さて、話が初手から二転三転する。
それは、秋も終わろうとしている日であった。菊の香りも薄まる庭は寒々しい。冬も近いと言わんばかりに、枯れ葉がからっ風の中で舞っていた。
「
「なんだ、
さっそく姿勢を崩して欒黶が言い、やる気なさげに手を振った。
「……末席より申し上げます。そうは言っても、我らはいずれ
趙武は非難を込めた目で欒黶を睨んだ。常は花のような印象の美しい顔が、氷のような冷たさをはらんでおり、人によっては背筋が凍る思いであったろう。しかし、欒黶はなんの感銘も受けることなく、
「
と感心したように言った。趙武は頬を引きつらせ、怒りを必死にこらえる。傲慢怠惰、人の話など全く聞かぬこの先達は尊敬しようもない。場の空気の悪さに荀偃があわてて口を開いた。
「そ、そうです。范叔は
道連れ、という言葉に欒黶がびくりと体を震わせ、慌てたように姿勢を正した。さぼっていることを士匄が嗅ぎつければ、
――やはり我ら若輩のみで学ぶのはなかなかに手が行き届かぬ。共に知伯に教えを乞おう
と言い出すに違いない。己だけがしごかれているなど我慢ならぬであろう。そして、士匄という青年は嗅覚鋭く、こういったことは見逃さない。
欒黶さえも怯える荀罃の強化合宿ブートキャンプとはいかばかりか。趙武は唾を飲み込んだ。
「だ、
欒黶がカタコトのような発音で、一節を議として出した。一応覚えているんだ、と趙武は感動した。荀偃は、そうですね、と柔らかく笑んで頷いた。
「
荀偃が欒黶の言葉を受けて返す。正しい政治の根本は徳であり、政治の目的は人民を養うことにある。古代国家によくある統治のお題目である。己の言葉は正しかった、と欒黶は鼻をならして胸をはった。こういった、しょうもないことも自慢するのがこの青年の幼稚さである。
さて、ここから大禹謨についてそれぞれディベートするわけであるが、
趙武の言葉に欒黶は
「それでいいんじゃないか?」
と己の意見を出さない。嫌がらせではなく、彼にはそういった定見がない。あえて言うなら
「民はアホだから、メシをやればおとなしく言うことを聞く」
という、極めて乱暴な論であった。まあ、間違いではないが、そのためにはどうすべきか、という部分が全く無い。
また、趙武の熱弁に対し、荀偃は
「そうですね。素晴らしいと思います」
と頷くだけである。彼は人の言葉を聞くと、己もそう考えていた、と思い込む人間である。極めて流されやすい彼は、趙武の言葉にも流された。
趙武といえば、ふわふわした荀偃とだらけた欒黶に肩すかしをくらい、話の落としどころを失っていく。ダラダラと長い言葉を垂れ流して要領も得ず、論理も破綻する無様さである。真面目なだけに滑稽であった。
「えっと。先人たちは、
言いたいことたくさんはあるのだが、うまく言語化できない趙武は、一人で話し続けていることに気づいた。荀偃が首をかしげながら聞いている。欒黶はあくびをしていた。趙武は恥ずかしくなり、頬を染めたまま、以上です、とむりやり話を終わらせた。
いくつもの結論を積み上げた結果、ねじれにねじれた文言は、内容が行方不明となってしまった。聞き上手でもない荀偃は途中で話がわからなくなったが、鈍くさすぎて指摘できなかった。欒黶といえば、あいかわらず声はきれいだな、とだけ思っていた。それらを察し、趙武は消え入りたくなった。韓無忌がいかにフォローしていたか。士匄の明快な語りがいかに己の身になっていたか。自分の未熟さに落ち込んだ。
「が、がんばることはいいことです!」
荀偃が一生懸命、趙武を励ました。彼なりの気づかいであった。趙武は、ありがとうございます、となんとか笑んだ。不毛な自習時間である。
「いやあ、
欒黶が心の底から感心した声をあげたあと、体を乗り出して趙武の顔をしっかと見る。趙武は呆れた。本日何度目かは忘れたが、呆れた。
「おりませぬ。私が生まれる前に父は亡くなりました。あなたもよくご存じのはずでは?」
「は? 汝は父親似なのか? 母親似かと思っていたが」
欒黶が本気で首をかしげて言う。ちぐはぐすぎる返答に趙武は困惑した。
「は……母に似ているとは、言われます」
趙武の美しさは母の華やかさに似ている。周囲はそう、ささやき、趙武も不快であるが認めている。とまどう趙武をよそに、そうだろう、と欒黶が頷く。
「汝の母は、未亡人になって男と密通してたろう。まだ若かったと聞く。妹は生まれなかったのか。そういった話はなかったのか、汝しか孕まなかったのかあ、ああ、惜しい」
