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第44話 下民のわざわいは天より降るに非ず。だいたいの不幸って天罰じゃなくて身から出た錆。

 趙武ちょうぶは気を緩めてはいけないと、背を伸ばし、大叔父を静かに見つめていた。士匄しかいも緊張を解いていない。半ば屈服した大叔父と違い、斉人には余裕が見えた。

 場にただよう硬さをほぐすように、斉人せいひとがにこやかに口を開いた。

けいになられる趙孟ちょうもうと、斉の傘下に入られた趙氏ちょうしが互いに昵懇じっこんとなるのは良きことです。我らから申し出たいところでしたが、趙孟から教導を願い出られた。その謙譲は趙氏の栄えとなるでしょう。この友誼の儀として、我らから進物をお贈りいたします」

 しずしずと出される書簡を受け取り、士匄が紐解く。内容は珍獣と奴隷、馬に車であった。

「珍しき東山の獣は瑞兆でございます。しかし我が晋は西の国です。東の獣が生きるには辛いこともございましょう。また、馬に車、随従の奴隷は未だ卿でもない我らにはもったいないものです。お心は頂き、贄を返すが昔からのならわし。既に取り交わしたぎょくはくはいただきましょう。しかしこちらのにえはお戻しいたします」

 見終わった目録を相手に戻すように床に置き、士匄は拝礼した。馬も車も随従も、となれば、それを使って帰国しろということとなる。それらが帰路で牙を向かぬとも限らぬ。従順であったとしても、趙武は分を越えた進物を斉から受け取り、見せびらかしながら帰ることとなる。趙氏が浮き上がり政変の餌食になるのはかまわないが、介添えした士匄が無能と思われるのはまっぴらであった。

 斉人は、士匄の拒絶を笑顔で受け流した。

「我が斉は今、晋を大国として仕えております。我らの贄を受け取ることは改めての交誼の儀に適っております。訪れたあなた方を歓待して終わるなら贄は返していただきましょう。しかし、これからのよしみを思えば、お納めしたいと存じます」

 それは、臣従の儀礼だろう、と士匄は怒鳴りたくなったが、腹立ちを礼と理を尽くした言葉で飾って、臣従するわけでないからいらぬとにこやかに返す。斉人は、理屈を捨てて貰えるものは貰っておけ、おじさんからのお小遣いだ、ということを回りくどく言った。

 介添え人たちの言葉は、膠着状態となっていった。互いに礼儀から離れぬぶん、見応えも聞き応えもあったが、不毛でもある。大叔父は、斉人に任せている。つまり、介添人のほうが格上ということであろう。趙武は軽く肩をすくめた。

范叔はんしゅく。あなたは介添えです。私に是非を問うのが本筋というものです」

 趙武が手で制したそれに、士匄は仕方無く引き下がった。つまり、趙武は一歩引き相手に任せるということでもあった。

「本日はお会いできてよかったです。互いに黄河の東端と西端におりますので、なかなかお会いすることできませんから」

 少しぎこちない笑みで、趙武が言った。二度と会わぬという宣言であった。大叔父が拝礼したあと、

「范叔の仰るとおり、我らの進物はかさばるものです。返していただくは儀にあらねど、差し上げたものは趙孟のご自由に」

 と、静かに言った。どこか焦りのある声音でもあった。斉人が一瞬、睨み付けたのを士匄は見逃さなかった。

 斉人の宣言どおり、新たな馬と車、随員が用意されていた。控えていた者たちは帰らされていた。一人だけ、趙氏の随員が残っていた。なんとか手勢全員が追い返されることはまぬがれたらしい。筋骨隆々のたくましい若い男で、いわば趙武のボディーガードであろう。士匄は憮然とした顔を隠さず、趙武と共に新たに用意された車に乗り込む。絶対に、あのいけすかない斉人を屈服させ顎でこき使ってやると決めた。

「趙孟は周都しゅうとが初めてと伺いました。ゆっくりとご覧になって邸に戻られるが良いでしょう」

 士匄の心中など知らず斉人が見送りながら笑み、随員たちを手で促す。元々言い含められていたのであろう。御者はゆっくりと出発し、趙武たちの仮屋とは違う方向へ進んでいった。

