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第34話 女あり春を懐う、吉士之を誘う。恋に憧れる少女は素敵だね、と男は手を伸ばす。

「――あなたは、どなたでしょうか」

 韓無忌かんむきの目の前にいるのは、昨日も今朝も菊茶をふるまった女官である。そう、他者が見れば断言するであろう。しかし、韓無忌は問うた。大輪の花が咲いたように広がる衣、常のように美しく座すその女官に、お前は誰だ、と問うた。

「……菊の係のものでございます。あなたが、そう仰ったのでございます」

 女官が、しずしずと言った。少し冷たく、心を感じられない声音であった。韓無忌は首を振り手で制した。

「私が菊の係のものと問うたは、あなたではない。私の目にあなたは花のように見えるが……目元……そうですね、覚えのある目元です。もしかすると、彼女とそっくりなのかもしれませんが、あなたではない。同じ職分であるのなら、己の責を果たしなさい。私は今、私人です。議を終え散策しているだけのもの。君公の女官が饗応するものではない」

 滔々と諭し、韓無忌は女官を拒絶した。昨日の朝、彼はこうすべきであった。いつもなら、郤至げきしにも女官にも職分と公私の別を言い、菊茶など飲まず、菊など受け取らず去った。彼はまるで、仕切り直しているようであった。

 女官が立ち上がり、身をよじった。

「いえ、いえ、あなた、あなたさまは、私たちを菊の係のものだと、おっしゃった! 私たちは女官としてお役に立たなければなりませぬ。私は私たちなのです。なぜ、私を拒まれます!」

 惑乱したように叫びながら、韓無忌につかみかかろうとした。それは、女官としてあるまじき行動である。韓無忌は、逃げられなかった。弱視の彼は、常に崖の上で歩いているようなものである。身を翻して避け、逃げるなどできようがない。

 白く細いその腕は、韓無忌に届かなかった。どこからか現れた、もう一本の腕によって掴まれ、止められていた。

 菊の女官が、菊の女官を制していた。ぼやけた韓無忌には、同じ花がもう一輪、現れたように見えた。同じ姿形にも見えた。

 実際、女たちは寸分違わぬ姿をしていた。若干、制した女のほうに情のようなものが、見えた。

大夫たいふさまはいらぬと仰いました。そこを引くのも、お役に立つということなのでしょう。あなたは私ですが、大夫さまは、私となさらぬのです。貴き方は、私たちには計り知れぬほどの深いお考えがございます。私たちを私と思わぬ何かがあるのです」

「私たちは人のお役に立てと生まれたのです、この方は私たちを菊の係とおっしゃいました。その責務を果たせず、私は私たちとしてどうしたらいいのですか。いやよ、あなただけお役に立つなんて、私なのに」

 意味のわからないやりとりに、韓無忌は立ち尽くすしか無かった。ただ、菊の女官がやってきた、と思った。優しく思いやりのあるかんばせが、憂いを帯び、焦っているのが痛々しかった。労りたいと思ったが、指先ひとつ、動かなかった。

「菊茶のあなた。あなたの職分を私は侵しているようだ。そこの、女官の職分も。先ほども申し上げたが、私は、私人として、極めて私的な理由で菊の園に来たまでです。おかまいなく、お戻りを」

 あなたの顔が見たかったのだ、という言葉を韓無忌は丁寧に飲み込んで粉砕しながら、言った。

「ねぎらいのお言葉、大切にいたします。私たちは女官として、職分を全うせねばならぬものども。私……へのお言葉、大切にいたします」

 菊の女官が少し、頬を染めて言った。それは、初めて見せるかおであった。なんの作用か、韓無忌の視界には、それがはっきりと見えた。うすぼやけた世界の中、それはくっきりと鮮やかであった。恥じ入りながら喜び、いじらしい表情であった。

「どうして!? 私たちへのお言葉でしょう!? あなただけが受けたとなされるの、私たちなのに、あなたは、どうして、あなたなのぉ! 大夫さま、私にも、お言葉を。私たちに、お言葉をください。お役に立てと、職分を全うしろと、同じお言葉をください!」

 菊の女官に引きずられるように連れて行かれながら、女官が叫んだ。韓無忌はその異常さに険しい顔をした。凶事、戻らぬ士匄しかい趙武ちょうぶ、同じ姿の、同じ香りの女官。菊の女官と、もう一人の、狂態を見せる、女官。

 韓無忌は杖をよすがに歩き出した。内宮への入り口に向かう。庭にある、常に閉じられている垣根である。寺人じじんや女官だけが鍵を開けることができる、君公の住居へ向かう。

