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第41話 彼の岵にのぼり父を瞻望す。あの高い山から遠くお父さんを眺めましょう

 さて、話が初手から二転三転する。趙武ちょうぶの事情を先に記しておきたい。縁を切った母の不倫相手と会う、ということである。

 それは、秋も終わろうとしている日であった。菊の香りも薄まる庭は寒々しい。冬も近いと言わんばかりに、枯れ葉がからっ風の中で舞っていた。

大禹謨だいうぼ舜帝しゅんていがお認めになられた禹王うおうの大いなるお考えを議といたしましょう」

 荀偃じゅんえんが伺うように見回しながら、もごもごと言った。場には、彼と趙武、そして欒黶らんえんしかいない。

「なんだ、韓伯かんぱく范叔はんしゅくもいないとは。我ら三人で何を学ぶのか、もう終わりにして帰ろう」

 さっそく姿勢を崩して欒黶が言い、やる気なさげに手を振った。韓厥かんけつは病欠、士匄しかい荀罃じゅんおうの強化合宿中である。

「……末席より申し上げます。そうは言っても、我らはいずれけいになる身。范叔も遊んでいるわけではなく、今頃とても研鑽を積んでいることでしょう。我らも務めるべきです。正卿せいけいは常に研鑽怠らず、賢人と誠実さを好むと伺っております。欒伯らんぱくもお父上に倣ってはいかがでしょうか」

 趙武は非難を込めた目で欒黶を睨んだ。常は花のような印象の美しい顔が、氷のような冷たさをはらんでおり、人によっては背筋が凍る思いであったろう。しかし、欒黶はなんの感銘も受けることなく、

なんじは本当に美人だなあ、眉を顰めても絵になる」

 と感心したように言った。趙武は頬を引きつらせ、怒りを必死にこらえる。傲慢怠惰、人の話など全く聞かぬこの先達は尊敬しようもない。場の空気の悪さに荀偃があわてて口を開いた。

「そ、そうです。范叔は知伯ちはくの元で務めておられる。我らの学びが足りぬと知れば、范叔のことです。知伯と共に研鑽しようと仰ってきます、絶対に道連れです」

 道連れ、という言葉に欒黶がびくりと体を震わせ、慌てたように姿勢を正した。さぼっていることを士匄が嗅ぎつければ、

 ――やはり我ら若輩のみで学ぶのはなかなかに手が行き届かぬ。共に知伯に教えを乞おう

 と言い出すに違いない。己だけがしごかれているなど我慢ならぬであろう。そして、士匄という青年は嗅覚鋭く、こういったことは見逃さない。

 欒黶さえも怯える荀罃の強化合宿ブートキャンプとはいかばかりか。趙武は唾を飲み込んだ。

「だ、大禹謨だいうぼだな。マツリゴトはタミをヤシナウにあり、だったな。これがいいんじゃないか」

 欒黶がカタコトのような発音で、一節を議として出した。一応覚えているんだ、と趙武は感動した。荀偃は、そうですね、と柔らかく笑んで頷いた。

夏王朝かおうちょうの祖、禹王のお言葉です。徳はただ政にきなり。政は民を養うに在り」

 荀偃が欒黶の言葉を受けて返す。正しい政治の根本は徳であり、政治の目的は人民を養うことにある。古代国家によくある統治のお題目である。己の言葉は正しかった、と欒黶は鼻をならして胸をはった。こういった、しょうもないことも自慢するのがこの青年の幼稚さである。

 さて、ここから大禹謨についてそれぞれディベートするわけであるが、韓無忌かんむきがいない以上、代わりの議長は荀偃となる。そうなると、趙武と欒黶が持論を交わすわけだが――まあ、成り立つわけがなかった。

 趙武の言葉に欒黶は

「それでいいんじゃないか?」

 と己の意見を出さない。嫌がらせではなく、彼にはそういった定見がない。あえて言うなら

「民はアホだから、メシをやればおとなしく言うことを聞く」

 という、極めて乱暴な論であった。まあ、間違いではないが、そのためにはどうすべきか、という部分が全く無い。

 また、趙武の熱弁に対し、荀偃は

「そうですね。素晴らしいと思います」

 と頷くだけである。彼は人の言葉を聞くと、己もそう考えていた、と思い込む人間である。極めて流されやすい彼は、趙武の言葉にも流された。

 趙武といえば、ふわふわした荀偃とだらけた欒黶に肩すかしをくらい、話の落としどころを失っていく。ダラダラと長い言葉を垂れ流して要領も得ず、論理も破綻する無様さである。真面目なだけに滑稽であった。

