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第40話 爾信ぜざるなかれ、朕は食言せず。一度言ったことだ、嘘はつかない本当さ。

 ごうごうと鳴り響く風の音と共に、耳朶が凍り付くような痛みが襲う。幸い、雪は無かったが、強風が歩みを止めていた。

 士匄しかいは、衣をはためかせながら歯を食いしばり、一歩一歩進んでいく。大地は固く、歩くたびにつま先を苛み足首が軋み、重くなっていく。

 重いといえば、この背負っている後輩である。極寒、強風、凍てついた大地に乾いた空気と大自然の驚異に耐えられず、早々に気絶した趙武ちょうぶは、邪魔でしかない。

 捨ててやろうか。

 一瞬考えたが、

「卑しい」

 と己に吐き捨てた。士匄としては珍しい態度である。常の士匄であれば、命を賭けてまで鈍くさい後輩など助けようとは思わない。さっさと捨てて可能性の高さを選ぶ。

 しかし、士匄は趙武と約定を交わしていた。天にちかったわけでもない、強制力もないのであるが、それを破ることは、士匄の中のルールには反する。つまり、己が卑しくなる。士匄は、負けることと卑しくなることが嫌である。総じて言えば、自分がみっともない無能になるのは許せない。

 夕闇に世界が溶けていきそうな視界の先で、小屋らしきものが見えた。近づけば、土壁と茅葺かやぶき屋根の輪郭が現れ、岩を見間違えたわけではない、と士匄は一息つく。

 床など無い、土の上に直接建てられたそれは、竪穴式住居が少し豪勢になった程度であった。それでも四方八方からの風はふせげるのだと、士匄は小屋になだれ込むように入った。渦巻く風の向こうに、似たような小屋がぽつぽつといくつか見えた。ここは小さなゆうなのか、とも思った。

 小屋の中には誰もおらぬ。真ん中にかまどの跡があり、焼けた土の上に積みあがった灰が、風で舞い上がっていた。

「ち。壁の意味がないではないか」

 想像以上に冷えた土と、粗末な壁に士匄は舌打ちした。何より、開いた入り口から風が入り込み、底冷えする寒さが這い寄ってくるようであった。扉が無いのである。いくら無学な民でもこの風を防ぐくらいは考えたであろう、冬の寒風だけではなく春の強風もあるのだ、と見回せば、大きな木の板があった。これを扉代わりにしていたのだと言いきかせ、むりやり穴に立てかける。荒れた風はすきま風程度になった。

 土に寝転がしている趙武の髪も、ふわりと落ち着いた。風に煽られても絹糸のようなそれは変わらない。青白くなった頬や唇も美しさを損なわぬどころか、どこか幽玄めいたものまである。お得すぎる顔であった。

 小屋の中は乱雑としており、かやくずの枯れ草などが積み上がっている。毛皮はないため、これが防寒具代わりなのであろう。歪んだ土器、研磨した石と、どれも農民が使うものが転がっていた。小さな弓と棒と板、草をほぐしたかたまりを見つけたとき、士匄はようやく息を吐いた。彼は貴族であり下々の生活など全くわからぬが、戦場で必要なわざくらいは、身につけていた。

 草のかたまり、つまりは火口ほくちを用意しておく。棒に弓の弦を二回りからみつける。木の板にあるくぼみに棒を差し込みそのまま弓を動かせば、木と木が擦られ、火がつくというわけである。原始的な火起こしの一つであり、この弓はそれ専用のものであった。当時、代表的な火種は銅鏡に陽光を集めたものであったが、夜に太陽光は無い。代わりの火種が木の摩擦というわけである。

 弓を使ったものは、比較的早い。士匄は危なげなく火種を作ると、火口と乾いた葛の蔓を放り込んで炎とする。あとは、木ぎれをくべて、安定させた。

 士匄はようやく暖をとりながら、気絶している趙武を覗きこんだ。貴族らしい衣はすっかり薄汚れているが、それはお互いさまである。鼻先、耳タブ、指先ともに、異常は見受けられない。凍傷の心配はなさそうであった。

「まあ、その鼻が腐り落ちれば、さすがに美しさも形無しになったろうよ」

 思わず呟き、眉をしかめた。独り言が多い、と自分で思ったのだ。つまり、不安なのである。

「くそ。わたしとしたことが、みっともないことだ」

 再び、息をつく。なんだって、後輩と二人でわけのわからん荒野で彷徨ほうこうし、寒風にさらされねばならんのか。寒風と疲労に耐えられず崩れ落ちた趙武は、諦めの笑みを浮かべて言ったのである。

 ――これは私の責です、あなたは一人で行ってください。私は邪魔です

 全くもってその通りだったが、士匄は失神した趙武を担ぎ上げて、どことも知れぬ集落の空き家に逃げ延びた。

 捨てられた邑なのか、この小屋だけが無人であるのか、士匄にはわからなぬ。壁向こうの風は強い。趙武は少し落ち着きを取り戻したのか、頬に赤味がさし、穏やかな寝息をたてていた。

