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第24話 冥冥に視、無声に聴く。人間、見えないものを視て聞こえない声を聴けたら立派だね

 夏の後、はるか先のモラトリアムの果てをご覧戴いた方々へ申し上げる。成熟しすぎた秋から少々時間を巻き戻す。青年期を超え、少年期である。

 古詩こし故実こじつ典礼てんれい。そういったものを一通り学び終えたほど、思春期の手前であった。いまだ少年くさく声変わりもしていない士匄しかいは、父である士爕ししょうに連れられて時の正卿せいけいの邸へ行った。その年、晋は東の大国せいに完勝している。その挨拶も兼ね、また、士匄の顔を見せに行ったらしい。このらしい、というのは士匄の想像だからである。

 この正卿は士匄の祖父に私淑しており、父の兄貴分だった。士匄をかわいがってくれていたが、この少年はとくにうれしくもない。正卿が矮躯で見た目もよろしくなかったからである。少年というものは得てして表面の美醜で判断するものであり、士匄は特に美意識が強い。子供は残酷であった。が、さすがに表には出さずおとなしくやっていた。

 さて、大貴族の令息の義務として、年配にかわいがらせてやろうと、士匄少年は士爕と共に邸に踏み入れた。

 その、瞬間の、怖気、嫌悪、不快、圧迫、脅威、危難、それら全てを士匄は一生忘れないであろう。

 士爕が出迎えた正卿にていねいな礼を返している。士匄はガチガチと歯を鳴らし、この大人どもは何故アレを無視できるのだ、と凝視した。アレを視界にいれまいと必死である。が、人間は恐怖を確認してしまうものである。目が勝手に追った。

「何をしている、匄」

 士爕がつったっている息子を小さく叱った。正卿も不思議そうに見てくる。士匄は頭の回転は悪くない。どころか、良い。すぐさま、二人にはアレがわからぬのだと気づいた。

 彼らは、多少の不祥であれば気づく普通の人間である。多少を超えた大きすぎるものは、目に入らぬのか、と士匄は初めて知った。人は許容量を超えるものを認識せぬよう、閉め出すことができるのである。――士匄は不幸なことに、許容量があった。

 室に通されても、ソレは視界に入った。邸に入らねば見えなかったということは、保護されているのか居座っているのか。

 柱。はるか天まで伸びる柱に見えるそれ。

 大量の瘴気が、まるで一本の柱のようになって、邸を貫き天まで勢いよく巻き上がっている。

 士匄は、二度とここに来ないと誓った。何故いきなりこんなものがあるかなど、知らぬ。しかし、絶対に、ここには来ない。逃げたい、怖い、死ぬかもしれない。年の頃十二才の子供は、泣きたいのをこらえて、引きつった笑みを見せ続けた。彼の忍耐はこの時に使い切ってしまったのであろう。



 夏の最中に戻る。雨期独特の湿気を含む風は生ぬるい。じわじわとした暑さが室内に充満している中、青年士匄は士爕に呼び出されていた。

「わたしに、げき氏へ挨拶に伺えとおっしゃるのですか! 父上は」

 士匄は悲鳴のような声をあげた。士爕が、眉をしかめ、睨み付けてくる。

「このたび、我が家は外壁を補修せねばならぬ。そのための、良き土がある領地は郤氏の所領に近い。大勢のものどもが動くのだ、騒々しくご迷惑をおかけするやもしれん。先に挨拶しておいたほうが良い」

 動員される民は戦時に兵となる。そもそも、土木作業をするものが兵であることは古今東西多い。士爕は、郤氏が警戒すると思っており、それは的外れではない。両家が緊張状態にあるというわけではなく、そのような時代であった、とだけ言っておこう。

「わ。わたしは、郤氏の方々とたいして面識無く、親しみもなく、青二才ですし、その、当主である父上がご挨拶されるのが、きっと、先方も安心なされます、そう、きっと、そ、う」

 この青年は、弁舌爽やか押し出し強し、が売りなのだが、ここには欠片の先も無い。言いよどみ、口ごもり、なんともみっともない言い訳と弁である。

「……かい。何故、我が邸の壁が崩壊したのか、忘れたわけではあるまい」

 全ての感情が抑制されたような、埋まった士爕の声に、士匄はうぐっと呻いた。幾重にも塗り固められた堅牢な土壁は、先日一人の巫女によって破壊された。士匄の目算が甘かったためである。

