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第37話 何ぞ其れ特操無きや。俺はあんたの真似ばかり

「なんだこれは」

 士匄しかいはく――カシワでなくヒノキの一種である――の箱を持って、めんどくさそうに首をかしげた。

 彼のような貴族は自室に細々したものを置いていない。着替えも、髪を整える櫛や生薬しょうやくも、家僕が持ってきて用意してくる。家の財は蔵にある。祭祀に使う器物はもちろん、士氏ししの代名詞といえる法制の書簡も大切に保管されている。生活の雑務全てを奴隷にまかせ、ありあまる財は親の管理である。士匄がことさら必要にかられ、傍に置かなければならぬものは、無い。

 が。だからといって、がらんどうの部屋に住めるような人間はいない。特に士匄は極めてアクティブ活動的、落ち着きのない性格であり、遊びを楽しむ風流人を気取っている。

 教養を深める書簡、趣味人を示す文物や、貴重な細工品。そういったものが、見栄え良く並んでいる。床にはそろそろ寒くなってきたと己が狩った狐の毛皮を敷布にしていた。狐はなかなかに貴重なものであり、それを着衣でなく敷布にしているところに、富者ふうしゃとしての自負心に溢れている。

 まあ、そのようなわけで、士匄の部屋にある棚の奥に、その箱はあった。すっかり飽きて押しこめていた書を久しぶりに読もうとしたのだ。

「……なんだ?」

 久しぶりの書などどうでもよくなり、士匄はその、漆を何重も塗られたはくの箱を両手で持つ。軽いが、何かが入っているということはわかる。色味は深く美しい艶やかな黒であり、丁寧に財を惜しまず作られたことがわかる。

ぼう……?」

 士匄は一人で呟きながら箱を眺めた。朱墨で一文字、

『忘』

 と書いている。これは、しゅなのであろう。その筆蹟はなんと士匄本人のものであった。となれば、この箱を作らせたのも、文字を書いたのも士匄であろうし、中に入っているのも己の物であろう。が、記憶を掘り起こしても思い出せぬ。士匄は極めて物覚えが良く、しょうもないことも忘れない男である。士匄に限らずこの一族は情報の集積と精査、活用に鋭敏であった。ゆえに、己が自覚的に行ったことを、本来であれば忘れるなどあろうはずがない。

 士匄は、立ったまま五秒だけ脳内をサーチしたあと

「わからん」

 と逡巡なく、得体の知れぬ箱の蓋を開けた。このような浅さを厳父である士爕ししょうも先達である荀罃じゅんおうも矯正しようとしたが、こと士匄に関しては無駄であった。

 特に抵抗も無く開いた箱の中には書があった。この時代に紙はないため、竹の短冊すなわち竹簡ちくかんに文字を書き、紐で編んでいる。すなわち一編。そのようなものが眼前に現れたと同時に、全身にぶわりと鳥肌が立つ。そして――思い出した。

「わーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」

 厄災そのものの気配もあいまって、士匄は悲鳴をあげた。重々しい歪んだ空気があふれ出し、鼻面をかすめて解き放たれる。それは部屋に留まることなく凄まじい勢いで拡散し、消えた。世界へ散らばったのか溶けて滅したのか、士匄にはわからない。

かいっ! なんだ、なにがあった!」

「おそれいります、陰陽いんように乱れ生じました、いったいなにが!」

 士匄の邸を震わせるような叫びに、士爕と巫覡ふげきがかけつけた。双方、別々の場からかけつけたわけであるから、士匄がどれだけ大声で絶叫したかわかろうものである。

 さて、騒ぎの主である士匄は、茫然としながら手に持った箱を眺めていた。士爕が困惑を隠さず、

「匄」

 と呼びかける。こういったとき、この厳父は常識人である。息子の尋常でない姿にとまどい、どうしてよいかわからない。

「……忘れ……忘れてた……」

 士匄はぽつりと呟いた後、部屋に飛び込んできた父と巫覡、特に巫覡に視線を向けた。そのまま勢いよく近づき、問答無用に巫覡の胸ぐらを掴み持ち上げるように引き寄せる。驚く巫覡や士爕をしりめに、声を張り上げた。

