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三人は山へと足を踏み入れる。
一応山道のようなものはあるようで、草木をかき分ける必要はなかった。
「静かですね」
アリサが周囲を見回しながら言う。
「ダンジョンだからな。ただ、虫も鳥もいないのはありがたい。ダンジョンにいる虫や鳥はタチが悪いものが多いからな」
片倉の言葉にAKEBIが「確かに……」と頷いて、何か嫌な事でも思い出したのか一瞬表情を曇らせた。
実際ダンジョンの虫や鳥はほぼほぼモンスターで、それも一筋縄ではいかないものが多い。
しかも数が多く、初心者探索者の死因の第一位は虫に殺されるというものだったりする。
三人が見上げた先には鬱蒼とした樹々が重なり合い、昼間だというのに薄暗い雰囲気が漂っていた。
片倉たちは暫し無言のまま先へと進んでいく。
進み始めてしばらくすると、何の前触れもなく白い霧がわき上がった。
濃霧だ。
まるで誰かが一気にドライアイスでも放り込んだかのように、足元から冷たい白煙が絡みついてくる。
「霧……? こんな一瞬で……」
AKEBIが驚いたように言葉をこぼす。
その霧は見る間に濃度を増し、周囲の木々の輪郭さえすぐにぼんやりと隠しはじめた。
「視界が悪いな」
片倉は低く声を漏らし、足を止めてアリサとAKEBIを振り返って言った。
「はぐれないように少しかたまって歩こう。二人はなんだったら手を繋いで歩いてもいいぞ」
するとアリサとAKEBIは一瞬目を見合わせ、少し照れた様子でおずおずと手を触れ合わせ──
「冗談だよ、動きづらくなるからやめておけ」
という片倉の言葉ですぐに手を離した。
まあ緊張をほぐそうという片倉なりのジョークである。
◆
霧の厚みは想像以上だった。
ほんの数歩先を歩く人間の背中が、うっすらとしか見えなくなるほどの急激な視界不良である。
アリサは少し前を行く片倉の背中に手を伸ばし、AKEBIもまたアリサの肩辺りを掴むようにして、三人は互いの存在を確認し合いながらゆっくりと前進する。
地形がどのようになっているのかも分からない。
だが目的はただひとつ、山頂らしき場所を探し、そこから抜け道や出口に通じるルートを確認することだ。
「こんな濃霧、普通じゃないよ……」
AKEBIが苦々しい表情を浮かべながら呟く。
普通ではないが、ここはダンジョンだ。
自然現象とは呼べない怪異の一端である可能性は高い。
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三人は慎重に足元を探りながら坂道を登っていった。
黙々と進むうち、徐々に勾配がきつくなってきたのが足裏の感触からでも分かる。
小石が転がり、落ち葉が多く積もった地面は滑りやすい。
さらに霧で視界が奪われている今、少しでも足を踏み外せば大怪我に繋がりかねない。
「片倉さん、足場が崩れやすそうです」
アリサが注意を促すと、片倉も「わかってる」と短く答えた。
AKEBIは何も言わずに黙々と後ろをついてくる。
普段は快活な彼女も、さすがにこれだけ不気味な状況では冗談を言う余裕などないらしい。
やがて、急な斜面を一つ越えたあたりで、アリサの足がぐらりと滑った。
「わあっ!」
アリサは転ぶまいと身を捻ったが、体勢を崩したせいでそのまま斜面を転がりそうになる。
「アリサ!」
AKEBIが叫んだ時、片倉が素早く反応した。
片倉はアリサの腕を掴み、ぐいと引き寄せるようにして自分の胸に抱き留める。
ドサッという鈍い音を立てながら二人は地面に片膝をつく形になったが、何とか転落は免れた。
霧の中で慌てていたアリサは、片倉の腕の中で肩を上下させながら息をつく。