 菊の女がむりやり暴れる女官を垣根の向こうへ押し込めると、遮るように立ちはだかった。

「大夫さま。私はあなたに菊茶を奉りました。二度、あなたのために捧げました。その時、私は君公くんこうの女官でなく、大夫さまに仕えるものとなっておりました。しかし大夫さま。私たちはこの内宮にて仕えるものなのです、大夫さまは外の方です。中に入れば取り込まれます。お帰りを。お願いです、帰ってくださいまし。あなたに仕えたはしためとして、伏してお願い申し上げます。――おいでにならないでくださいまし」

 拒絶と断絶が、韓無忌の手を払い、足を止めさせた。先達として、士匄と趙武が心配なのは本当である。いずれきょうになるべき身として異常を収めねばならぬという責務も、本心である。しかし、奥底に菊のように清々しい女性の憂いをとりはらいたいという想いはあった。たった二度顔を合わせただけ、昨日知ったばかりのこの女官の手を韓無忌はとりたいと思ってしまっていた。

 己の至らなさ、浅ましさに目を伏せた韓無忌を、菊の女は見つめた。韓無忌はわかったとも嫌だとも言っていない。この女は、韓無忌が虚無に陥ったことに気づいていない。弱視の青年を労ることができても、そのような、心のひだがわからないものであった。

「私は、私たちではないの、私たちはお役に立たなければならないのでしょう、でも私はお役に立てなかった、私は、お役に立てなかった、私は、私たちではないの、役立たず!」

 琴の調音に失敗したような悲鳴をあげて、女官が身をよじっていた。尋常とはいえぬ言葉と姿であった。きれいに結いあげた髪は乱れ、顔を爪でひっかいている。その奇声は、邸内にまで響くほどの、大きさであった。――士匄たちがいる室にまで、かすかに響くほどの。

「――なんだ?」

 項垂れる晋女しんにょ、戸惑う趙武は、士匄の声に顔をあげた。士匄は、縄張りを侵された虎のように、警戒をあらわにしていた。

「何か、ございましたか」

 趙武がこわごわと口を開いた。晋女の自傷のような告白と原因、異常なほど清浄な菊酒。女官の死、出ることのできぬ内宮。これだけでも盛りだくさんなのである。これ以上何が起きるというのか。

「……庭で、叫び声、いや喚いているものがいる。また、死体でも出たか。行くぞ、趙孟ちょうもう。そこの女も来い、お前に関係あらば、必要なこともある」

 晋女が、私に何が、とぼんやり問う。

しゅはお前がばらまいたものだ。それに縛られているものの主はお前だ。それだけの話だ」

 怖じる晋女の手をとりむりやり引っ張りあげると、士匄は乱暴に歩いて行く。趙武が慌てて追いかける。晋女は、やってきたときの高慢が嘘のように従順であった。矜持と虚勢が剥がれ、売られたばかりの少女が、されるがままに歩かされていた。

 庭に出た士匄たちがまのあたりにしたのは、狂乱を見せる女が、多数の女官にもみくちゃにされながら体をねじられる惨劇だった。

「私、私たちにぃいいいいいっ」

 断末魔の叫びを上げながら、ねじられていく女官は安堵しているようにも見えた。それは、苦しみが終わる顔ではなく、帰属の喜びにも見えた。

「な、いや、いやああああ」

 晋女が、あまりの光景に悲鳴をあげ、逃げだした。庭に盛られた土につまずき転ぶ。そこには、雑に埋められた楚女そじょの顔が半ば見えていた。

「ひ、ひいいいいいいいいいいいいっ」

 叫び、晋女は腰を抜かして壊れた顔となった。惨たらしく殺されていく女官と、既に殺されている女官という状況に、自失してもしかたがない。その上、さらに女官がわいて出てくる。まるで土から生えるように、風から現れるように、同じ顔、同じ姿の、女官が現れた。

「君公にお仕えする、我が主。私たちはお役に立つよう、務めております」

 幾人もの女官が、さやさやと風が葉を小さく鳴らすように晋女へ笑いかけては、死にゆく女官へ向かっていく。

「な、え、なに。いえこれ。この数!」

 趙武がふらふらと庭に出て、見渡す。菊の香りがむせかえるほど強い。

「こんなに、こんなに、いるわけない!」

 おぞましいものを見る顔をして、趙武が叫んだ。庭を埋め尽くすほどの女官は、みな嫋々じょうじょうとして清々しさを感じさせる、美しい、同じ顔をしていた。背格好全て、同じである。士匄は、宴席で似た印象の女が多いと感じたことを思い出した。似た、ではなかった。同じ顔、だったのだ。

