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第32話 将くは其の来たりて施施たれ、ねえお願いよ、わたしのもとへいらしてね。

 ――迂遠な結界だ。

 一通り確認した士匄しかいはそう憤りながら、部屋に戻り脇息きょうそくを蹴り飛ばした。趙武ちょうぶが先達の行儀の悪さに呆れながらも口を開く。

「結界、は分かります。私も范叔はんしゅくも何故か外に出ることあたわず。でも、迂遠というのはどういうことでしょう」

 士匄は、控えている寺人じじん巫覡ふげきを連れて来い、と命じた後、

「この場全員を閉じ込めることなく、我らが関係しなければ女官も寺人も自由に外と往き来できる。しかし我らが問えば、共に出ようとすれば、あの者らも外を見失う。巫覡が軽く使うしゅも、まあ似たようなことはできる」

 と転がっていた脇息を引き寄せ乗りかかり言った。趙武は、かつて士氏ししの巫覡が士匄の動きを止めていたことを思いだし頷く。

「しかし、動きを止めるにしても操作するにしても目的を明示する。夏に我が士氏の巫覡が私の足を止めたときもそうだ。不祥の獣を捨てろ、でなければ通さぬ。まあ、そういったものだ。しかし、この結界は目的を見せず、とりあえずここにいろと閉じ込めてきている。わたしには解をぼやかしているようにも思える。何かしてほしかったらはっきり言え、くそ」

 最後、士匄が苛ついたように脇息を殴りつけた。この、晋公しんこうの財産であろう脇息も散々である。が、士匄とすれば、晋公のお膝元で不穏な輩が動いているかもしれぬのだ。あのお調子者で軽薄な君主がどうなろうとどうでもいいのだが、己の目の前で不祥事が起きるなど、矜持として許しがたい。士氏の名折れというものであった。

 士匄の言葉を最後まで聞き、咀嚼するような顔を見せた趙武が、それは、と返し始める。

「范叔。それは、范叔のようなものごとをはっきりしたい方のお考えです。史官、卜占ぼくせん、巫覡の方々も同じ価値観をお持ちでしょう。式があり解があり、そこには理、つまり明確なロジックとシステムがある。だから、范叔は解をぼやかしているとお思いなんでしょう。私は、この結界を感じ取れているわけではなく、不祥も人並みにしかわかりません。范叔のように見えるわけでもない。でも、人は誰でも言いたいことが言えるわけでもない、かたちにならない。ふわっとすることありますでしょう。えっと、どう言っていいかわからないことってあるじゃあないですか。そんな感じです」

「だから、どういうことだ」

 少しずつあやふやで感覚的になっていく趙武に、士匄は端的に言い返す。何が言いたいのか、と眉をしかめる士匄に、趙武が怖じけず、自分に言いきかせるように頷くと口を開いた。

「仮に、です。奴隷の中に淫祠いんしの方がおられた。その方は、なんとなく咒をお使いになり、それが少しずつおおごとになり、それをなんとかしようとして、その場しのぎに咒や呪いを行い、今に至る、ということもあるのです。ここに解は無い。ただ、事態を先延ばしにして逃げているだけなら、この結界も意味は無いでしょう。そういった、ことです。張本人も理由なんてわからない、やりたいことだってわからないのに、やってしまうというものです」

 趙武の言葉に、士匄は

「は!?」

 と大声で、そして素で叫んだ。

「なんだ、その、愚人は? は? はあ? 自分で何をやりたいかわからん、の意味がわからん! いや、着地点あるだろう、最初は場当たりでも! おい!」

 私に言われても、と趙武が前置きしたあと、肩をすくめて苦笑した。

「子供が、怒られるのが怖くて逃げちゃうのと一緒です。それは、誰でも持っているんですよ范叔。あなたは今はわからない。そうですね、共に学んでいる方々みなわからないかも。知伯ちはくは少しおわかりかもしれません、あの方は戦争で捕虜になって人質になっておられた」

 妙に大人びた顔つきとなる趙武を睨め付けながら、士匄は首のしぐさで話の先を促した。子供が怒られたくなくごまかす、はわかる。それとこの事態、そして解が無いに繋がる意味がわからない。趙武が頷いて口を開く。

