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「夜になってもこの暑さ……まったくうだるぜほいほほーいっと」
熱帯夜の町に、オレの軽薄さと暑苦しさがこもった声が吸い込まれる。
郊外にある住処への帰り道は道沿いに小さな畑と家屋が建ち並んでいる小道。
言っちゃあなんだが、夜中に「明日は明日の風が吹く!!」なんてデカデカとプリントされた半袖にハーフパンツ姿+サングラスの夜遊び若者の声は近所迷惑だろう。
だが、誰も窓を開けてキレてくるようなことはなかった。
それほど外はゆだりそうに暑くじっとりしていて、一寸でも冷房の効いた部屋から出たくないと思わせる。
早く帰ってキンキンに冷えた飲み物でも煽りながら涼みたい!
手持ちのコンビニ袋に投入された缶がまだかまだかと待ち構えているのだ!
そんで眠くなったらさっさとお布団にダイブして、次の日を迎える。平日だろうが関係ない。大学生の俺は既に一際長い夏休みへ突入済みなのだから。
「さようならめんどくさい日常! こんにちは待ち遠しき自由の日々よ!」
少しだけ酔いが残った身体を揺らしながら外灯の少ない道をテクテクフラフラ進んでいると、愛すべき見慣れたオンボロアパートが見えてきた。家賃がとても安価なオレの
壊れる前に大家さんに教えてはいるものの、一向に修理される気配がない。ま、めんどくさがる気持ちはわかるけど、階段が壊れて事故る前になんとかして欲しい。
そんな割とどーでもいいことを考えていると、人間大のシルエットが目に入った。そいつは皆月晴兎の名前が入った表札もない、オレの部屋の前にいる。
ホラー映画の人型怪異が呪い殺しにきたかと一瞬ビクッとなったが、
「……あん?」
ぼんやりとした備え付けの外灯の下で目をこらすと、それは井戸に落とされた女の亡霊――ではなく体育座りでうずくまっている制服姿の女の子だった。
だからといって事態が好転するわけじゃない。考えようによっては怪異を遥かに超える現実的な厄介ごとかもしれない。
相手にバレないよう距離をとったまま、オレは様子を覗ってみた。
女の子の顔は膝に埋まっているのであまり見えないが、背中にかかる長さの艶やかな黒い髪の子だ。
全体的にスレンダーでしなやかそうな肢体は運動をよくする人のソレで、妙に
脇に置いてあるのは……合宿や修学旅行に持っていくようなドラム缶バッグだ。パンパンではないにせよ、多少の膨らみが保たれているのでそこそこ物が入っているもよう。
よし、まとめてみよう。
もし警察に通報するならこんな感じか。
『助けてポリス! ウチのオンボロアパート(オレの部屋)前に小麦色の肌をした妙にえっちな
通報を受けた警察は、すぐさまオレん
イカついゴリラみたいな警察官が任意という名の聴取にオレを連れていき、同行した婦警さんが女の子に寄り添い「もう大丈夫。反吐が出る変態ゲス野郎はもういないわ」と慰めて――。
ははっ、我ながらなんて危険すぎる通報妄想なんだ。
これでは怪しまれるのは百パーセント中の百パーセント、オレ自身だろう。
あの制服少女が少しでもオレを陥れる嘘でも吐いた日にや、清廉潔白な一大学生男子はあっという間に性犯罪者扱いされるに違いない。
ないわー、それはないわー。
元々警察に頼る気なんかミジンコレベルにしか無かったが、今となっては完全に無の彼方へと消しとんだわ。
脳内でそう結論付けた時、たまたま少女が頭を上げる。そのキリッとした目の縁には雫の欠片が輝いて見えた。
「泣いて……?」
思わず反応してしまった際に力が入ったのか、触れていた階段のボロい手すりを構成する細い柱の一部がゴキン! と鈍い音をたてて折れてしまった。咄嗟に床に手をついたまではよかったが、コンビニ袋の中身である酒缶がガンガンガラン! と派手に転がり落ちていく。
静かな建物内に盛大に響いたその音を聞きつけて、少女がこちらへと向いた。
そのアクシデントによって、ハッキリとオレの瞳に彼女が映った。
同時にオレが隠れて様子を覗う意味も消失する。
――――おいおいマジかよ。
「……そんなところで何してるのよ、晴兎」
「こっちの台詞だそれは」
オレの名前をハッキリと呼ぶクールな声。
泣いていたことを悟られまいと、ぐしぐしと制服で目元をぬぐってから一瞬で切り替わった美人なおすまし顔にチャームポイントの涙ぼくろ。
どれもこれもが、見覚えがありすぎる程に知っているヤツの顔だった。
「まさかとは思うが、今日は遊びに来る日だったか?」
一人暮らしの大学生の部屋なんぞ、友人知人にとっては格好の溜まり場だ。事前連絡もなしに立ち寄るヤツに心当たりがなくもないが……それがコスプレではなくガチの現役JK様となれば一人しかいない。
とにかくだ。
誰かに見られてオレが社会的に不利になる前に、コイツを移動させなければ。
「こんな暑いところで立ち話もなんだから、中に入るか」
「久しぶりに会った従姉妹相手には名前も呼んでくれないのかしら? まさか忘れちゃったわけじゃないわよね」
忘れるはずがない。忘れられるわけもがない。
オレに対しては基本強気で勝気な、気の置けなさすぎるクールな従姉妹様の名前なのだから。
「わかったわかった。わかったからそう責めるように睨むなよ真理那!」
汐凪 真理那。
それがオレの部屋の前に座りこんでいた、従姉妹の名前。
「睨んでるように見えるのはあなたにやましい事があるからかしら。主に女性関係だったりして……? ねえ、どうなの、晴兎」
ゆっくりと歩み寄ってきた真理那の手が伸びて、パーの形でオレの前に差し出される。ふいにその動作――シークレットハンドシェイクなるものを懐かしく思いながら、オレは同じ形で出した手のひらをゆっくりと重ねあわせた。
「生憎、そんなやましい事が思い当たるほど爛れた関係は作れてないぞ。つか、わかってて訊いてるだろお前」
そんなオレの言葉に『ええ、そうね』と応えるように、真理那は静かに微笑みながらまるで恋人繋ぎをするかのように、オレの手をキュッと握りこんでいた。
「そんな晴兎に報告したいことがあるの」
「おお、言ってみ」
「家出してきちゃった」
オレの口から大分マヌケな「は?」の音が零れ、ハンドシェイクは逃がさないように強くなっていた。