エリメルラ洞窟で光る蝶に触れた時、あの時は気のせいだと思っていたが、結局視力は良くなっていた。そして、今回は湖の水に身体の一部でも浸けると見えるようになる。インフェリアイの話によると、身体の内からなにかが溢れてくる感覚を覚えるらしい。しばらく経つと見えなくなってしまうが、光る蝶と湖の水になにか秘密があるのだろうがインフェリアイ自身にもなにか、本人も知らない秘密があるのだろう。
「なんで見えるようになるのか、心当たりもないのよね?」
「ええ、全く。今も既に見えないわ」
美少女は口を尖らせる。そして、インフェリアイの手を引っ張ると湖に浸ける。
「どう?」
「なにが?」
「見えるようになるまでの過程を知りたいの」
「好奇心?」
「もあるけど、インフェリアイの目が見えるようになってほしいの」
「分かったわ。初めは冷たいけど、すぐに冷たさではなくなにかが染みこんでくる感覚。そして身体の内から力が溢れてくるわ。そしたら見えるようになるわ」
そこで美少女はインフェリアイの手を掴み上げる。
「次は見えなくなるまでの過程を教えて」
「今はまだ、力が溢れているわ。でも段々力が……無くなっていく? 抜けていく? みたいな感じかしら」
「ほう」
「そして徐々に見えなくなるのではなく、一気に見えなくなるわね」
「力が無くなった途端に見えなくなるの?」
「力が無くなってもしばらくは見えるわ」
「なるほど……」
「なにか分かったの?」
「いやあ」
「分かった風だったじゃない」
ジト目を向けるインフェリアイだったが、美少女は考えを纏めているらしく、顎に手を当てたまま眉根を寄せている。
「その溢れる力がなにか分かれば簡単な話なんだけどね」
「そうよねえ……調べたら分かるかしら」
「でもわたし達って人に聞くのにも向いていないよね?」
方や見た者を卒倒させる少女、方や目の悪い少女。人に聞こうにも、美少女は顔を隠していても卒倒させる可能性があり、インフェリアイは目つきが悪く、人が怖がってしまう。できないことはないが、難易度はかなり高い。
「残念ながらそうね」
肩をすくめたインフェリアイだったが「けれど」と指を立てる。
「本で調べればなんとかなるんじゃないのかしら?」
「おお! その手があったか」
手を打つ美少女だったが、すぐに眉根を寄せる。
「でも、本のある場所が分からないよ」
「それは人に聞くしかないわね」
インフェリアイは腕を組んで首を捻る。
「それぐらいなら大丈夫だと思うけど、そんな本って存在してるの?」
「それは分からないわ、それを込みで探すしかないわね」
「分からないことだらけだ」
二人は揃って唸る。改めて考えると二人には分からないことだらけだった。
「目的ができたんだからいいと思わない?」
美少女考えても分からないことを今は考えず、多分そのうち分かるだろう、と楽観的にとらえることにする。
目的の無い旅も良いが、別に目的ができても、さして問題は無い。二人で旅することには変わりないのだから。
「ええ、まずはここから出ないといけないけど」
「あっ忘れてた」
美少女は忘れていたが、二人がここにいるのは、美少女の好奇心のせいで迷子になったからだ。しかし、迷子になったおかげでというのが正しいのか分からないが、旅の目的もできた。
「まあ気楽にいこうよ」
逃げるように立ち上がった美少女はテントの中へと入っていく。
「そうね」
インフェリアイも美少女に続いてテントの中に入っていく。
そして、ドーム内は完全な静寂が満たす。
そんな静寂が満たすドーム内の湖の水面が僅かに揺れる。そしてそのまま水面の揺らぎは大きくなり、時間をかけて水面が持ち上がる。
湖から出てきたのは大きな眼球だった。大きさは湖の三分の一程、巨大な眼球は二人の入ったテントを見つめている。その見つめる目に敵意は無く、ただ二人のいるテントを見ているだけ、まるで遊んでいた子供が急に静かになったため、様子を見に来た親のような目だ。その後すぐに眼球はゆっくりと湖に沈んで行く。
もちろん二人はそれに気がつかない。