「大人気ないのでは、ないでしょうか」

 古い街並みに消えていく馬車を見送りながら大叔父がぽつりと言った。斉人はまあ、そうですなあ、と朗らかに笑い、

「ちょっとしたいたずら、諧謔のようなものです。それに珍しいものに目が眩めば、それだけのことでしょう」

 とうそぶいた。

 斉人の用意した馬車は洗練されており、進物というに相応しいものであった。敷布も丁寧に織られ、質が良い。隅に布で覆われたのようなものがあった。目録にあった、東の珍獣である。体が甲羅に覆われており、亀かトカゲかと思ったが、腹側は毛が生えていた。

「顔は大きなネズミにも思えますし、お腹はウサギのようです。この甲羅ははっつけたものではないようですね。不思議な獣です。でもかわいい」

 言いながら趙武が取り出し、抱きかかえた。抱えられた珍獣は驚いた顔をしたあと、くったりとする。よもやこれだけで死んだのかと、趙武は慌てた。押しつけられたものであるが、預かった獣がすぐに死んだとなれば、不祥である。が、どうも寝たふりだったらしく、鼻がひくひくと動いていた。趙武は、安堵し、

「かわいい。なんという獣なのでしょうか」

 とその腹を撫でながら言った。士匄は苛々しながら口を開く。

犰狳きよ、だそうだ。東山とうざん二首に属する山にいる珍獣らしい。なにかこう……ひっかかる。くそ、わたしとしたことが、思い出せぬ」

「なんでもかんでも覚えてられるわけではないと思いますし……そもそもご存じないのではないですか? 伺うに東山にわずかばかりいる獣なのでしょう。あなたは頭がよろしいですが、なんでもご存じというわけではないでしょう」

 趙武が犰狳をあやすような手つきでかごに戻した。この珍獣は羊の子よりもおとなしく人なつこい性質のようであった。

「……わからんが、何かざりざりする感覚だ。その獣を見たくない、布をかぶせてろ」

 苛立ち紛れに言い放つ士匄に、趙武は呆れた顔を向けたが、おとなしく布をかぶせた。ここで下手に抵抗すれば、この珍獣を外に放り投げかねない。この先達はなのである。趙武は繊細な性質ではないが、目の前で小動物が無惨に殺されるのを平気で眺められるほど鈍感ではなかった。

 寒さ避けの布を少し開ければ、古風ゆかしき見事な周都の景色が流れていく。無駄な寄り道は本意では無かったが、好意と受け取り、趙武は旧都を楽しんだ。少しずつ広がっていったらしいこの都は、ところどころ古い城壁の跡があった。

 そのうち、いやに広い道へと出て行く。

「……范叔。これ」

「ち。しょうもない嫌がらせをするつもりか」

 馬車は、周都の門をさっと抜けて、外へ出ていった。そこは、境界でもある。ゆうゆう、都市と都市を繋ぐ道は異界と人界の狭間といえる。士匄は趙武に顎で促した。趙武が頷き、外へ顔を出して声を張り上げる。