「私は、壁が壊れたことを怒っていない。しかし、むざむざと壊されたこと、備え足りぬ。また、嗣子ししていどが、他家の大事の責を負ったこと僭越である。急を要したとの抗弁はとうてい受け入れがたい。なんじは一晩、中行伯ちゅうこうはくをお泊めした。その間、私に報告できたはずであろう。――が、その言い訳を今や尋ねる意味も無い。責を取るなら最後までせよ。汝は己の不覚で我が邸の守りを打ち砕かれたのだ。さて。損なったものは私の財で補おう。土も民も氏の財、すなわち主である私の財だ。無駄な労でもあるが、当主として行わねばならぬ」

 この国には塩湖がある。冬になると塩の結晶で凍てついた氷原のようにもなる。父の目は冬の塩湖のように寒々しく、重かった。

「私はこれ以上の言葉を重ねたくない。言わせるな、匄」

 士匄は、大量の塩を飲み込んだような顔をしながら、拝礼した。

 それ、で。

「なぜ、私が同行せねばならないのですか」

 呼び出され、問答無用に馬車に乗せられた趙武ちょうぶが、うんざりした顔で言った。口を尖らせていても見事に美しい顔である。士匄もうんざりした顔をしていた。

「お前もその場にいたのだ、同罪だ同罪」

「……我がちょう氏の財をお出ししてあがなうことはできますね、降ろして下さい。士氏の嗣子としてご挨拶に伺うのでしょう、私がいるのは筋が通りません」

 趙武の毅然とした言葉に、士匄はますますうんざりした。確かに、一連の騒ぎに趙武は関係していたが、この『ご挨拶』は士氏の話であった。趙武を連れて挨拶へ行くのは筋違いではある。

「……お前は趙氏のおさだ。郤氏は前正卿のお家、今も勢力の強い一族だ。挨拶をしていても損ではあるまい」

 強い家と繋がるのも悪くはないだろう、という士匄の言葉に、趙武がさらに眉をしかめる。

「若輩の身です。そのような方々と交わるのは身に余ること、私を養うかん氏も良い顔はいたしません。はっきり言うとよけいなお世話というものです。私に一緒に来て欲しいなら、そうおっしゃるのが筋というものじゃあないですか。それを何やらこじつけて、みっともないです」

 趙武の言葉に士匄は苦虫を噛み潰したような顔をした。この後輩の言うことは、全くもってそのとおり、である。士匄は一人で行きたくない、しかし格式が上の家に家臣は入れない。外に待たせることになる。考えた末、ちょうど良いのが趙武だったのである。

 一緒に来て欲しいと言えば、理由を話さねばならぬ。士匄は重い口を開いた。ちなみに、理由など言わなくても、頼むから一緒に来て欲しいと真剣に言えば、趙武は引き受けていたであろう。士匄は理由が無ければ納得しないが、趙武は真心さえあれば頷く人間である。士匄は、言わぬでいいことを口に出しているのであった。

「あの邸が嫌なのだ。子供のころ、不祥を見た。それ以来、一度も足を向けておらぬ。二度と行かぬと己に誓っていた」

 趙武が真剣な顔で頷いたあと、首をかしげた。士匄は不祥など見慣れている。いくら子供のころに見たからと言って、未だに嫌だと駄々をこねるのは不自然であった。趙武はたやすくひとつの答えにたどりつく。

「怖いのですか?」

「ばっっっか、やろう! わたしが! 怖いとか、そんなわけあるか!」

 士匄は席を手でバンバン叩きながら怒鳴った。その空気が伝わり、馬が少し怯えたように耳を伏せる。御者がなだめながら歩かせた。そのような下々の苦労がわからぬお坊ちゃんは、後輩に対して万の言葉をつくし、怖くないと言いつのった。つまり、怖いのだと趙武は思った。

「まあ……先達の頼みですから、後輩としては謹んでお受け致します。郤氏の方々とは縁遠いですので、まあ、少しはご挨拶したほうが良いかもしれませんし。いや縁遠いままのほうがいい気がしますけど」

 趙武はどうも、韓氏以外の一族と近づきたくないらしい。士匄とは教導という部分で近いが、一族として懇意にしようとしていない。亡びかけた氏族としての処世なのかもしれない。士匄は、処世というものをあまり考えない人間である。邪魔なものは踏みつぶしてしまえば良い。