「えっと。先人たちは、天然自然てんねんじねんのことわりを見て倉をきちんと管理して、その。あ! 財も豊かにしてました。そういったものは一朝一夕じゃあできないと思うんです。農夫が毎日草を刈り土を見て水をやって田を耕すように、毎日の積み重ねがまつりごとには必要ですし、そういうのが信用とかそういうのに繋がりますし、それから……」

 言いたいことたくさんはあるのだが、うまく言語化できない趙武は、一人で話し続けていることに気づいた。荀偃が首をかしげながら聞いている。欒黶はあくびをしていた。趙武は恥ずかしくなり、頬を染めたまま、以上です、とむりやり話を終わらせた。

 いくつもの結論を積み上げた結果、ねじれにねじれた文言は、内容が行方不明となってしまった。聞き上手でもない荀偃は途中で話がわからなくなったが、鈍くさすぎて指摘できなかった。欒黶といえば、あいかわらず声はきれいだな、とだけ思っていた。それらを察し、趙武は消え入りたくなった。韓無忌がいかにフォローしていたか。士匄の明快な語りがいかに己の身になっていたか。自分の未熟さに落ち込んだ。

「が、がんばることはいいことです!」

 荀偃が一生懸命、趙武を励ました。彼なりの気づかいであった。趙武は、ありがとうございます、となんとか笑んだ。不毛な自習時間である。

「いやあ、趙孟ちょうもうはすごい。眉をしかめても、わけのわからないことを呟いていても、顔を赤らめても、美しい。美人だ。君公くんこうに侍る女にも汝ほどの美貌はあるまい。……妹はおらんのか。汝に妹がおらば、ぜひ妻妾さいしょうにしたい」

 欒黶が心の底から感心した声をあげたあと、体を乗り出して趙武の顔をしっかと見る。趙武は呆れた。本日何度目かは忘れたが、呆れた。

「おりませぬ。私が生まれる前に父は亡くなりました。あなたもよくご存じのはずでは?」

 趙氏ちょうしへの粛正はしんを揺るがした大事件である。これを知らぬとなれば、無知無教養どころの話ではない。大臣はおろか、嗣子ししも貴族もやめろ、というレベルである。

「は? 汝は父親似なのか? 母親似かと思っていたが」

 欒黶が本気で首をかしげて言う。ちぐはぐすぎる返答に趙武は困惑した。

「は……母に似ているとは、言われます」

 趙武の美しさは母の華やかさに似ている。周囲はそう、ささやき、趙武も不快であるが認めている。とまどう趙武をよそに、そうだろう、と欒黶が頷く。

「汝の母は、未亡人になって男と密通してたろう。まだ若かったと聞く。妹は生まれなかったのか。そういった話はなかったのか、汝しか孕まなかったのかあ、ああ、惜しい」

 無神経で下品極まりない言葉を言い切ると、欒黶は心底残念そうに肩を落とした。荀偃が引きつった顔を欒黶に向けた後、趙武を気遣わしげに窺った。

 趙武は、怒りも何もかも忘れ、呆然としていた。それに気づかない欒黶が、なあ本当に妹はおらんのか、と絡んでくる。その狼藉を注意すべき荀偃はおろおろとしながら、

「ね、欒伯ちょっと、あの、少しそのだまって」

 とあやふやなことを言うだけである。それどころか中行伯ちゅうこうはくも思わんか、などと同意を求められても否定せず、唸っている。

 バカのはしゃぎもノロマの口ごもりも、趙武には遠い喧騒のように聞こえた。体が内蔵もずり落ちるような恐怖は、まるで穴に落ちていく心地でもあった。

 お前の母は、夫以外と子を為していたのではないか、という言葉はもう一つの理を導き出す。

 趙武は本当に、父の子なのか。

 母が父以外の男と子を――娘を為していたとする。欒黶の言うように、趙武そっくりの妹がいたとしたら、では、父は。己と、妄想の中の妹の父が、違うと、断言できるか。

「や、だ」

 ぽつりと出てきた趙武の呟きは、悲鳴のようでもあった。荀偃がなんとか欒黶を押しのけ、少しずつうつむいていく趙武を覗き込む。

「あの、お怒りはきちんと……仰ったほうが良いと思います。いや欒伯は、その、悪気があって、あなたの母君を卑しめたわけではないのですが、だから、言わないとおわかりにならないと申しますか……」

