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第22話 易に太極、是れ両儀を生ず、宇宙から全て生まれてきました!

中行伯ちゅうこうはく! どうして!」

 趙武ちょうぶが目を見開き、叫ぶ。その声が聞こえていないのか、荀偃じゅんえんが痛ましげな顔をしながら、ただこうを見て撫で、泣きだした。

「皐。無茶しちゃあ、だめだよ。ああ、指が痛々しい。どうしたらいい? 私はたくさんご飯をいただいたから、次は皐を労りたい」

 善意の欲が、荀偃の口からヘロヘロと出た。はくさま、いいえ、いいえ、と皐が泣きながらむずがる。

 ここで、士匄が理性を蒸発させなかったのは、集中しすぎていたからに他ならない。目の前の茶番で怒り心頭になれぬほど、彼は脳みそを総動員して言上を行っていた。すっと息を吸う。

「君子れ解くことあれば吉なり。小人しょうじんしるすことあり」

 君子は君子と親交すべし、小人がおらぬが良し。

 荀偃が皐を放り投げるように腕から落とした。正確には、皐が弾かれ落ちた。愚鈍な荀偃は、自分がうっかり落としたのだと慌て、皐に駆け寄ろうとしたが、何故か手が止まる。巫覡ふげきがほどこした朱墨の護符が、皐との繋がりより強くなったらしい。つまり、皐と荀偃の夢を介した主従関係に亀裂が入っているのである。

 饕餮とうてつを士匄一人で消すことなどできない。が、饕餮を呼び出したものに責を取って貰えば良い。皐が荀偃から狍鴞ほうきょうを引きはがすか、皐と荀偃の主従関係が消えるか。そうなれば、荀偃の問題は終わる。ついでに皐と狍鴞ほうきょう饕餮も一旦は引くであろう。贄でしかなくなった皐が狍鴞に食い尽くされても、誰も損はしない。巫覡を失った狍鴞も山に帰るだけである。

范叔はんしゅく、私は、私は大丈夫ですから! 皐は私のためを思ってやったんです、許してあげてください!」

 状況がほとんどわかっていないくせに、荀偃が引きつった叫びをあげ、請うた。ここで、皐はじゅん氏の客人である、と言わなかったことが奇跡のようなノロマさである。もし、そのようなことを主張すれば、荀偃と皐の関係は再び強まっていた。が、荀偃は自己主張が下手くそであった。ただ、士匄に詫びて許してあげてと言いつのった。

「あんな、やつらに、あたしの護符、とられ、て。痛ましい、ごめんなさい、あたしが未熟で、伯さまっ」

 主人に助命嘆願される従者ほど悲しいものはない。皐は首を振って、荀偃を止めようと手を伸ばした。が、弾かれて衣さえ触れない。

「――かいは、西南に利あり、往くところなければきたかえって吉なり」

 士匄は静かに言葉を紡いだ。動き進めぬ困難は、解き放たれなければ消えぬ。北山から見て晋は西南。動く必要無ければ、いるべきところに帰るが良い。

「往くところあれば、はやくして吉なり」

 問題あらば、早く動き終わらすが良い。

「往くところ物事、難に終わるべからず、故にこれを受くるに解をもってす」

 士匄は拝礼しなかった。神威あろうが君でなきものにぬかずく理由はなく、法を侵す咎人を許すことはない。貪欲という難を背に乗り込んできた巫女に、士匄は場の解を命じ、要無きもの帰れと言い渡した。それは、私怨でも攻撃でもなく、法と礼に則った宣言であった。饕餮がもたらす陰気は、山神と士氏の巫覡による陽気と拮抗し、天地陰陽、全て中庸ちゅうようである。

 士匄の言上は終わった。終わったはずであったが、するりと口から何かが出てきた。

「天のめいこれせい、性にしたがうこれ道、道を修むるこれ教え。すなわち中庸ちゅうよう、知も愚もあたわず」

 ――何を言った。

 士匄は、唇を噛み切って気を失うのを防いだ。気力を削りに削って、異形どもの重圧にも耐え出し切った言上に、余計なものが何故か足されたのである。閉じた言上がまた開いたと、腹の底が抜けるような怖気が走った。視界に星が降ってくるさまが見える。陽気が閉じるのか、となり、そして。

