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第42話 大義、親を滅す。大きな目的のためには親兄弟親戚ぶっ殺しても仕方なし!

 趙武ちょうぶの大叔父は母との不倫を咎められ、東方の雄、せいへと亡命した。その後、完全に没交渉になったかと言えば、そうでもない。彼は調整の才に優れており、斉としんの間を取り持っていたと考えられる。趙氏ちょうし復興の後は、書簡を交わし情報や文物、物産のやりとりをしている。大叔父と又甥またおいとしてではなく、趙氏のおさと斉へ帰化した趙氏という立場であった。この当時、このような関係は珍しくない。他国へ出た同族との相互依存が貴族の情報網を強くしていた。

 とまあ、ウンチクはともかく、である。

 大叔父は何度も、趙武と久闊きゅうかつをわかちあいたいという書簡をよこしてきていた。それを、筋ではないとつっぱねていたのは趙武である。久闊というが、趙武と大叔父にそのような暖かみなどない。故国を捨てた感傷なのか、裏があるのか知らぬが、母の不倫相手である。しかも、甥が死んだからと未亡人に手を出す男である。不快でしかなかった。

 しかし、ことここにあたって、趙武は会わねばならぬという焦燥にかられた。――大叔父は、父が存命の頃から母と通じていたのではないか、という疑念は、大叔父の顔を見ねば晴れぬと思い込んだ。

 ――幾度ものお誘いをこちらの都合でお断りしておりましたが、このたびお誘いに応じることといたします。互いに国を長く開けることかなわぬ身です。周都しゅうとで久闊をわかつのはいかがでしょうか。

 趙武は、思い切って大叔父に返信した。して、しまった。一ヵ月ほどして、ぜひに、という書簡が届き、趙武はうろたえた。実はちっとも会いたくはなく、どこかで

「あれはただの挨拶文、互いにもう縁が切れたものです」

 と断られるだろうと、期待していたのである。若者の浅はかさであった。今さら行きたくないなどと言えず、韓厥かんけつに相談するのも恥ずかしく――

「それで。わたしに一緒に来てくださいと、すがりついてるのか、お前は」

 歯切れ悪く説明する趙武に、士匄しかいは呆れた。

 さて。そのようなわけで、冬のある日、士匄は趙武に相談を受けた。第一話末尾である。あまざけはとっくに飲み干している。おかわりを、と趙武が言うのを手で制した。飲むより話が先である。

「すがりついた……。ええ、そのとおりです。本来なら後見人である韓主かんしゅにお願いするのが筋なのですが、あまりに個人的すぎて相談することが今の今までできませんでした。あなたは強欲で利に鋭く尊敬できるような性格ではございませんが、理と法を重んじる人でもあります。私におもんぱかることもないでしょう。介添えとともにご教導願います」

 趙武が自嘲の隠さず、そのまま拝礼した。この後輩は、己の子供じみた衝動をじ、言い出したからには趙氏の長として行おうとしている。それに理はある、と士匄は少し感心した。青臭いガキだと思っていたが、性根はすわっているとも思った。はっきり言うが、趙武は士匄よりよほど性根がすわっている。

「……確かに、わたしはお前を教導しろと韓伯かんはく知伯ちはくに命じられている。しかし、この話は趙氏の話、身内の差配であろう。関係無いわたしが介添えするのは理に合わぬ」

 縁がほぼ切れているとはいえ、親戚同士の会合である。互いの発展を願って乾杯、などという席に士匄は浮き上がるに違いない。

「お前は韓主にお願いしたくない。そんなもん知るか。遠足の付き添いはがするものだ。一人で頼めぬのなら、それこそ先達として、つきそってやる。韓主のところへ行くぞ」

 めんどくさそうに言い放つ士匄に、趙武が、それですが、と止めた。

「大叔父とだけなら、趙氏の話。しかし、大叔父はもう晋人でなく斉人です。ゆえに私もしゅうで会おうともちかけました。私のような大族と、亡命大夫たいふていどの大叔父は釣り合いがとれません。ゆえに――斉から名家の方が介添かいぞえとして共にお越しになります。そうなれば、私事でありながら公事。私のような未熟者には手があまるのです」