「おい! なんとかしろ、お祈りジジイ、なんとかしろ!!」

「いきなり、なんですかーっ!」

 眉尻を釣り上げ、焦りを隠さぬ士匄の顔は鬼気迫るものであり、狂気さえはらんでいるようであった。その勢いにつられ、巫覡も思わず大声をあげる。主筋に対して無礼極まりなかったが、仕方があるまい。実際、主である士爕も巫覡を叱ることはなく、

「匄! 説明しろ!」

 と声を荒げて二人を引き離そうと掴んだ。そうして、軍事大国を支える大臣、その嗣子しし、天と祖霊の声を聞く巫覡という、仰々しい肩書きが似合わないコントが繰り広げられた。様相はバカバカしいので割愛する。結果、士匄は諸々の説明の果て、士爕に殴られ叱られた。

 さて、父親に汝の浅知恵が凶を呼ぶのだ云々と叱られた後、今度は巫覡の説教が始まった。ここからこの稿の本題である。

「見よう見まねで封印なんてするからです」

「やってみたらできただけだ」

 士匄は、あるものを見よう見まねで封印した。巫覡が行う祭祀、卜占が行う吉凶のもろもろを見てできてしまうのだから、やはり彼は多才である。が、所詮は見よう見まね、後世で言う『生兵法は大けがの元』というものであった。封印ができてしまったのだから仕方がないとうそぶく士匄に、巫覡は呆れた。

「封印したことさえ忘れる――つまり封じてしまう咒など『できている』とは申しません。我が主の嗣子に苦言申し上げる。あなたはいつもいつもそうです。極めて才あることは認めましょう。しかし、研鑽なくできてしまうから、本質を見失い結果だけを取ろうとして墓穴を掘られる。表の世界は存じ上げませぬが、祭祀の道は手順、式、解があってこその結果です。手順も式も意味があり、導き出された解でなければ満足な結果は無いのです。しかるに、あなたはふわりと解だけを出される。だいたい封印というものは気軽に容易に行うようなことではございません。ましてや、私情に基づいて行うなど……天地陰陽全てに見放されてもおかしくないことです、解き放たれたそれも――」

「なんとかしろ」

 聞き飽きた長々しい説教をぶったぎって、士匄は命じた。見よう見まねで封印したかつての己は確かに浅はかだが、今の士匄に言われても困る。やってしまったものは仕方がない、それよりは善後策である。一見合理的に見えて身勝手かつ反省の色が全く無い。

 士爕は怒りに頬を痙攣させ、巫覡は目と目の間を指で揉んだ。一気に疲れが来たのだ。

 巫覡が大きくため息をついたあと、姿勢を正して拝礼した。従僕としての姿である。彼は基本的に己の立場をわきまえていた。

「命に害なすものではございません。伺うにたかだか感傷です。しかも、祖霊ではなく今生きる人間のもの。生きているものの念は弱く、時が経てば消えます。今のあなたに影響はないでしょう」

 淡々となされるその言葉に、士匄は安堵のため息をついた。過去、忌まわしいものと封じたそれを思うだけで恐怖がある。その、あからさまな弛緩から反省の無さに気づき、巫覡が眉をしかめた。が、これ以上の諫言は僭越であろう。そのかわり、士燮に拝礼する。

「我が主に申し上げる。咒というものは軽々しく使うものではない。文字には霊がやどります。書にその霊をしたため封じるということは一見容易く見えて、覚悟のいることでございます。天地にちかい、陰陽に伺い、祖霊に願って初めて行うことでございます。これは我らかんなぎの秘儀であり、主に申し上げることはばかられるものでございますが、このたびのことを受けてご報告する次第でございます」