「ち、蟻の群れなんぞ、違いがわかるか!」

 士匄は思わず吐き捨てた。そうして、盛り土、否、楚女の死体の近くでへたりこむ晋女へと走る。これは、どう見ても人ではない。しかし、不祥というには瘴気も何もない。強い、強すぎる菊の香りに、士匄はひとつの答えを出した。そうでなければ、その時にまた考え直せばよい。

「おい、女! お前は詩を書いたと言っていたな、土にか!」

「ひっ」

 士匄の剣幕に、晋女が怯えた声を出す。男の怒鳴り声は、女にとって恐怖である――とかつて記した。異常な状況に怯えた晋女は、士匄の大声にもただ混乱し怯えた。苛立った士匄はさらに怒鳴った。晋女は幼女のように縮こまり、ごめんなさい、ごめんなさい、と小さく呟いた。

「くそ、女というものは、めんどくさい!」

 舌打ちしたあと、士匄は身をかがみ、晋女の髪を優しくとった。晋女はわかりやすく体を震わせた。士匄は、柔らかい笑みを見せ、女の顔を覗きこんだ。

「お前はそういった顔が良い。弱きところを見せられば男は女に侍りたくなるというものだ。お前は詩を戯れに書いていたと言っていた。美しい文字であったろう。しかしかん無くはくも無し。土の上に書いたのか。風吹けば砂に埋もれ残せぬ詩を書いたのか」

 いたわる目、甘く優しい声に、晋女がぼんやりと頷く。士匄はそろりとその頬に流れる涙を指で拭った。晋女が甘えるように目を一度だけつむる。士匄の手は女の肌を宝玉を撫でるように動き、こめかみから額をなぞった。

「想いのたけを消えると分かって紡ぐお前はいじらしい。その弱さを誇り高さで守るお前だ、悲しみの詩など記さなかった。きっと、気高い美しい文字を書いたのだろう。お前は、何を言祝ぎ、詠ったか。わたしはお前のそれを、知りたい。お前の心を、教えてくれ」

 いつのまにか、士匄は晋女を抱き寄せ、その顎に指を這わせながら耳元で囁いていた。晋女は、士匄の何に怯えていたのであろう、とその身を任せた。男独特の匂いが、晋女の何もかもを溶かすようであった。狂乱の場で、この腕の中は安全なのだとも思った。

「地に捧げた、お前の心はなんだ、何を書いた」

 恋を語らい愛を乞う声音そのものの声で、士匄は問い、晋女の眉の上に口づけた。

「とても、すがすがしくて、きれいで……。わたし、すきだったわ。とてもうつくしいから、菊ってかいたの。おまえたちは、菊よ、けだかくうつくしい、花、わたしのみかた」

 子供のころ、菊茶を楽しんだ日々があった。清々しい香りを喜んだ日々があった。菊園は色とりどりで、苦しくもあった。菊の詩を書こうとした。古詩にあったかしら、と『菊』とだけ、まず書いた。そうしたら、衛から来た女が覗きこんで笑ったのだ。――それは、なんの模様? きれいな、模様ね。

 士匄はそこまで聞くと、晋女を乱暴に離した。恋を語らう青年はきれいさっぱり消え、傲岸な男がいるばかりである。晋女は、よろけて土に手をついたあと、士匄を見上げ、みるみる頬を赤らめた。羞恥が襲い、我に返ったのである。

「この、人でなし!」

「あの程度でのぼせるようなオボコが悪いのだ。お前は確かに才があろうよ、地精を呼び出しやがって!」

 地精……、と晋女が群がる女官を茫然と見た。

 山神は神であり、祀れば恵みをくれる、異界のものである。意志があるが、人の言葉は通じない。

 地精は、自然天然に宿るものどもであり、明確な意志などない。意志のない、異界のものである。人は一線を引いて触らない。もし触れば――意志無きまま返してくる。

「あの地精はお前を主とし、お前の言うとおり、役に立とうと研鑽しているようだ。ただ、役に立つという意味がわかっているかは、知らん」

 士匄は歯ぎしりをすると、女官たちを、地精たちを睨み付けた。強すぎる菊の香りは、これらの臭いである。清めとした菊酒は人の度合いなど考えず作りやがった。そして、今、何やらしらんが、女官を殺そうとしている。衛女も、狄女も、そして今転がっている楚女も、あれらが殺したのであろう。――なんの、意志もなく。

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