 しかし、まあ、踏みつぶせぬものもある。

 士匄は、郤氏の邸で見た不祥を思い出しながら、ふと趙武に妙な瘴気がまとわりついていることに気づいた。いや、初手から気づいていたが、自然に散らぬのが気になってきた。

趙孟ちょうもう。変なものにでも行き会ったか。穢れがある」

 趙武が、えっ、と声を出すと、己の体を必死にはたく。が、その程度で穢れが離れるわけがない。

「いえ、別に妙なところに行ったりしてませんし、その、お悔やみ的なものもございませんでしたし!? え、やだあ。我が家の巫覡ふげきは何も言ってませんし」

 途方にくれた趙武に士匄は己のこめかみを少し叩いたあと、口を開いた。

「不祥が充満しすることは、多々ある。最近、いつもと違うことは無かったか」

「……まあ、はい。お体が悪いようで蹲っていたご老人を一時看病させていただきました。長く生きた方は敬わなければなりません。賢人らしく、色々ごぞんじの方でした。ご老人は良くなって、ひとつのところに留まらぬ人生だからと去っていかれましたが……」

 士匄は指をならして、それだ、と呟いた。それだってなんだ、と趙武はいぶかしげな目を向ける。

「見ておらんから、まあ想像だが。そのじじいが一所に留まれぬのは、他者に不祥を振りまく性質だからだろう。そういう体質のやつが稀にいる。本人はピンピンしているが、他人を不幸にする巡り合わせのやつだ。邸中を祓ったほうが良い。巫覡も穢れた可能性がある」

 巫覡が気づかぬものを何故あなたが気づいたのか。趙武は指摘しなかった。春以降のもろもろで、趙武は士匄の目を信用している。この先達は、下手すればそのあたりの巫覡よりも敏感であった。が、それだけである。趙武の不祥を言い当てても祓うことはできぬ。

「……穢れたままで郤氏に伺うのは、非礼になるのではないでしょうか」

 趙武が途方にくれたまま、問うた。

「相手が気づけば祓って貰えばよい、気づかなければ非礼にならぬ。見えなければ無いと同じだ」

 鼻を鳴らして士匄は感慨もなく言った。馬車はそろそろ、終点へと近づいていた。

 前述したが、郤氏は先代が正卿であり、先々代も正卿という名家のひとつである。武に長け、財も多い。そのためか、邸の土壁も堂々とした威風が感じられ、いっそ人を圧迫するような強さもあった。さすがに士匄も趙武も緊張の面持ちで、門の中へ入った。極めて私的な内容であるが、家の代表として格式上の人と会うのである。友だちの家へ遊びに行く、とは大違いなのだ。

「趙氏の長と士氏の嗣子を迎え入れるとは誉れ高いことだ。いやあ、よく来た!」

 声の大きい男である。儀礼爽やかな壮年で、獰猛さと少年のような無邪気さが瞳に宿っている。名を郤至げきしといい、ほれぼれするような体軀であった。

「このたびはご挨拶をお許しいただき、感謝に堪えません。我が士氏はこのたび、邸の普請をすることとなりました。郤氏の地の隣でうるさく音が鳴り響くこと、お知らせに参った次第です。なにぶん、不調法な家です、ご迷惑おかけいたします」

 士匄の言葉に郤至がからりと笑った。

「そのようなこと、わざわざ律儀にご挨拶いただかなくても気にせぬよ」

 単に付き添いでやってきた趙武は口を開かない。内心、肩をすくめていた。郤至はまあ、個人としては気持ち良い人かもしれない。が、しゅう室へ領地を渡せ、というしん公の命令をガンとして聞かなかったこわさがある。陽性の人間であるが、物事を殴ることで解決するところもある。話を通さなくても良いなどと言うが、通さねば気を悪くしたであろう。

 用件は終わったが、はいそれで、と立ち去るのは貴族ではない。典雅な謎解きや詩の応酬など、いわば雑談を美しく飾るのもひとつの儀礼である。趙武も士匄も、郤氏の繁栄を祝う詩を送った。郤至はその喜びを詩で返す。

 いきなり、ぶ、と士匄は悪寒に襲われ、全身に鳥肌が立った。唇を引き結び、身を固くする。趙武も郤至も、それに気づかない。

 郤氏の臣が室に入ってきて、足早に郤至に近づき、耳打ちをした。そうか、と頷いたこの壮年は、

「せっかくだ、連れて来い」

 と言った。そうして士匄と趙武を見回し、にっかと笑う。五十にもう手が届こうとしているくせに、青年のような笑顔であった。

「ちょうど良い時に来られた。我が家の預かりものをご覧にいれよう。はっきり言おう、人妻だ。若いものには目の毒かもしれんが、後学と思えば良い」

 郤至の言葉に趙武が頬をひきつらせた。嫌悪を必死にやりすごし、なんとか拝礼する。妻を他者に預ける夫もたいがいであるが、その人妻を見せびらかすという行為は悪趣味としか思えない。趙武は一気にこのおっさんが大嫌いになった。ちなみに、この当時、未婚の女は顔を見せることはないが、結婚した女は人前に出ていることが史書にて確認されている。