「己以外が責任をとってくれません。誰も守ってくれない、誰もたよることできない。自分に手の余ることを肩代わりしてくれる人などいない。それだけの話です。あなたは間違ってもお父上が、士氏が守ってくれます。他の方もそう。しかし、一つ間違ったら終わる人も多い。その中には、終わりから逃げようとしてさらなる困窮に入っていく人も、とても、多いのです」

 士匄は、何が言いたい、と畳みかけることはしなかった。

「お前の言いたいことはわかった。弁は本題からずれてブレまくっている、気をつけろ。つまりお前は、犯人は何も考えていない無計画なアホ、と言いたいのだな」

 長々とした主張を一言にまとめられ、趙武は苦い顔をした。そのような表情でも美しいご面相はそのままであるため、やはりお得な顔である。悔しいことに、趙武が必死に言葉としたことを、士匄は一言で言い切った。その通りです、と頷き拝礼するしかなかった。

 士匄は、脇息から離れ、姿勢を正してそれを見る。

「……まあ、お前の考えも一理あるとして一考しよう。しかし悪意の無さにこだわりすぎる、とは先達として言っておこう。わたしの知る限り、お前は誰よりも人の悪意を最も知っている。妙な達観せぬのは良いが、夢や希望を見過ぎるのもいかがなものか。わたしの見た女官の死体には、明確な悪意が見えた。あれをその場しのぎの行いとするは、天地開闢以来の争いは偶然起きた不幸な事故と言うに同じ。無計画なアホに悪意が無いと思わぬことだ」

「……わかっていますとも。……ご教示、ありがとうございます」

 趙武が少し低い声で呟く。士匄は再び脇息にもたれかかり、くわ、とあくびをした。巫覡が思ったより遅かった。

 結局、宮中を守る巫覡は現れなかった。

「巫覡さまは朝に出た不祥の女官を捨てるために、外に出られたままお戻りではございませぬ」

 一人の女官がやってきて、深々と拝礼し、震える声で言った。その女官は趙武を迎えに来たうちの一人、浅黒い肌の女であった。寺人は士匄が苛ついていたことを察しており、この女官に押しつけたのである。

「あっあの。明日にはお戻りになると仰って出られたそうです。お待たせしている間、御酒ごしゅでも召されませぬか」

 若い大夫たいふたちが何か思い通りにならず苛ついている、という雰囲気は察していたらしい。女官は、酒と少々の肴を用意していた。士匄はいらぬと追い払おうとしたが、

「わざわざお気をつかっていただき、感謝にたえません。君公くんこうのお世話をする方々の手をわずらわせ不徳の限りでございます、その心遣い受けましょう」

 と趙武が言ってしまったために、接待を受けるはめになってしまった。女官が、少し安堵した顔をして、二人の前に膳を用意し、酒を注いだ。彼女は勝手に持ってきた酒席が不興を買わなかったということもさながら、自分なりの気遣いをを受け入れてもらったことに胸をなでおろしたのだ。

 朝に衛女えいにょが死に、巫覡がそれを祓って不祥として外に出す。その判断は間違っていない。が、その次に狄女てきにょが惨殺され、士匄たちは出られなくなった。

「……趙孟ちょうもう。お前は巫覡に祓われていないのか」

 士匄の問いに、趙武が頷く。杯が空になれば女官に注がれ、そのたびに飲んでいるが全く酔いの様子が無い。かなり強いらしい。

「はい。巫覡は現れず、水などで清められました。思ったより不浄が無く、驚いたものです」

 死体という不祥をまともにひっかぶったわりには、趙武に穢れは少ない。ゆえに、巫覡が祓ったと士匄は思い込んでいた。が、巫覡はとっくに宮中を出ていたのだ。つまり、体を洗っただけらしかった。

 ここが、君主のいる宮中の奥だからだろうか。

 君主の住む場所、そして政堂は清浄である。ゆえに、趙武の不祥はすぐさま祓われたのか。実際、日に二つも死体が出たわりには、場の瘴気は少なかった。

「大変でしたでしょう、大夫さま。あの子が職分を越えて連れだしたばかりに。おそろしいことです」

 女官が、趙武に訴えるように言った。黒々とした髪は少々癖が強かったが、豊かで見事に結いあげられている。袖から見える肌は健康的であった。腰のくびれがはっきりとし、形の良い尻や腿が衣の上からもわかるほどである。彼女は趙武が膳の上に置いた杯に酒をそそぐと、そっと持って手で渡す。僭越と言って良い仕草であったが、趙武が気負いなく――何も考えず受け取る。青年の手を女の指がなぞった。

