「――あなたは、どなたでしょうか」
「……菊の係のものでございます。あなたが、そう仰ったのでございます」
女官が、しずしずと言った。少し冷たく、心を感じられない声音であった。韓無忌は首を振り手で制した。
「私が菊の係のものと問うたは、あなたではない。私の目にあなたは花のように見えるが……目元……そうですね、覚えのある目元です。もしかすると、彼女とそっくりなのかもしれませんが、あなたではない。同じ職分であるのなら、己の責を果たしなさい。私は今、私人です。議を終え散策しているだけのもの。君公の女官が饗応するものではない」
滔々と諭し、韓無忌は女官を拒絶した。昨日の朝、彼はこうすべきであった。いつもなら、
女官が立ち上がり、身をよじった。
「いえ、いえ、あなた、あなたさまは、私たちを菊の係のものだと、おっしゃった! 私たちは女官としてお役に立たなければなりませぬ。私は私たちなのです。なぜ、私を拒まれます!」
惑乱したように叫びながら、韓無忌につかみかかろうとした。それは、女官としてあるまじき行動である。韓無忌は、逃げられなかった。弱視の彼は、常に崖の上で歩いているようなものである。身を翻して避け、逃げるなどできようがない。
白く細いその腕は、韓無忌に届かなかった。どこからか現れた、もう一本の腕によって掴まれ、止められていた。
菊の女官が、菊の女官を制していた。ぼやけた韓無忌には、同じ花がもう一輪、現れたように見えた。同じ姿形にも見えた。
実際、女たちは寸分違わぬ姿をしていた。若干、制した女のほうに情のようなものが、見えた。
「
「私たちは人のお役に立てと生まれたのです、この方は私たちを菊の係とおっしゃいました。その責務を果たせず、私は私たちとしてどうしたらいいのですか。いやよ、あなただけお役に立つなんて、私なのに」
意味のわからないやりとりに、韓無忌は立ち尽くすしか無かった。ただ、菊の女官がやってきた、と思った。優しく思いやりのあるかんばせが、憂いを帯び、焦っているのが痛々しかった。労りたいと思ったが、指先ひとつ、動かなかった。
「菊茶のあなた。あなたの職分を私は侵しているようだ。そこの、女官の職分も。先ほども申し上げたが、私は、私人として、極めて私的な理由で菊の園に来たまでです。おかまいなく、お戻りを」
あなたの顔が見たかったのだ、という言葉を韓無忌は丁寧に飲み込んで粉砕しながら、言った。
「ねぎらいのお言葉、大切にいたします。私たちは女官として、職分を全うせねばならぬものども。私……へのお言葉、大切にいたします」
菊の女官が少し、頬を染めて言った。それは、初めて見せる
「どうして!? 私たちへのお言葉でしょう!? あなただけが受けたとなされるの、私たちなのに、あなたは、どうして、あなたなのぉ! 大夫さま、私にも、お言葉を。私たちに、お言葉をください。お役に立てと、職分を全うしろと、同じお言葉をください!」
菊の女官に引きずられるように連れて行かれながら、女官が叫んだ。韓無忌はその異常さに険しい顔をした。凶事、戻らぬ
韓無忌は杖をよすがに歩き出した。内宮への入り口に向かう。庭にある、常に閉じられている垣根である。
菊の女がむりやり暴れる女官を垣根の向こうへ押し込めると、遮るように立ちはだかった。
「大夫さま。私はあなたに菊茶を奉りました。二度、あなたのために捧げました。その時、私は
拒絶と断絶が、韓無忌の手を払い、足を止めさせた。先達として、士匄と趙武が心配なのは本当である。いずれ
己の至らなさ、浅ましさに目を伏せた韓無忌を、菊の女は見つめた。韓無忌はわかったとも嫌だとも言っていない。この女は、韓無忌が虚無に陥ったことに気づいていない。弱視の青年を労ることができても、そのような、心の
「私は、私たちではないの、私たちはお役に立たなければならないのでしょう、でも私はお役に立てなかった、私は、お役に立てなかった、私は、私たちではないの、役立たず!」
琴の調音に失敗したような悲鳴をあげて、女官が身をよじっていた。尋常とはいえぬ言葉と姿であった。きれいに結いあげた髪は乱れ、顔を爪でひっかいている。その奇声は、邸内にまで響くほどの、大きさであった。――士匄たちがいる室にまで、かすかに響くほどの。
「――なんだ?」
項垂れる
「何か、ございましたか」
趙武がこわごわと口を開いた。晋女の自傷のような告白と原因、異常なほど清浄な菊酒。女官の死、出ることのできぬ内宮。これだけでも盛りだくさんなのである。これ以上何が起きるというのか。
「……庭で、叫び声、いや喚いているものがいる。また、死体でも出たか。行くぞ、
晋女が、私に何が、とぼんやり問う。
「
怖じる晋女の手をとりむりやり引っ張りあげると、士匄は乱暴に歩いて行く。趙武が慌てて追いかける。晋女は、やってきたときの高慢が嘘のように従順であった。矜持と虚勢が剥がれ、売られたばかりの少女が、されるがままに歩かされていた。
庭に出た士匄たちがまのあたりにしたのは、狂乱を見せる女が、多数の女官にもみくちゃにされながら体をねじられる惨劇だった。