 と言って、趙武は介添えの名を言った。それは、斉の大臣に近い大夫であった。士匄は一瞬だけ指を唇に持っていくと軽く弾いた。

「……確かにそれは、韓主の手を患わせるのはよろしくない。晋の大夫として韓主の威勢大きく、公事としておおごとになりかねぬ。士氏しし嗣子ししであるわたしが伺うがちょうど良い。周も斉も我が国より先に法制を整えた偉大な国だ、見聞も広げられるというもの。介添えの機会をいただくなど、趙孟ちょうもうには礼を言わねばならぬな」

 立て板に水と言わんばかりに言葉を連ね、士匄は膝を打ちながら闊達に笑い、了承した。趙武は、ひっかかるであろうと思ったが、ちょろすぎると内心呆れた。春、父の言いつけを破って周の貴族と昵懇になった士匄である。斉の貴族と昵懇になる機会あるならば、と腰が軽くなるに違いない、と思ってはいたが、ここまでとなれば、いっそ清々しい。

 趙武は士匄を罠にはめたわけではない。相手が仰々しい介添えを出しきたことで、頼みやすくなったかもしれない、とは思った。が。なんとも想像以上であった。欲が深いというのは危ういと、趙武は士匄を見て、一つ学んだ。

「ありがとうございます、感謝いたします。先ほども申し上げましたが、大叔父はもう斉人です。趙氏ではありますが、すでに縁は切れております。今まで、先人の倣いに従って交流に務めておりましたが、良い機会です。これきりで最後にいたします。趙氏族滅のきっかけになった方です、外聞もよろしくありません。それも含め見届け、介添えいただきとうございます」

 強く硬い声音を発し、趙武が丁寧に拝礼した。今度は士匄が呆れる番であった。なんとまあ、生真面目で馬鹿正直、そして泥臭い発想であろうか。言い切ったと満足する趙武を制すように、手を振った。

「最後などと言うな。かつて斉は晋と戦って屈服した。いまだ根に持っていると聞く。すかしていて嫌味くさく、東国連中を後ろから束ねようとする国だ。あっちの情報網として有用な蔓を、そう簡単に手放すな。お前は大きく、大叔父は小さいのであろう。使いっ走りにするくらいの気概を持て、隙を見せるなよ」

 士匄は趙武の顔を覗きこむように乗り出し、目を光らせた。そこには獰猛さと狡猾さがあり、普段の軽挙が消え失せている。趙武は姿勢を正して息をすって吐いた。

「ご教示ありがとうございます。私は内側のみに気を取られ、大夫として大切なことを見落とすところでした」

 丁寧に拝礼した趙武が少し、力を抜いて笑む。

范叔はんしゅくってけっこう深いことを考えるんですねえ」

 照れ隠しの言葉であったが、士匄は許さず、デコピン、つまり趙武の額を指で弾いた。

 ここから、出立までの流れをえがいても、ただ冗長になるだけである。数十日をかけ、士匄は趙武の介添えとして周都に降り立った、でいいだろう。

 この作品で幾度か出ている、周という国は、封神演義でもおなじみ、殷を滅ぼしあらたな国家体制を築いた宗主国である。この時期は形骸化しており力もなく零落していたが、権威と伝統、そして文明の源流だけはあった。士匄は父に連れられて幾度か訪れたことはある。ただ、個人として足を踏み入れたのは初めてであった。趙武にいたっては、晋を出るのが初めてである。古くさいが晋には無い典雅な町並みに、驚いているようであった。