無神経で下品極まりない言葉を言い切ると、欒黶は心底残念そうに肩を落とした。荀偃が引きつった顔を欒黶に向けた後、趙武を気遣わしげに窺った。
趙武は、怒りも何もかも忘れ、呆然としていた。それに気づかない欒黶が、なあ本当に妹はおらんのか、と絡んでくる。その狼藉を注意すべき荀偃はおろおろとしながら、
「ね、欒伯ちょっと、あの、少しそのだまって」
とあやふやなことを言うだけである。それどころか
バカのはしゃぎもノロマの口ごもりも、趙武には遠い喧騒のように聞こえた。体が内蔵もずり落ちるような恐怖は、まるで穴に落ちていく心地でもあった。
お前の母は、夫以外と子を為していたのではないか、という言葉はもう一つの理を導き出す。
趙武は本当に、父の子なのか。
母が父以外の男と子を――娘を為していたとする。欒黶の言うように、趙武そっくりの妹がいたとしたら、では、父は。己と、妄想の中の妹の父が、違うと、断言できるか。
「や、だ」
ぽつりと出てきた趙武の呟きは、悲鳴のようでもあった。荀偃がなんとか欒黶を押しのけ、少しずつうつむいていく趙武を覗き込む。
「あの、お怒りはきちんと……仰ったほうが良いと思います。いや欒伯は、その、悪気があって、あなたの母君を卑しめたわけではないのですが、だから、言わないとおわかりにならないと申しますか……」
気を使っており、常識的ではある。しかし、荀偃はカンが悪く何より役立たずであった。彼は慮ったつもりで、欒黶を制することもできず、末席の趙武自ら先達に申し立てしろ、と無能を吐露した。
そのうえで、趙武がフリーズしている理由も、何に傷ついたかも気づいていない。欒黶の自覚ない悪意に耐えていた趙武の心は、荀偃の無責任な善意で決壊した。
「あっ、あ、うわあああああああんっ」
趙武はつっぷし、幼児のように泣きわめいた。荀偃はもちろん、欒黶も驚く。
「か、家族が少ないのに、おらぬ妹の話をしたのが辛かったか! さすがの俺も気づかなかった」
欒黶は傲慢で自己肥大のかたまりであるが、
趙武が一瞬だけ体をこわばらせて黙った後、
「やああああああ、いやあああああああああっ」
とつんざくような声でさらに泣きわめいた。完全に幼児の泣き方であるが、余人が聞けば、断末魔か強姦される女の悲鳴である。欒黶がわけがわからないまま、さらに慰めようとする。地獄絵図であった。
荀偃が、欒黶を引き倒し、口をふさいだ。あばれる欒黶にじっとしててください! と叫ぶ。常はのんびりした荀偃の必死の形相に、欒黶がビビって動きを止めた。
「趙孟。えっと、えっと。本日は、祀りを確かめる儀はございませんが、ご用意してもらいましょう、
トロくさい荀偃のせいいっぱいであった。
趙武は起き上がり、声をしゃくりあげながら荀偃を見た。この、無能で鈍感な先達は、趙武の気持ちなんて全くわかっていないが、素直に寄り添おうという優しさはあった。欒黶が押さえつけられていることにも、安堵する。
「おやつ。おやつほしいです。でもそこのバカキライ。どっかいって、キライ」
舌っ足らずな、幼女の声でつぶやいた後、趙武は己の目尻を手でごしごしとぬぐった。
「ご心配おかけしました。先達の皆様方に見苦しいところをお見せいたしまして、我が未熟に
「は!? 俺のおやつは!?」
欒黶が身を起こそうとした瞬間、趙武の凍てついた笑みが覗き込んでくる。笑顔は時に怒りのあらわれでもある。おつむが残念な欒黶でさえわかる、氷点下の冷たい憤怒であった。
「お体をぉ、いたわってぇ、くださいねぇ。
欒黶は、脱兎のごとく逃げ出した。
ここで荀偃が趙武の心をほぐせるような男なら良かったが、彼にはもちろんできない。ぎくしゃくとした空気の中、通り一遍の議を終わらせた。
おやつは趙武の要望で炒り豆であった。豆は貧民の主食である。まあ、民は限界まで膨らませて食べるのであるから、炒り豆は贅沢と言えなくともない。
趙武は完全に幼児返りしたしぐさで、お豆美味しいですね、たまには儀を忘れるのもいいですねえ、とボリボリ食べる。ニコニコしているが、目に光りなく虚ろであった。美しいさが損なわれないのが、いっそ無惨である。
荀偃が美味くもない炒り豆を食べながらげっそりしている。趙武は、それがわかっていても、美味しいですね、もっとどうぞと薦めながらニコニコ笑った。むろん、心の傷は開きっぱなしで、己への疑念で気が狂いそうなほどであった。