「今からこれ以上、誰かを殴った奴。俺はそいつと絶対にセックスしねえから」
この言葉の効力は絶大だった。
みんな無言で手を降ろし、俯いてしまった。
一時間ぶりに、この空間に静寂が訪れた。
俺は景品だ。男として頼れるだとか、カッコイイだとか、そういう目線では、誰一人として見られてはいない。
しかし逆を言えば、一個人として見られていない俺の価値は、この場にいる限り、普遍でもある。内面がクズだったり顔がブサイクだったりといった、俺自身のマイナス要素で揺らぐことのないものだ。
ありがたいことに、俺という物品は、ある程度、この場を支配できるほどには価値があるようだ。
よかった……。
「ごめん、テルヒコくん。その話は聞けないや」
胸をなでおろした瞬間だった。
俺の名を口にして、そんな聞き分けのない事を言う声の主は、困ったような笑みを浮かべていた。
「ヒトミちゃん……」
空手の道着は、ところどころ赤く染まっている。ついさっきまでは真っ白だったというのに……。
ボーイッシュな短い頭髪をポリポリ掻いて、スレンダーに引き締まった腰に手をあてて、俺の言葉を否定した理由を述べた。
「無理だよ、テルヒコくん。だってそうなると、だれも僕を止めることが出来なるなるんだからさ」
ヒトミちゃんは言いながら俺の手を取った。体を動かしたせいで上気した頬と、汗ばんだ肌の湿り気が妖艶だった。
彼女の体温の高さに、俺もつられて顔が熱くなる。
「テルヒコくん。セックスしよ? そして一緒にここから出よう」
いやダメだって!
そんなことすれば……!
「てめーふざけんな!」
「なに調子こいてんだ、この空手ブス!」
ほらー! 俺の気を引いたら、セックス未遂罪で即リンチなんだよ!
衝動的に阻止しようと二人がヒトミちゃんに襲いかかる。つられてもう三人、ワンテンポ遅れたが、このまま黙って見ていられないという焦りから飛び出した。
「ごめんね、正直、相手にならないんだよ」
ヒトミちゃんはこうなることを予想していたように、くるりと俺に背を向けて、迎撃の構えを取った。
さっきも、嫌になるほど見せつけられてたよ。インターハイにまで出場できるほどの空手家の動きってやつを。
素人目の俺からしても洗練された技術体系だった。ここにいるひ弱な女の子たちの動きなんざ、ヒトミちゃんには止まって見えてることだろう。
全員、一発で鼻血の海に沈むこととなる。
……今のヒトミちゃんはきっと、手加減なんてしない。
さっきまでの、本気で全員を相手にしようと考えていた、体力の温存を考慮した動きはやめて……見せしめのために、全力で迎え討つ気だ。
痛みと恐怖で、もう誰も自分に逆らえないように。
殺したっていいとすら思っているんじゃないか。
もし俺が格闘技経験者で、ヒトミちゃんと同じ立場だったなら、きっとそうするんだよな。
ヒトミちゃんにそんな考えがなかったとしても、このような最悪のシチュエーションを考慮した今……。
止めないわけにはいかない。
俺は、そうならないために声を大にしたんだからな!
「ストップ! みんなストーップ!」
「え!? ちょ、危ないよ!?」
身を挺して、俺はヒトミちゃんらの間に割り込んた。
誰もが驚いて、その動きを止めてくれた。
最悪なのは、俺を挟んだまま、関係なく殴り合いに発展することだった……。痛い思いをせずに済んでよかった。
「ふざけんな! なに庇ってんだよ! 男が出しゃばんな!」
庇われた側である女たちのが吠える。……そうだよな。そりゃ負けると思ってたら、突っかかっていかねえよな。
まあそんなことより。
くるりとヒトミちゃんを振り返る。
何を勘違いしてるのか、照れくさそうにはにかんでいた。
「僕を守ってくれたの? 気持ちは嬉しいけど、そんな必要、なかったのに……でも、あ、ありがとう……」
くっそ、可愛いなあ!
もうこいつとセックスしちゃってもいいんじゃないか!?