「何をきょろきょろしている」

 活気の良いいちをぼんやり見る趙武に、士匄は呆れた。馬車で通りすがってる間、寒さよけの覆いを少し開けてまで見ていた。

「……晋のいちは政務の言葉を発するが第一義。商いもございますが、あそこまでの賑わいはございません。我が国は少し寂しいものだな、と思いました」

「商人の強い国は、武が弱い。寂しいと感じるのはお前に柔弱さがあるからだろう」

 鼻でせせら笑う士匄に、趙武が不快をあらわにする。

「確かに、良き商人の国は、その、小国が多いと聞きますが……大国もございます。斉もそうでしょう」

 趙武の指摘に士匄は頷く。

「斉は確かに商いが有名ではある。我らよりまあ、上手いかもしれんが、良き商人の国かは知らん。こたび、斉人に会うのだ、そのあたり習えばよい」

 放りっぱなしであるのか、先輩らしい宿題であるのか。士匄はそう嘯きながら、笑ったあと、なおも覆いを開けようとする趙武に、やめろ、と苦い声で言った。ぴゅうぴゅうと入ってくるすきま風が寒かった。

 良き日を選んで互いの繁栄を祝いましょう。

 他国の貴族同士がそのようにちかうことなど、珍しくない。士匄もそのようなことを春に行ったのは、まあご存知のとおりである。趙武もようやく、そういった舞台に立ったと言える。極めて幼稚で個人的な理由であっても、だ。

 趙武は士匄を連れて大叔父の仮屋に赴いた。格としては趙武が上だったが、年齢は大叔父が上である。あくまでも私的な会談としたかった趙武は

「甥が叔父を呼びつけるのは序列として外聞が悪いもの。また、人とちかうに己から出向かうことを晋は尊んでおります。かつて我が国の正卿せいけいであられた郤成子げきせいしは、古詩こしになぞらえて仰られました。『文王既に勤めたり。文王は勤めて業をはじむということです。聖人と謳われた文王でさえも労を惜しまず勤められた。まして徳の少ないものはなおさらというもの』、と。徳を謳われた先人にも及ばぬ若輩の私はおのずから勤めねばなりません、よしなに」

 と、強く願い出た。それを知った士匄は、趙武の肩を叩いたあと引き寄せて褒めた。

「お前でも、ケンカを売るくらいはするか。やつらがどう歓待するか見ものだ。若輩の訪問を受けるとするか、趙氏の長をもてなすとするか、晋の大族を饗応するか」

「あなたが思うほど、ケンカを売ったつもりではないのですが……まあ、少し気負いがあったと思います」

 大叔父の仮屋へ行く道すがら、馬車の中で笑う士匄に、趙武が肩を竦める。

 若輩と謙譲しながらも、出してきた言葉は晋が蛮族に手を差し伸べたときのものである。斉など晋から見れば夷狄いてきに等しいと言ったようなものである。そのうえ、引用した郤成子は、斉を屈服させた郤献子げきけんしの父であった。負け犬と暗に嗤っているようなものだった。

 士匄がそう指摘すれば、趙武が恥ずかしそうに顔を染めた。趙武の中で大叔父の像は得体のしれない化け物にまで育っている。それに対して虚勢をはろうとして力み過ぎだと言われたように思ったのである。

「……本当に、ケンカを売るとかではないのです。私は争いは好きじゃあないんです。でも、きちんとしなきゃと思えば、言葉が少し強くなりました」

 時節の挨拶ていどで良かったのに、と今さらため息をつく趙武に、士匄は少々悪どい笑顔を向けた。

「誠実なバカにはお前のような考えは有用だが、狡猾な狐には通じん。そして、世は狡猾な狐ばかりだ、そういうのを覚えろ」

 士匄の大人ぶった言葉に趙武が少しさみしげに頷いた。

 さて、大叔父と斉人である。格下であるからと訪問するはずが、押し切られた。世の中、攻めるより守るほうが難しい。特に介添人の斉人は

「こちらが歓待となれば、少々手順が狂う」

 億劫そうに吐き捨てる斉人に、大叔父がいなすように微笑む。

「これはもともと私事です。今日は様子見であった、それでよろしいではないですか」

 大叔父の少し腰が引けた様子を一瞥し、斉人は薄い笑みを浮かべる。

「そうですな、あなたがたの、趙氏の私事でした。私はただ、あなたがたの繁栄をよみするだけだった。楽しみだ、趙孟にはぜひ斉の珍品文物を持ち帰ってほしい」

 斉人の歌うような言葉に、大叔父が、困惑した顔を向けた。

 もうすぐ、趙武は初めて父の縁者に出会う。

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