「す、すみません。いきなり足元が崩れたような感覚が……」
「無事ならいい」
片倉は淡々と応じ、すぐさまアリサの腕を解放して立ち上がる。
「ここから先、もっと慎重にな。何が待ち受けてるか分からんぞ」
アリサは小さく礼を言い、少し顔を伏せた。
AKEBIはほっと安堵の息を漏らしつつもボヤく。
「霧で足元が全然見えないし、ここどこまで登ればいいんだろ……」
途中で一息ついた三人だったが、相変わらず霧は濃く、歩を進めてみても景色は一向に変わらない。
足元には斜面が続いているのか、あるいはもう道を外れてしまっているのか、判然としないほど視界は白一色に染まっていた。
進んでいるうちに、風の向きが変わったようにも感じる。
何かが息を吹きかけているかのように、霧がうねるように揺れ動き一瞬だけ小さな空間が開けると、そこに奇妙な違和感があった。
「……ん? 待って」
アリサが霧越しに前方を覗き込む。
白い幕の向こう側で、地面の高さが明らかにずれている箇所があるように見えた。
「段差か……?」
片倉も目を凝らすが、この霧では確たる判断は難しい。
AKEBIが小走りで近づこうとして、片倉に腕を掴まれた。
「慌てるな。俺が行くから少し下がってろ」
そう言うと片倉は歩幅を小さく、慎重に足を踏み出していく。
地面を確かめるように数歩、さらに数歩。
すると不意に視界がひらけ──
「っ……!」
片倉は思わず立ち止まって息を呑んだ。
そこには崖があった。
一歩でも踏み出せば奈落へ真っ逆さまだ。
AKEBIとアリサが少し遅れて近づいてくるが、片倉は後ろ手に制止の合図を送る。
「崖だ。気をつけろ」
AKEBIは肩越しに覗き込み、ぎょっとしたように息を飲む。
「ほんと……ここ、ずっと山道を歩いてたはずなのに……崖道になってるってこと?」
アリサも慎重に一歩前へ出て下を覗き込んだ。
大分高い崖のようで、底は闇に包まれて見えない。
奈落──そんな言葉が片倉の脳裏に浮かぶ。
「どうして……最初から崖を歩いていたわけじゃないよね。山林の中を歩いてたはずなのに」
アリサの疑問に、片倉は苦い表情を浮かべる。
「幻だな。霧のせいか、いやダンジョンの干渉なのか……とにかく俺たちはさっきから崖沿いをずっと登っていたのかもしれん」
「崖かどうかも分からないまま……下手したら全員転落してたかも」
AKEBIの声が震えを帯びる。
「幸い、霧は晴れたからな……注意すれば落ちるということもないだろう」
片倉の言葉に二人は緊張した様子で頷いた。
◆
三人は崖際を壁にするように、身を寄せながら慎重に一歩一歩を進めていく。
地面は滑りやすく、足元に小石が転がっている。
まるで綱渡りのような緊張感の中、進んでいた時、上方からぱらぱらと何かが落ちてきた。
最初は細かい小石か砂利かと思っていたが、次第にその落石は大きさを増していく。
「なんか嫌な音が……!」
アリサが声を上ずらせた瞬間、大きな岩が崖肌からごろりと転がり落ちてきた。
AKEBIはとっさに身を伏せるが、どうやら落ちてくる岩はただの落石ではないらしく、狙った様に三人めがけて迫ってくる。
「嘘でしょ、岩がこっちに向かって……」
アリサの悲鳴交じりの声に、片倉が素早く反応した。
「下がれ!」
そう怒鳴るや否や、片倉は崖道のわずかに広い部分に跳び出し、落下してくる大岩を睨みつけるように身構える。
次の瞬間、凄まじい衝撃音が響いた。
片倉が足を踏み込み、全身のバネを利用して大岩を蹴り上げたのだ。
岩は空中で粉々に砕け散り、周囲に無数の破片を撒き散らす。
破片が雨のように降り注ぐのを、AKEBIとアリサはそれぞれ手槍と拳銃で弾くように迎え撃つ。
細かい破砕音と金属音が重なり、霧の中へ消えた。
「はぁ……はぁ……」