 気を使っており、常識的ではある。しかし、荀偃はカンが悪く何より役立たずであった。彼は慮ったつもりで、欒黶を制することもできず、末席の趙武自ら先達に申し立てしろ、と無能を吐露した。

 そのうえで、趙武がフリーズしている理由も、何に傷ついたかも気づいていない。欒黶の自覚ない悪意に耐えていた趙武の心は、荀偃の無責任な善意で決壊した。

「あっ、あ、うわあああああああんっ」

 趙武はつっぷし、幼児のように泣きわめいた。荀偃はもちろん、欒黶も驚く。

「か、家族が少ないのに、おらぬ妹の話をしたのが辛かったか! さすがの俺も気づかなかった」

 欒黶は傲慢で自己肥大のかたまりであるが、を持っては、いる。それが今、中途半端に発揮された。――最悪のタイミングである。

 趙武が一瞬だけ体をこわばらせて黙った後、

「やああああああ、いやあああああああああっ」

 とつんざくような声でさらに泣きわめいた。完全に幼児の泣き方であるが、余人が聞けば、断末魔か強姦される女の悲鳴である。欒黶がわけがわからないまま、さらに慰めようとする。地獄絵図であった。

 荀偃が、欒黶を引き倒し、口をふさいだ。あばれる欒黶にじっとしててください! と叫ぶ。常はのんびりした荀偃の必死の形相に、欒黶がビビって動きを止めた。

「趙孟。えっと、えっと。本日は、祀りを確かめる儀はございませんが、ご用意してもらいましょう、。そう、おやつ何がいいですか、趙孟の好きなおやつありますよ、ねえひといき! ひといきいれましょう、あの、私が至らずスミマセン」

 トロくさい荀偃のせいいっぱいであった。

 趙武は起き上がり、声をしゃくりあげながら荀偃を見た。この、無能で鈍感な先達は、趙武の気持ちなんて全くわかっていないが、素直に寄り添おうという優しさはあった。欒黶が押さえつけられていることにも、安堵する。

「おやつ。おやつほしいです。でもそこのバカキライ。どっかいって、キライ」

 舌っ足らずな、幼女の声でつぶやいた後、趙武は己の目尻を手でごしごしとぬぐった。

「ご心配おかけしました。先達の皆様方に見苦しいところをお見せいたしまして、我が未熟に忸怩じくじたる思いでございます。今後ともこの未熟者をご教導いただくよう願います。ところで欒伯がご体調すぐれず、中行伯もお体の様子を見ておられる。そのように倒れておられるなど、本日はお帰りになられたほうが良いと思います。このあとの学びは私と中行伯で務めますゆえ、欒伯はお帰りを。晋を支える欒氏らんしの嗣子、正卿もご心配になられるでしょう。く、早く、お帰りを」

「は!? 俺のおやつは!?」

 欒黶が身を起こそうとした瞬間、趙武の凍てついた笑みが覗き込んでくる。笑顔は時に怒りのあらわれでもある。おつむが残念な欒黶でさえわかる、氷点下の冷たい憤怒であった。

「お体をぉ、いたわってぇ、くださいねぇ。? ね、欒伯。さ、お帰りください。お早く、すぐに」

 欒黶は、脱兎のごとく逃げ出した。

 ここで荀偃が趙武の心をほぐせるような男なら良かったが、彼にはもちろんできない。ぎくしゃくとした空気の中、通り一遍の議を終わらせた。

 おやつは趙武の要望で炒り豆であった。豆は貧民の主食である。まあ、民は限界まで膨らませて食べるのであるから、炒り豆は贅沢と言えなくともない。

 趙武は完全に幼児返りしたしぐさで、お豆美味しいですね、たまには儀を忘れるのもいいですねえ、とボリボリ食べる。ニコニコしているが、目に光りなく虚ろであった。美しいさが損なわれないのが、いっそ無惨である。

 荀偃が美味くもない炒り豆を食べながらげっそりしている。趙武は、それがわかっていても、美味しいですね、もっとどうぞと薦めながらニコニコ笑った。むろん、心の傷は開きっぱなしで、己への疑念で気が狂いそうなほどであった。

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