馬が止まり、車内の揺れが止まった。相手の仮屋に着いたのだ、と
「お前はこれから、二つのことをする。まずは己への疑心を払う。わたしにとってはバカバカしい話だが、お前にとって重いのであれば自らすすげ。もう一つは手駒を飼い慣らす」
「男としても氏族を束ねる主人としても、わたしに介添えを願うなど無様なことだとわかってはいるのだろう。後輩たっての願い、頼みだ。先達として引き受けてやろう。わたしはお前が
その声音に真摯さはなく、愉悦を込めた軽薄さがあった。心底愉快そうな顔でのぞきこむ士匄に、趙武が呆れた顔を見せた。
「人の大事を娯楽のようにご覧になるのは悪趣味でしょう。でも、励ましのお言葉嬉しく思います」
最後に唇を軽く噛んだあと、趙武は前を向いて地に降りた。
若い二人を門にて迎えたのは壮年にさしかかろうとしていた男二人であった。士匄は、拝礼し口を開く。
「
趙武を先導し拝礼した士匄の所作は見事としか言いようがない。やればきちんとやる男なのである。
「武王の御子、
斉人は洗練された返礼をした。この男は名乗っているものの、作中は斉人で通そう。趙武と大叔父も互いに拝礼し、道を掃き清める斉人の先導で邸の中へ進んでいく。とかく、貴族のやりとりというのはめんどくさい。
ここから、訪問者が礼物を渡す儀により決められた
儀式の間、趙武はそっと大叔父を見ていた。もの柔らかな所作の男で、人と人の間を取りなしているという評判は嘘ではないらしい。派手さはないが整った顔をしており、年齢もあいまって男の色気が香るようであった。この顔で優しく口説かれれば、世間知らずの女は心がさあっと蕩けるに違いない。
「
全ての儀礼が終わり、雑談が始まって早々、大叔父が言った。どこか懐かしさを込めた声音だった。
「……書を幾度も交わしましたからでしょうか」
思わず問う趙武に、士匄は舌打ちをしそうになった。猫なで声で近づくものなど、裏があるに決まっているのに、何を馬鹿正直に問い返すのか、と心の中で罵倒する。受け入れるなら『親しみを感じ入ってくださり光栄でございます』とでも返せばよく、遠ざけるなら『あなたのような経験多き方のお言葉ありがたく存じますが、いまだ若年の身です、畏れ多いことです』とかわす。青い、と内心吐き捨てた。顔は、外交モードの落ち着いた笑顔のままである。士匄は極めて身勝手で自儘な人間であったが、やれば作り笑いだってできるのだ。
さて、
「いいえ。あなたは父君の……
趙武の父の
誠意を以て尽くしたがままならなかったという風情で、ともすれば被害者のような態度である。趙武の父や母のために心くだいたが理解されず運悪く追放された、とも聞こえなくもない。しかし、実家である公室に引き取られ、産んだ子と引き離され虚しく過ごす母が、大叔父を積極的に誘惑などするわけがないのだ。意図を持って近づかなければ、君主の娘であり大貴族の妻が大叔父を意識するわけがない。そう、趙武は思った。思いたかったのかもしれぬが。
ふざけるな。
その言葉を趙武は喉奥に飲み込んだ。士匄がそっと袖を引いて目くばせしたからである。趙武は欠損家庭の青年としてここにいるわけではない。趙氏の長として、追放した同族と対峙している。士匄の少々険のある目はそれを忘れるな、と言っているようであった。趙武は小さく唾を飲み込んだ後、口を開いた。
「私は父の顔を知らず、その不孝に思い悩んでおりました。しかし、私に父の面影を見てくださった。これから己の顔を見るたびに父への祀りを思うことができましょう。しかし、母を慰めるにあなた個人が行うは僭越というものでした。趙氏の正室、
ゆっくりとした趙武の声は、弁の下手な彼が必死に考えた、精一杯であった。大叔父の顔が若干たじろいだ。彼は、趙武のゆっくりとした――士匄から見れば鈍い――弁に余裕と圧迫を勝手に感じたのである。
一人隠され育てられる趙武を援助することなどせず、未亡人に通じた大叔父である。趙武など、世間知らずの青二才と思っていたし、もっといえばどうでも良かった。追放され過去に生きている彼にとって、趙武は甥と愛人の写し身でしかない。その、どうでもよい青年から余裕ある態度で、
『お前は追放されるべくして追放された』
『こちらが格上、分をわきまえて言うことを聞け』
『斉の情報をきちんと報告すべし』
と言外に告げられたのである。大叔父は黙り込み、介添えの斉人へ視線を移した。斉人はその視線に頷き促すようにそっと手を動かした。その様子に、そこそこだ、と士匄は思った。とりあえず頷け。常識的な発想である。いまだ卿ではない青年の言葉など、政治のテーブルに届くことはないという態度も見えた。まあ、今はそうである。士匄はこの斉人と絶対に
「趙孟におかれましては、我が家の祀りと繁栄を言祝ぎいただき、恐悦でございます。未だ小者の私です。河に浮かぶ小舟のような心許なさでございますれば、絶えずあなたの徳あるお言葉をよすがにいたしましょう」
大叔父が静かに拝礼した。大叔父と
趙武は静かに息をついた。大叔父という得体の知れない存在が、心の中でゆるゆると小さくなっていく。このハンサムな男は、趙武の父ではないのだ、という確信があった。趙武を懐かしいと言ったことも本当であろうし、父を家族と見ていたことも、母をいたわって慰めたいと考えたのも、本当であろう。しかし、それ以上に浅さがあった。その場その場を情に流され動く小心者にも思えた。氏族の長が生きているときに正室に秋波を向けるような、脂っこさを趙武は感じなかった。勘であり、願望かもしれぬが、この男は己の父ではないと、趙武は染みいるように思った。何より、父や母に愛惜あるこの男は、趙武へひとかけらも愛情を向けていない。
つまり、趙武の血縁に、趙武のことを考えてくれる人間はいないということだった。