「ねえ、大夫さま。あの子の体はどうなるのでしょう。やはり、捨てられるのでしょうか。埋葬されず祀られもせずに、捨てられてしまうのでしょうか。私はおそろしいのです。ここに売られ、君主さまに仕えて一生を終えようと覚悟しておりました。しかし、あんな終わりかたをするために売られたのかと思うと、本当におそろしい。大夫さまは君主さまをお支えになるのでしょう。私たち下々のことをお救いください」

 少し厚ぼったい唇が蠱惑的に動き、大きな黒い眼が趙武を捕まえるように見て来る。この女官は、鋭そうな士匄より、物腰柔らかそうな趙武をターゲットとした。まあ、それは、消去法として間違っていないが、と士匄はつまらなさそうにそのやりとりを見ていた。

 女官が哀れなほど、趙武はそういったことに疎かった。

「私は君公に仕える身、そして国と民を支える柱になるよう、研鑽しております。あなたは君公の財産ですが、それは国の財でもあります。あなたがたが憂いなく職を全うできるよう、私も務めましょう」

 趙武が、指を手を愛撫のようになぞられながら、誠実な笑みを見せた。女官の顔がこわばる。そうして、士匄に視線を向けた。あちらが良かったのでは、という目である。が、士匄はそれを弾くように、し、し、と手を振った。犬を追い払うような仕草であった。

「大夫、さま。酷い目にあって心も重いでしょう、私、私が気張らしに侍りましょう。私、とてもお役に立てるのです。どこに行っても、お役に立ちますから!」

 趙武の指をなぞっていた女官の手が、今度は腕を掴んだ。趙武はあっけにとられて杯を落とす。床に酒が飛び散った。女官は、文字通り趙武に縋っていた。

「え、どうしたのです、落ち着いて、落ち着い――」

 まるで襲いかからんばかりの女官を、趙武は必死に制止し、落ち着かせようと声をかける。日に二人も同僚が惨死しているのである。怯えるのはわかる。しかし、これは異常だ、と趙武もさすがに思った。どんどん、体重がかかってきて、肌や熱さが近くなる。しかし、その肩は細い。オンナノコを突き飛ばすわけにはいかないと、趙武は本能的に思い、ただ身をよじらせた。仕方無く、士匄は立ち上がった。

「侍る意味もわからんやつだ、諦めろ」

 女の首飾りを手で掴み、そのまま引き倒す。ぽかんとしている趙武の前で、嫌がる女を押さえつけると、首飾りを引きちぎった。思いきり女の胸をわしづかみにしているが、士匄は尻派なので、胸の柔らかさ含めてどうでもいい。奪った首飾りをかざすように掲げ見る。

洛午庚辰らくごこうしん、か。お前、狄の女と同じ日に来たのか」

 押さえつけられていた女官は、恐怖を通り越し、茫然とした顔で見上げて頷く。

「はい、あの子と同じ、庚辰こうしんの、ものです。えっ、あの子は狄だったの、やだこわい」

 震えながら差別発言をする女官を嘲笑う。

洛午らくご周都しゅうとより南。わざわざ南とされるは河をはるかに越えた南蛮を強調したかったのだろうな、楚人そひとか。お前も我らからすれば狄と変わらん」

 首飾りをひらひらと回したあと、士匄は立ち上がり女を解放した。女官、楚女そじょはあほうのような顔で寝転がったままである。まるで陵辱を受けたあとのようでもあった。助けられたはずの趙武といえば、士匄の狼藉に混乱しながら、女官に憐れみを感じていた。女子をあのように扱うものではない、という少年の本能であった。

「おい、女。お前は無聊をかこつ我らに酒席を用意した。まあ、そこまでは気の利いた女官と褒めてやろう。しかし、勝手に侍り、そして憐れみと慰めを乞い願った。僭越どころではない。本来であれば斬って晒すところだが、お前は君公の財だ、我らには手が出せん」