なんて考えを切り捨て、即座に顔をしかめる。ヒトミちゃんが可愛くて一瞬緩みかけた表情をぴしっと強張らせる。
「ヒトミちゃん、言ったよね。これ以上誰かを殴った奴とは、絶対にセックスしねえって。今、なんで殴る気まんまんだったんだよ」
「だってそうしないと、僕がやられちゃうからね」
「でも仕向けたのはヒトミちゃんだろ?」
「だってテルヒコくんとセックスしようとしたら、こうなるんだもん。だから言ったでしょ。その話は聞けないって。セックスの邪魔されないためには、みんなを倒すしかないんだ」
「みんなを倒しても、俺は、拳を奮った相手となんかセックスしねえぞ」
「うーん、テルヒコくんは、わかってないな」
ヒトミちゃんはやれやれと肩を落とした。
自らの拳と拳を打ち付けて、そしてから、ゆっくりとした動作で、俺の頬をむにゅっと殴った。
「私がその気になれば、テルヒコくんだって殴り伏せられるんだよ? 拒否しようがしまいが関係ない。殴って蹴って組み伏せて、無理矢理に犯す。本当はそんなことしたくないけど……仕方ないよね」
でも出来るだけそんなことしたくないから、言うことを聞いて?
上目遣いで甘えるようにそんなお願いをされたら、俺は……。
「自惚れるな」
パチン。
我ながら、底冷えするようなセリフを吐き捨てて、ヒトミちゃんに平手を打った。
目を丸くして、しばらく呆けて、それでも状況が理解できないでいるヒトミちゃん。
「……え? うそ、殴ったの? 僕を?」
噛みしめるように言葉を紡ぎながら、状況の整理をしていく。
理解できるようになると、彼女は即座に空手の構えを取った。
「何やってんのさ。テルヒコくんが僕に勝てるわけないじゃん!」
言いながら発射された右の正拳突きを、俺はどこから飛んできたのかも分からず顔面で受けた。
鼻っ柱がじぃんと痛い……。
「ほら! ぜんぜん反応できてないじゃん! ほら! ほらぁ! 無理なんだって! 素直に僕とセックスしようよ! 痛いのより、気持ちいいほうが好きでしょ!?」
当たり前だ。痛いのより気持ちいいほうが好きだ。
痛いのより気持ちいいほうが好きだ!
でもここでヒトミちゃんとセックスしちゃったら!
一生、心が痛いままなんだよ!
バチン──。
ビンタ一発。
再び、俺の手のひらがヒトミちゃんの頬を穿った。
「え、なんで……当たったの……? こんな素人の平手打ちなんて……!」
現実を受け入れられず即座に反撃するヒトミちゃん。その攻撃は、やはり、俺の目には到底見えるものじゃなく、頬骨にゴリッと当たって痛い。
だけど同時に、俺のビンタもまた炸裂した。
ヒトミちゃんの小さな顔が衝撃で歪む。細い首がギシッとしなって、彼女はよろけた。
「え、え、なんで、なんで……? 痛い。あれ、痛いよぅ……?」
「当たり前だ。男の腕力だぞ……。一発の威力のケタが違うんだよ」
対してヒトミちゃんのパンチは……たしかに痛いが、軽いんだ。
身長は高いが細い。筋肉量が男と比べて圧倒的に足りない。
そんな彼女の素早いパンチは、何十発と貰おうと、俺が相打ち覚悟でビンタを放てば、いずれ当たるその一発であっさりと大逆転されてしまうって話だ。
「まだやるかい?」
「ひっ!?」
俺が手を振り上げると、ヒトミちゃんはあっさりと悲鳴を上げた。
……ごめん、本当に、ごめん。
女に手を上げてしまった。しかもこの状況下で……俺が圧倒的に有利なこんな立場で、ヒトミちゃんに、そして女性陣のみんなに、絶望じみた恐怖感を植え付けたことだろう。
実際にみんな、怯えてる。
ヒトミちゃんがやろうとしていた暴力による支配を、意図せず俺は、成し遂げてしまったらしい。
誰もが何も言えない中、ヒトミちゃんのすすり泣く小さな声だけが、体育館に響いていた。
だめだこれじゃあ、みんな気持ちがだだ下がりだ。
……ここは、こんな空気を作り出してしまった、俺がまず最初に発言するべきだな。
「……えー、みなさん、落ち着いたでしょうか。あ、怪我した人はナースがいるんで診て貰って下さいね。いやあほんと……今日は災難でしたね、ははは……」
しーん。
だろうよ。
だけど力技でこんな重い空気を変える!
「とりあえず、自己紹介でもしませんか? えー、俺は渡辺テルヒコ。新卒のブラック企業務め。研修の名目で、深夜まで働いてますが、これまで残業代が出たことがありません。よろしく!」
しーん。
あれ、合コンじゃウケるんだけどな……。
ま、まあともあれ、こちらが指差しで指示すると、みんな仕方なしに自己紹介をしてくれるのだった。
さあ。これから先、どうなっちまうんだろうな。
俺は本当に、この中の誰か一人と、セックスをしなければならないのだろうか。