「私たちの仮屋は周都の中です。まだ掃き清め旅立つ儀をしておりません。戻りなさい。主として命じます」

 趙氏に進呈されたはずの奴隷、すなわち随員たちは新たな主人の命に頷かなかった。一人だけいた趙氏の小者も首を振る。

「あちらに、古き道祖どうそを祀る場があるそうですよ。斉の貴き方の粋なはからいです。周都を守る道祖でございますから、ご挨拶すれば吉祥となることでしょう」

 趙氏の小者が軽薄な響きをもって言う。こいつもグルだったのか、と士匄は舌打ちする。趙武が愕然とした顔で己の家僕を見た。

「どうして。あなたの一族は我が祖父にも父にも仕えていた」

 ただの奴隷ではない。一族総出で趙氏に仕え使われ保護されていたのではないか。それは身内ということである。家僕はせせら笑った。

「我が父も兄も、趙氏の騒乱に殉じて死んだ。散々振り回されたあげくに、新たな主が女みたいなガキだと。みな喜んでいたが、俺はもう厭気がさした。斉人は気前がいい」

 最後の言葉が本音であろう。元々忠心の無い男が賄賂で主人を売り渡したという話であった。

「やめろ、引き返せ」

 士匄が身を乗り出して言うと同時に、誰かが御者に合図し、馬が走り出す。こうなれば、馬車から飛び降りるのは自殺行為であった。

「道祖ってのはどれですかい!」

 御者が楽しそうに叫んだ。

「その、朽ちた石だ!」

 誰かが指し示し、どっと笑う。祀られていれば、石が朽ちているはずもない。道祖というのも誰かが勝手に言い出した、名前だけのものだと、彼らは思い、そして笑った。そんなしょうもないものを祀れと放り出されるのであるから、若い貴族たちは滑稽である。その上、大貴族だというのに供もなく、みずから門番に通して下さいと頭を下げて民のように歩いて帰るわけである。その恥辱に、家僕だけでなく奴隷たちも気が晴れるというものであった。

 淫祠いんしが指し示す祟りに怖れをなし、陰陽天地、河神かしん山神さんしんをなんとなく崇め、己の祖を祀る。その程度は彼らもわかる。だが、誰も気にかけぬ朽ちかけた石に神を思わない。しかも、権威ある斉人が、ただの朽ちた石だと教えたのである。彼らは、権力者の言葉を悲しいほど鵜呑みにしてしまうものどもなのだ。

 馬が『場』に飛び込み、車輪が朽ちた石をはね飛ばした。深く地中に埋まっていなかったのか、土台が崩れていたのかは分からない。下から響く衝突音と共に、車内は大きく揺れた。趙武は思わずかごに手を伸ばし抱きかかえる。

「こ、の、アホ!」

 士匄はかごごと飛んでいきそうな趙武をひっ捕まえて抱え、わざと倒れた。勢いで馬車から放り出されることないよう、体をひねって壁際にその身を滑らせる。

「あ、ありがとうございます」

「お前あれだろ。火事になったら、羊を連れて行こうとして邸に戻り、焼け死ぬ馬鹿だ」

 士匄は吐き捨てる。趙武が恥ずかしそうに顔を赤らめた。

 やりきった御者も、随員も、趙氏の家僕も、そのまま立ち去るはずであった。斉人に言われたのは、周都の外にある道祖、いや朽ちた石の前に二人を放り出せ、である。若い彼らにちょっとした遠足をしてもらいたい、この周辺も散策していただこう、などと嘯いていたが、街の外れに放置して恥をかかせろ、ということである。

 ただ、実行犯というものは、最後まで見届けたくなるものである。それが素人であればなおさらであろう。彼らは、士匄と趙武が無様に馬車から降りてくるところを見物しようとした。御者も同じ思いだったらしく、馬車から降りて、他の者と目配せする。

 そして――

「ぎゃああああああああああああああああああああ」

 男たちの叫び声が響き渡った。

 士匄は、趙武を抱え、馬車から飛び出た。と同時に、魔を払う犬の吠え声がとどろく。冠を飾る護符、犬の骨が粉となってさらさらと肩へ流れ落ちていった。視線をめぐらせると、御者を含めた男たちが、瘴気に囲まれ、首を掻きむしりながら倒れていた。叫び声は断末魔というものか。吹きだした瘴気は、『犬の吠え声』に怯んだようで、動きを止めていた。

「走るぞ」

 言い放つと士匄は返事も聞かず走り出す。頷きながら趙武も共に走り出した。

 都の外に祀られている道祖――境界の神は、異界と人界の境を守るものである。ゆえに旅をするものを守りもする。しかし、境界は異界と人界だけではなく、彼岸と此岸の間にもある。そんなものに祟られれば、即座に死ぬはめになる。

 死なないとなれば、どうなるか。

 走っても走っても、周への道はなく、都への門は見えてこない。気づいたときには、寒風吹きすさぶ荒野を士匄と趙武は走り続けていた。

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