 ――お願いがあります。私事でございますが、しんを離れて人と会うのです。先達かつ教導くださっているあなたに願うのは筋違いかもしれませんが、介添えをしていただけませんか――

 士匄という男は、情で頷かぬ。しかし、理と利で頷く。趙武の『理由』を聞き、興味がわいて頷いた。

 後輩たっての願い、頼みだ。先達として引き受けてやろう。わたしはお前がこの地を踏み趙氏ちょうしの長としての責を果たすまで、介添えを務めよう。

 などと、言ってしまったがために、士匄はここにいる。趙武を捨てて身ひとつで逃げられぬ。命が助かっても己の矜持が死ぬ。だからといって、趙武と共に死ぬ気は無い。

「どうなっているのだ」

 晋から離れた、どこともしれぬ地。それは、人がまだ住んでいない異界である。この時代は、異界の方がはるかに多い。そんな場所で士匄と趙武は二人きりでさまよっていた。

 冬の、寒い寒い、乾いた果てのない大地を、凍えながら、迷っていた。


 数日前だったか、もう十数日も経っているのか。風は弱かったが、陽光弱く寒々しい日であった。前述の通り、士匄は趙武に願い頼まれた。父と共に帰ろうとしたときに、呼び止められたのである。

 士匄は嫌な顔をした。首元が寒く、全体的に冷えていた。衣を整える家僕に、そこまで厚着はいらんと笑って出てきたのだが、意外に寒かったのである。士匄が一度言い出せば聞かぬと家僕たちは諦めていたため、おとなしくしたがった。つまり、士匄の舌禍ぜっかである。

 そんな士匄をよそに、趙武は慎ましやかに儀礼を尽くして、教えを乞うてくる。父の手前、断るわけにいかぬとなったとき、

「先達として導いてこい」

 先に士爕ししょうが言った。この厳父は真面目で努力家の趙武を好ましく思っている。士匄にそこを学んでほしいとも願っていた。さて、士匄はそんな父の切望などつゆ知らず、途中で不祥が起きたなどと言ってとんずらしようと思っていた。が。

「宮中の場を使うわけにもいきません。我が邸へおいでください」

 趙武が己の馬車を指し示す。共に来いという意味であり、途中で消えるな、適当して逃げだすなという意思表示でもある。己の足を封じられ、士匄は引きつった。

「いや。わたしはいまだ家を継がぬ嗣子ししの身。趙孟の馬車へ邪魔をするなど不相応というもの。我が車で共に向かおう」

趙氏ちょうしの長である私が招くのです。士氏ししの方々にご面倒をおかけするわけにもございません。范叔、どうか先達としてご教導を」

 士匄がさらに悪あがきをしようとしたが、士爕が制した。

「趙氏の長に我が嗣子を預けよう。かい。我が家の法と知が趙孟の力になるよう、務めろ」

 喜んだ趙武が士爕にうやうやしく拝礼し、士爕も返礼する。士匄は一言も文句が言えなかった。趙氏の申し入れに士氏が受け、嗣子が遣わされる。全くもって理に適っている。寒くてめんどくさいから行きたくありません、と言い出すタイミングを逸してしまった。

 趙氏の邸は、比較的新しい。それもそのはず、趙武の代になって立て直されているのである。迎え入れられた室も古さは無く、繊細な意匠がところどころ散りばめられていた。床には鹿の毛皮でできた敷物があり、青銅で作られた炉がわずかな暖かみをもたらしている。香炉も兼ねているようで、少し甘い香りがただよっていた。

「寒かったでしょう。あまざけを用意させます」

 当時のは飲む前に温めるものである。士匄は、少々とろりとした醴を飲んだ後、趙武に話を促した。趙武が持っていた醴をわきに置くと、拝礼と共に懇願する。

「お願いがあります。私事でございますが、晋を離れて人と会うのです。先達かつ教導くださっているあなたに願うのは筋違いかもしれませんが、介添えをしていただけませんか」

 そう、一気に言った後、趙武が唾を飲み込み、さらに言葉を重ねる。

しゅうで大叔父と会うのです」

「……お前の母親と密通していた男か」

 士匄は退屈を込めた声で言った。頷いた趙武の顔は、少し引きつっていた。こめかみがぴくぴくと動いている。彼は、本当は会いたくないのであろう。

「子細を話せ」

 許諾したと同意の言葉を士匄は言った。愚かなことに、士匄は聞いて嫌なら断ろうと思っていた。聞いてしまえば趙武という粘り強い実務家から逃げられぬ。相変わらずの浅さと舌禍であった。

 この舌禍で、冒頭のように、遭難しているわけだが、それは次稿以降とする。

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