 嬲るような士匄の声に、楚女がみるみる顔を赤らめ、一瞬顔を手で覆った。ゆらりと起き上がると、歪んだ髪型そのままに、彼女は駆け出し去っていった。

「あの。あの。なに。あの人はどうして、私を掴んだのです。范叔も、どうしてあんな乱暴を」

 趙武がとんまなことを言った。士匄は見下ろしながら、侮蔑の顔を見せた。

「お前は、わたしの前で。本当に鈍くさい。……最初の女はわからんが、お前にせまった二人はおかしい」

「なにがですか」

 反射的に問う趙武のとなりに、士匄は座って話を続ける。

「ここの女官、我らのはしため。どちらも買い付けた女の奴隷だ。主ある奴隷が他者に己を売り込む。女が自ら場所を求める。思いつくことさえ、ありえんだろう」

 当時、女性は親か夫の持ち物である。そして生まれがどうであれ奴隷になれば主人の持ち物である。二重の意味で人生を選べぬ思考の者が、稚拙な方法とはいえ現状から逃げようとする。現代で言えば、酒を飲めぬものは嫌なことがあってもやけ酒を考えない、という程度の、当たり前の話である。

「いやその食われかけた、はともかく……。恐ろしいことがあって、逃げたくなるというのはあるのではないでしょうか」

 襲いかからんばかりの楚女の剣幕に怯えはしたが、しかし彼女に恐怖の念はあった。趙武が最後にそう付け加える。士匄は考え込んだ。

「……一番の疑問は、だ。女官二人が何故、我らの物になるのが良いと思い込んでいたか、だ。やりかたが直裁的なのは脳が無いからだろうが」

 士匄の言葉を聞いているうちに、気持ちが落ち着いてきたのであろう。趙武が今さら震えだした。

「あの、女人というものは、細く小さく柔らかそうなのに、あんな、その、おそろしいものなのですか。えっと、妻妾さいしょうも、ですか」

 狄女は強引でもあどけなさがあった。しかし、楚女は少々肉感的なこともあり、迫力があった。この青年は、今さらながら恐怖を感じた。本当に、童貞以下である。

「は? あの程度、かわいいものだろうが。あそこまでさせたのはお前だ」

 士匄は、呆れた顔で言い放った。

 さて、視点を変える。洛午庚辰の女官である。

 彼女は、士匄の指摘どおり、の出身であった。楚とはしんと対立する南の大国である。まあ、良くある話だが、飢饉で税が払えず売りに出された娘である。肌が少々浅黒かったが、器量が良かったため躾けられて晋に売られた。楚に残った親は飢饉が続き飢え死んだのであるから、売られて良かったというものか。

 親がどうなったかなど知らぬまま、楚女は女官として生きることを受け入れていた。受け入れていたはずであったが、今日に限ってそれが嫌だと思ってしまった。狄女と張り合うように趙武に己を誇示し、あげくに媚態まで作った。彼女は、男を知らぬため、見よう見まねである。

「恥ずかしい!」

 ぼさぼさの髪のまま、庭まで飛び出て、一人で叫んだ。

 別段職分に誇りがあるというわけではない。単に、人として女として恥ずかしかっただけである。それと共に、どうしてあんなことをしてしまったのか、と自分でも不思議でならなかった。

「……どうしよう、告げ口されて、役立たずって言われたら、追い出されてしまう」

 晋公の女官であるからこそ、それなりの衣服を着て、屋根のある場所で眠れる。食事も貧しいが、ある。実家の生活など、草で編んだボロを着て、地面の上で寝ていたものだった。食べると言えば限界まで膨らませた豆であり、木の根をかじりつづけたこともある。そんな生活が当然であった。

「ああどうしよう! 告げ口されて、罰をもらうかもしれないわ。豚の餌になってしまう」

 逃げだした奴隷が掴まり、家畜の餌になったことを思い出しながら、楚女は手で顔を覆った。

 ――この宮の中にいるものは、全て役に立たなければならないのよ。

 そう、言っていたのは誰であろうか。

「私は、なんてダメな子!」

 自虐と自己陶酔、そして精神的自慰である。そんな言葉を己に向けて鼓舞し、立ち上がろうとするものは、古今東西多いであろう。彼女も、そんな儀式をしただけであった。

 白い、美しい女の手が何本も楚女の体に絡みつき、引き倒す。そうして、悲鳴を上げる間もなく、ごきゅんと首をへし折った。嫋々とした女の腕でも、幾つもあれば、凄まじい力なのだろう。

 その体に、土がかけられる。埋葬されたいと言っていたのであるから、彼女の夢はひとつは実現した。

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