 趙武の所作に気づいて、士匄も拝礼した。人妻などどうでもいい。とんでもない不祥の気配が、身を刺す。悪寒で吐きそうであり、全身の鳥肌は膨れあがる。席を立って逃げだしたいくらいであった。が、士爕の名代としての責を思い、ねじ伏せる。これに気づかぬあほう二人が憎いほどであった。

 衣擦れの音とともに、一人の女がしずしずと室に入り、拝礼した。指先まで優雅な仕草であった。その姿、二十半ばを越えた程度の若い女である。

「お呼びと伺い、まかりこしてございます。氏のさいでございます」

 その顔、その姿に趙武はあっけにとられ、返礼を忘れた。

 一言で表せば、芸術品であった。輝くような白い肌は瑞々しく、唇は椿のように紅い、髪が絹糸、瞳は閉じられた星空、などと言うも陳腐である。言葉が無くなるというのはことのとだろう。趙武は己の顔が極めて美しいことを知っている。それはうぬぼれではなく、事実である。が、自分の美しさなど、目の前の女に比べれば地を這う毛虫だ、とまで思った。

 そして、趙武がオボコであるため、気づいていないが、美しさと共にどうしようもない艶やかさがある。男であればその目を向けてほしくなり、唇に食いつきたくなり、その腕を撫で腰を掴みたくなるような、香り立つ女でもある。

 茫然とする趙武を見て、郤至が笑った。その反応が欲しかった、という態度があからさまであった。

「趙孟ほどの美貌の持ち主も、この者の前でそのような顔をする。いや、わかる。天が全ての祝いを与えたような女だ。だがしかし、人妻だ。手を伸ばしても掴めぬ星、湖面に映るがすくい取れぬ月。まあ、夫が出かけているので、縁があって当家で預かっている」

 その預かった人妻を見世物にしてるわけだが、郤至は悪びれない。趙武も嫌悪を超えて、女の姿に見入ってしまった。女は少し困惑した様子で、軽く身をよじらせた。その姿はしとやかで嫋々じょうじょうとしながら、どこか艶然としている。

 士匄は――士匄は、それどころではなかった。

 目の前に、瘴気の柱が現れたのである。

 女の体から大量の瘴気が溢れ、それが勢いよく天へと渦巻き続けている。まさに、一本の柱と化した不祥が目の前にあった。いっそ気絶したかったが、意地と矜持で耐えた。

 女が美しいことくらいわかる。精力的な士匄である、その蠱惑的な魅力だってわかる。が、芸術的価値があったとしても、呪われた宝など誰もいらぬであろう。魂そのものが搾り取られるような圧迫と、息も苦しくなるような澱み、怖気が走る穢れが、士匄をすりつぶしてくるようであった。

 士匄は目をそらしたかった。が、やはり人は恐ろしいもの、汚いと感じるものを見てしまう、確認してしまう生き物である。結果、趙武のように凝視した。ガチガチと歯を震わせながら、天に呪われたとしか思えぬ女を凝視した。

 女は、士匄の視線に気づいて、同じように視線を向けた。そして、微笑んだ。天上の音楽を凝縮したような笑みであった。

 あら、見えてらっしゃるの

 そのような声が、聞こえてきそうな微笑みでもあった。士匄は、叫びそうになるのを堪えるのでせいいっぱいであった。

 郤至は、この人妻を侍らしたいわけではなかったらしい。顔見せさせたあと、さっと帰らせた。そのあたりでようやく、士匄の顔色が尋常でなく悪いことに気づいた。

「酷い顔色ではないか。我が家の医者の腕は良い、薬も多くある、診させよう」

 心底労っている郤至の声を士匄は必死に制し、首を振って辞退した。士氏の嗣子が他家に迷惑をかけるなど父の面目がたたぬ云々。いつも以上に舌がよく回っていたが、言い回しに切れは無い。