 士爕は巫覡が言いたいことをきちんと察した。そして、士匄も察した。この青年はそそくさと立ち上がると

「凶に会ってしまったときは、弓をはじくが良いと言います。不肖の息子でございますが、祖霊祀る巫覡の方、そして家を守る父上の手をわずらわせるほど、わたしは無能ではございません、では」

 と、歩き去ろうとした。むろん、士爕はその襟首ひっつかみ、床に引き倒すと、長々と叱責をした。士匄は日暮れになるまで、士氏の由来を交えながらくどい説教を聞くはめになった。

 巫覡曰く。封じたものは、時間が経てば消えるという。士匄の周囲にも邸にも瘴気どころか気配さえ無い。寝入るころにはとっくに霧散したのであろう。

「ちっ。昨日のわたしは取り乱した。ムカツク」

 翌朝、参内の道すがら士匄は馬車の中でため息をついた。解かれた封印によりなんらかの異変が起きるのではないかと、内心怖ろしささえあったが、一晩あけても何もない。巫覡の言葉通りに消え去ったらしい。結局、たいしたものではなかったのだ。それを若い己は大仰に恐怖し、封印した。自己肯定力の塊である士匄でさえ、過去の自分に苦々しさがあった。

 始業前に、弓でもするか。

 くよくよ悩んだり、思い詰めるのは士匄の性に合わない。嫌なことがあれば、さっさと発散するのが一番である。宮中の射場は君主の訓練場を兼ねており、質が良く、的を射ればさぞかし楽しいであろう。気晴らしに丁度良かった。

 弓と矢を借り、射場に向かえば、先客の声が聞こえた。

「こうですか?」

 清い響きの、美しい声は特徴的である。趙武ちょうぶが誰かに教えを乞うているようであった。趙武は今、士匄に教導されている。ゆえに、弓の指導も本来は士匄が行うわけだが、何者かが通りかかりご親切にも教えてやっているのであろう。

 誰だ、そんなボランティア精神に溢れた暇人は。

 士匄が鼻で笑った瞬間、相手の声が聞こえた。

「そうだ。その姿勢を保って」

 聞き覚えのある声に、士匄は顔を引きつらせ、射場の中へ駆け込む。そこには、小柄な趙武が弓を必死につがえており――

 親切に姿勢を直してやりながら指導する、士匄・・がいた。

 士匄は倒れそうになるのをなんとかこらえたが、あまりの情景に声も出せず指一本動かせぬ。目の前で、趙武が的へ集中する。『士匄』がその頬を指で軽く押し、

「集中するのはいいが周りにも目を配れ」

 と優しく言った。士匄は嫌悪で鳥肌がたち、喉奥から声にならぬ呻きをあげた。晴れ晴れとした秋空の下、微笑ましい先達と後輩であったが、士匄にとっては悪夢である。

「的を射る時に、それ以外を見るなどできません」

 趙武が困惑して言う。『士匄』が一瞬、苦笑した。

「できないとお前は死ぬ。戦場でやっていけんぞ。敵も味方もみえなくなってどうする」

 『士匄』の言葉に目を見開いた後、趙武が恥じ入った顔をした。戦場で大夫は弓を射るが、同時に指揮官でもある。目の前の敵を倒せば良いわけではない。できぬと投げだすわけにはいかぬと気づいたのだ。

「……今日の范叔はんしゅくはその……頼りになります」

「先達として当然だろう。お前は晋の支えになるんだぞ、趙孟ちょうもう

「研鑽します、范叔! 色々ご教授ください!」

「はははっ そろそろ学びの時間だ。その後でなら」

「はい!」

 なんと美しい光景か! 根性スイッチの入った趙武は尊敬の眼差しで『士匄』を見ている。『士匄』と言えば、余裕のある『大人』の顔で訓戒めいたことを宣っている。混乱と嫌悪と不快と衝撃が一回転し、士匄は冷たく静かな心地となる。すっと無駄のない動きで矢筒から矢を一本掴んだ。

 凍えそうなほどの殺意をもって、士匄は『士匄』の目に向かって矢を放った。見事、右目を貫いた矢は脳をぶち破った。

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