「私、私たちにぃいいいいいっ」
断末魔の叫びを上げながら、ねじられていく女官は安堵しているようにも見えた。それは、苦しみが終わる顔ではなく、帰属の喜びにも見えた。
「な、いや、いやああああ」
晋女が、あまりの光景に悲鳴をあげ、逃げだした。庭に盛られた土につまずき転ぶ。そこには、雑に埋められた
「ひ、ひいいいいいいいいいいいいっ」
叫び、晋女は腰を抜かして壊れた顔となった。惨たらしく殺されていく女官と、既に殺されている女官という状況に、自失してもしかたがない。その上、さらに女官がわいて出てくる。まるで土から生えるように、風から現れるように、同じ顔、同じ姿の、女官が現れた。
「君公にお仕えする、我が主。私たちはお役に立つよう、務めております」
幾人もの女官が、さやさやと風が葉を小さく鳴らすように晋女へ笑いかけては、死にゆく女官へ向かっていく。
「な、え、なに。いえこれ。この数!」
趙武がふらふらと庭に出て、見渡す。菊の香りがむせかえるほど強い。
「こんなに、こんなに、いるわけない!」
おぞましいものを見る顔をして、趙武が叫んだ。庭を埋め尽くすほどの女官は、みな
「ち、蟻の群れなんぞ、違いがわかるか!」
士匄は思わず吐き捨てた。そうして、盛り土、否、楚女の死体の近くでへたりこむ晋女へと走る。これは、どう見ても人ではない。しかし、不祥というには瘴気も何もない。強い、強すぎる菊の香りに、士匄はひとつの答えを出した。そうでなければ、その時にまた考え直せばよい。
「おい、女! お前は詩を書いたと言っていたな、土にか!」
「ひっ」
士匄の剣幕に、晋女が怯えた声を出す。男の怒鳴り声は、女にとって恐怖である――とかつて記した。異常な状況に怯えた晋女は、士匄の大声にもただ混乱し怯えた。苛立った士匄はさらに怒鳴った。晋女は幼女のように縮こまり、ごめんなさい、ごめんなさい、と小さく呟いた。
「くそ、女というものは、めんどくさい!」
舌打ちしたあと、士匄は身をかがみ、晋女の髪を優しくとった。晋女はわかりやすく体を震わせた。士匄は、柔らかい笑みを見せ、女の顔を覗きこんだ。
「お前はそういった顔が良い。弱きところを見せられば男は女に侍りたくなるというものだ。お前は詩を戯れに書いていたと言っていた。美しい文字であったろう。しかし
いたわる目、甘く優しい声に、晋女がぼんやりと頷く。士匄はそろりとその頬に流れる涙を指で拭った。晋女が甘えるように目を一度だけつむる。士匄の手は女の肌を宝玉を撫でるように動き、こめかみから額をなぞった。
「想いのたけを消えると分かって紡ぐお前はいじらしい。その弱さを誇り高さで守るお前だ、悲しみの詩など記さなかった。きっと、気高い美しい文字を書いたのだろう。お前は、何を言祝ぎ、詠ったか。わたしはお前のそれを、知りたい。お前の心を、教えてくれ」
いつのまにか、士匄は晋女を抱き寄せ、その顎に指を這わせながら耳元で囁いていた。晋女は、士匄の何に怯えていたのであろう、とその身を任せた。男独特の匂いが、晋女の何もかもを溶かすようであった。狂乱の場で、この腕の中は安全なのだとも思った。
「地に捧げた、お前の心はなんだ、何を書いた」
恋を語らい愛を乞う声音そのものの声で、士匄は問い、晋女の眉の上に口づけた。
「とても、すがすがしくて、きれいで……。わたし、すきだったわ。とてもうつくしいから、菊ってかいたの。おまえたちは、菊よ、けだかくうつくしい、花、わたしのみかた」
子供のころ、菊茶を楽しんだ日々があった。清々しい香りを喜んだ日々があった。菊園は色とりどりで、苦しくもあった。菊の詩を書こうとした。古詩にあったかしら、と『菊』とだけ、まず書いた。そうしたら、衛から来た女が覗きこんで笑ったのだ。――それは、なんの模様? きれいな、模様ね。
士匄はそこまで聞くと、晋女を乱暴に離した。恋を語らう青年はきれいさっぱり消え、傲岸な男がいるばかりである。晋女は、よろけて土に手をついたあと、士匄を見上げ、みるみる頬を赤らめた。羞恥が襲い、我に返ったのである。
「この、人でなし!」
「あの程度でのぼせるようなオボコが悪いのだ。お前は確かに才があろうよ、地精を呼び出しやがって!」
地精……、と晋女が群がる女官を茫然と見た。
山神は神であり、祀れば恵みをくれる、異界のものである。意志があるが、人の言葉は通じない。
地精は、自然天然に宿るものどもであり、明確な意志などない。意志のない、異界のものである。人は一線を引いて触らない。もし触れば――意志無きまま返してくる。
「あの地精はお前を主とし、お前の言うとおり、役に立とうと研鑽しているようだ。ただ、役に立つという意味がわかっているかは、知らん」
士匄は歯ぎしりをすると、女官たちを、地精たちを睨み付けた。強すぎる菊の香りは、これらの臭いである。清めとした菊酒は人の度合いなど考えず作りやがった。そして、今、何やらしらんが、女官を殺そうとしている。衛女も、狄女も、そして今転がっている楚女も、あれらが殺したのであろう。――なんの、意志もなく。