「いやいや、我が家に来た客の不調をそのままに帰すは郤氏の名折れというもの」

 郤至は、本質的に爽やかで人好きのする、陽気で親切な男である。士匄が遠慮しているのだと思った。大いなる誤解である。見かねた趙武が口を出した。

「先達のお言葉に口を挟むのは僭越ですが、申し上げます。范叔はお父上に復命せねばならぬ身です。それが嗣子としての責でござい、ます。えっと……お客人としてもてなしたいお心、お体を気づかう献身、范叔はんしゅくも嬉しく思っているでしょう。しかし……その、責を果たすこと、我らけいを目指すものの役目です」

 途中からまごつきながらも、必死に言い終わる。郤至が趙武を少し値踏みする目を向けた後、二人を解放した。

「あの……大丈夫ですか?」

 馬車に乗った途端、ぐったりとした士匄を覗き込みながら趙武が言った。士匄は、うろんな目を向けながら、ゆっくりと頷く。

「何があったんです?」

 のんきな趙武に怒鳴りかえす気にもなれず、後で、話す、とだけ言った。あの女が不祥の塊で、穢れをまき散らしていたなど、誰が信じるのか。少し見えない程度のものであれば、趙武も頷くであろう。が、許容量を超えたものが目の前にあった、と言っても首をかしげるに違いない。趙武も己も穢れに当たっている。うんざりした。

「お前、きちんと祓って貰え」

 瘴気が深くなった後輩に言うと、

「いつになく念押ししますね。ありがとうございます」

 と返される。それ以上、趙武は深く聞かなかった。特有の慎みか、それとも鈍さかと窺ったがどうも違う。何やら、ふわふわしていた。士匄は、なんとなく観察した。気が紛れる思いもあった。その視線に気づいた趙武が、頬を赤らめる。

「あ。え、なんで見ているの、ですか」

「……思春期到来かと見物している」

 バカにしすぎている士匄の言葉に、趙武が睨み付ける。美人を見て発情しているのか、と揶揄されたことくらい、オボコの趙武だってわかる。

「いえ。あの、美しい妙齢の女性など、見たことございませんし! その、びっくりしたのもあります。信頼があって郤氏に預けているのでしょうが……。あのようにお若く美しい妻を人に預けることができるのは、気が大きいのか、それとも情が無いのでしょうか、とか色々考えていただけです」

 八割、美しさに当てられていたくせに、趙武は理屈をこねた。ばつの悪そうな趙武の顔を見ながら、士匄は、へ、と鼻で笑う。

「趙孟。巫氏とは、郤氏に保護を願った、からの亡命者だ。お前は他家に疎いようだな、知らんのか」

 何をですか、と趙武が不審さを隠さずに問う。

「今、巫氏は我が晋と同盟しているに赴き教導している。まあ、楚を後ろから殴るはかりごとだ。ゆえ、妻を郤氏に預けたのだろう。さて、巫氏が亡命してきたのは十年以上前、斉に勝った直後だ。その時、絶世の美しい未亡人を盗んできたのだと。その未亡人、その十年前には立派な息子を育て上げていたらしい。そうなるとまあ、少なくともその二十年前には輿入れしたんだろうよ」

 十年前。それにさらに十年。そして二十年。合わせて四十年。趙武はそこまで数えて、へたり込んだ。どう見ても、三十路にいっていない、顔であった、若さであった。

「ああいうのを、化け物と言うのだ」

 士匄は、手をひらひらと振りながら吐き捨てた。


 豆知識。

 夏姫かき、という女がいた。てい室の娘で、ちん国の氏に嫁いだため、夏姫と呼ばれている。

 彼女は、夏氏に嫁ぐまえに兄と密通していたという噂がある。その兄は夭折した。嫁いだ先の夏氏も早々に死んだ。一人息子を育てる夏姫に時のちん公と大臣など三人が通じ、男三人に囲われたが、陳公は夏姫の息子に弑された。楚はこの騒ぎに介入し、夏姫の息子を処刑して、陳を滅ぼし編入してしまった。この夏姫をめぐり楚は緊張し、とりあえず老臣の一人に下げ渡した。が、この老臣は戦死した。夏姫に密かに恋心を抱いていた巫臣ふしんは、彼女を連れて晋へ亡命した。それを知った楚の幾人かが怒り狂い、巫臣の一族を殺し尽くした。その後、復讐鬼となった巫臣は呉を使って楚を疲弊させている。

 夏姫は、春秋時代に生まれた、最も美しく艶やかな、中国最凶のサゲマンである。

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