AKEBIは短い呼吸を繰り返しながら崖際に張り付く。
アリサは手にした拳銃を下ろすことなく警戒を続け、辺りを睨む。
片倉はかすかに汗の滲む額を拭い、背後の二人に向かって「大丈夫か」と声をかけた。
「何とかなった……片倉さん、今のすごいですね」
岩を砕くくらいならアリサやAKEBIにも出来なくはないかもしれないが、あの状況で素早くそれを行ったというのは流石にベテランだけはある──というのがアリサの片倉評である。
AKEBIもまた同じように息が荒い。
「こっわ……」
「トラップだな。自然じゃない軌道だった。まあ無事ならそれでいい」
片倉はそう言って崖上を見上げる。
「早く……こんな霧の中から出たい」
AKEBIが小声でそう零すと、アリサも同意するように頷いた。
「ココから出たら何日か探索はお休みしたいです」
三人は再び歩き出す。
崖の角度は次第に緩やかになっていくようにも感じられ、勾配が和らいできた証拠か脚への負担が若干軽い。
それが山頂が近い兆しなのかは分からないが、希望を見い出すには十分だった。
◆
崖道をしばらく進んでいくと、崖肌に何やら不自然な裂け目のようなものが見えた。
単なる亀裂にしては妙だ。
縁のあたりの岩肌が動いている様にも見える。
腕あたりにすっぱりと大きめの創傷があったとして、手に力を込めれば筋肉の動きなどで傷口付近の皮膚も引っ張られて動く──例えていうならそんな感じだった。
そう、まるで生物の皮膚の様に岩肌が生きている様に見えるのだ。
「なんだか気持ち悪いね……」
AKEBIの言葉にアリサも同意する。
片倉はじっと裂け目を見るが、厭な勘は働かない。
しかし "良いものもない" という気はした。
片倉が注意深く近づき、裂け目を近くから観察する。
岩肌は確かに僅かに動いているようだ。
まるで山そのものが生物であるかのように──
「先を急ぎませんか? ここに留まっているのもなんだか厭な感じがするし」
AKEBIがそう言った途端。
「うわっ……!」
とっさに身をひいたAKEBIの目の前で、赤い何かが飛び出して地面へ落ちた。
赤い粘体──まるでスライムのようなそれは地面の上でぷるぷると震えている。
「AKEBI!」
心配したアリサが駆け寄ろうとするが、片倉が腕を掴む。
「下手に近づくな。まずは様子を見ろ。AKEBI、ゆっくり後退りしてこっちへ戻れ──目を離すなよ」
AKEBIは槍を構えたまま後退した。
するとその赤いなにかは震えるのをやめ、ぐじゅる、と音を立てて地面へと染み込むように消えてなくなった。
「地面が、焦げてる……いや、溶けてる?」
アリサがぞっとした様子でいう。
見れば赤い何かは強い酸性を帯びていた様で、地面は焦げたように黒くなっていた。
「あの手のは何となくわかるはずなんだがな……もしかしたらトラップでもなんでもなく、そこに意思が介在しないただの "現象" だったのかもな」
片倉の言葉にAKEBIはうへぇという表情を浮かべる。
溶岩煮え立つ火山の山肌にぽっかり空いた穴──それを覗き込み、運悪く噴き上がってきたマグマに焼かれたとして、それは誰かによる悪意の結果なのか? という話である。
被害に遭う探索者からしたら冗談ではないが、 "そういうふざけた環境" というのはダンジョンでは珍しくない。
再び三人は崖道を慎重に進んだ。
しばらく歩を進めるうち、崖沿いの道がやや広がった場所に差しかかった。
足元を見ると、古いロープの端切れや壊れたバックパックのようなものが散乱している。
「前に誰かがここを通ったんですかね……」
アリサがバックパックの残骸をつまみ上げながら言う。
素材はところどころ焦げているようで、何らかの衝撃や熱に晒されたのかもしれない。
中にはぼろぼろになったメモ帳の切れ端が残っていたが、文字は判読できなかった。
「他にもどこかに探索者がいるのかもしれないけれど──」
片倉はメモ帳の切れ端をじっと見つめると、「死んだか、取り込まれたかだろう」と呟いた。
未帰還の探索者はどうなるのか? という疑問には諸説ある。
単純に死んだというのがまずもっとも多い説だが、ダンジョンに取り込まれてモンスターとなるという説も近年では多く唱えられる様になった。
実際、ダンジョン生成の際にその場にいた生物や、その場にあった物はダンジョンの干渉の影響を特別強く受ける。
その結果、人は人で居られなくなり、物が物でいられなくなることはままあるのだ。
崖から下を覗き込んでも、霧と闇が深くて底は見えない。
もし落下したのであればまず生存は期待できないが、ダンジョンという場所では何が起こっているか分からない。
「とにかく、ここに長居は無用だろう。先へ進もう」
片倉がそう言い、三人は慎重に歩き始める。
そうしてさらに十分ほど足を進めると──
「山頂か」
片倉はそういって、最後の一歩を踏み出す。
次の瞬間、三人の視界を遮っていた霧が嘘のように晴れた。
「……ここは」
AKEBIが思わず息を呑む。
そこは山頂、というよりは木々に囲まれた平坦な空間だった。
小広場というべきだろうか──うっそうとした森の奥とは思えないほど広々と開けていて、まるで誰かが切り開いたかのような円形のスペースができている。
「これも幻覚?」
アリサはきょろきょろと周囲を見回す。
雑木林がぐるりと取り囲むように外周を形成しているようだ。
見上げると頭上は開けていて、灰色の空がかすかに覗いていた。
静寂の中、風のざわめきだけがゆっくりと耳を撫でる。
「片倉さん……あれは──」
アリサが小声で言う。
一つは朽ちかけた木製の鳥居で、もう一つはいわゆる社殿だ。
赤い鳥居と社殿、つまり──
「神社……?」
AKEBIが首を傾げる。
アリサは眉をひそめながらも、興味深そうにその神社を眺めている。
ダンジョンが顕現する前からあったのか、それともダンジョンの干渉によって生まれた存在なのか。
どちらにせよ、この場所の“異様さ”を象徴するような建物だった。
「行ってみるか。お前たちもいいか?」
片倉が振り返ると、AKEBIとアリサは黙って頷いた。
ダンジョンの奥には、攻略の鍵や脱出のヒントが潜んでいることが多い。
「まずは鳥居を調べてみよう」
三人は距離を保ちつつ、慎重に赤い鳥居へと近づいていった。
◆
鳥居は赤が褪せ、ところどころ苔に覆われている。
木材が朽ちてひび割れを起こしているが、それが妙に味がある。
「まあ、普通の鳥居……なのかな?」
AKEBIが鳥居みながら小さく呟く。
アリサはその後ろで神社の社殿を眺め、さらにその先に目を凝らした。
「なにか……空気が揺らいでいるというか」
アリサの言葉に片倉も社殿の方を見る。すると──
確かに、かすかに空気の流れが揺らいでいる箇所があるようだ。
「少し離れたほうがいいかもな」
片倉は言うなり、数m離れる。
アリサとAKEBIもそれに続き、暫く観察していると。
「あっ」
AKEBIは思わず声をあげた。
「あれ……何か光ってる。あの丸いの……」
三人が見ているうちに揺らぎは大きくなり、光を帯び。
そしてあっというまに何かの──楕円を縦にしたような形の "穴" が開いた。
ゲームなどでよくあるワープゲートのような、そんな感じの宙に浮いた穴だ。
穴は光り輝き、向こう側は見えない。
いや、見えないというより極彩色の光彩が渦巻いており、得たいがしれないといった方が正しいか。
「出口だったりして!」
AKEBIがそういうがしかし片倉はその場に立ち止まり、厳しい表情で睨みつけるように光る円を見つめていた。