「星が、流れて、えっと、え」

 趙武が間抜けな声をあげた。

 瘴気しょうきの渦が止まり、重圧がかき消えた。目の前の饕餮も、皐も、まぬけな荀偃もそのままに、星々が空を流れ、動き、光の線が彩っていく。その流れる光から光へ、空から獣が駆け下りてきた。静かに、蹄の音ひとつなく、士匄と、贄として差し出されている趙武の目の前に降り立った。

 羊の体に牛とも馬ともつかぬ顔であった。額に生えた角は一本、真っ直ぐに伸びている。そのふわふわとした毛は何でできているのか。濃く黒い体毛のはずなのに、キラキラと光も風景も反射し、獣は鏡のようにも見えた。――額の角は、今、士匄がかぶっている高祖父の冠にそっくりである。

 一角獣は、全く感情の無い目で士匄と趙武を見て、後ろを向いた。今度は光から光へ駆けのぼり、饕餮の影を見る。小さな羊にとって、大きすぎる饕餮の口は黄泉こうせんへの入り口にも見えたであろう。が、この矮小な一角獣は、臆すようすもなく、その角で饕餮を突いた。音さえしない、わずかな一撃で、饕餮は突き倒され、瘴気ごと消えた。

「……獬豸かいち

 趙武の声が虚ろに響く。

 瑞獣ずいじゅうである。吉祥の獣であり公正の獣、すなわち獬豸。理の無きものを突き倒す、法治そのものを体現したこの獣は、士匄たちにとって伝説上の生き物ではない。饕餮と同じく、いると信じている、しかし異界のものである。

 獬豸は法を尊ぶものが心留めておく獣でもある。ゆえに、法を司るものは獬豸かいちかんという帽子状の冠をかぶる。獬豸と同じ、一本の角を模している。

「じいさんの、『じいさま』か」

 山神をもてなすときも、饕餮が顕れる瞬間でさえ助け船を出さぬくせに、私心私情私欲を全て捨て、法と礼に殉じたと見て手を差し伸べたらしい。口から出た最後の一言は、高祖父の言葉だったのであろう。

 天命にて人が授かったは人性じんせい、人が人性に従うことを人道、人道を修めることを教えという。知恵が過ぎても、足りなくても届かない。

 偏ること無きちゅうを以て常を為す。九刑を以て法を治め礼を示すのであれば中庸たれ。士匄は高祖父の顔をもちろん知らぬ。しかし、祖父である范武子はんぶしが好みそうな言葉では、ある。

 獬豸が荀偃をじっと見たが何もせず、皐を見る。

「いや、ちょっと待って!」

 荀偃が制止しようと手を伸ばすが、もちろん何の甲斐もなく、獬豸は皐を角で突いた。

「い、やああああ、あああああああああっ」

 手かせ足かせを嵌められたような姿勢で暴れ、血まみれの指先を振り回しながら皐が絶叫した。それは痛みではなく、悲痛の叫びであった。

 皐に寄り添うように倒れていた狍鴞ほうきょうが立ち上がり、北へと走りながら影に溶けた。同時に、荀偃からも狍鴞が抜け出て影に消えていった。皐が、それを見て、さらに泣きわめいた。巫覡として主へ義務は果たせず、己の奉ずる神は失われた。矜持と信仰、双方の喪失である。

 気づけば燦々さんさんと陽射強い、夏の空であった。抜けるような蒼穹には、雨期らしく遠くに入道雲が見えた。すでに、山神悪神瑞獣は立ち去り、人の世界が広がっている。

 じりじりと熱せられながら倒れる皐は、死にかけた蝉のようである。それを気遣わしげに撫でる荀偃は、優しいを通り越してお人好しがすぎた。彼は、真相が分かっても皐を庇うに違いない。そういう、先達である、と士匄は弾いた銅剣を引き寄せ掴み、立った。はずみで、高祖父の冠が床に落ちる。

 非礼にも趙武を跨ぎ、士匄は進んで堂を降りる。力強く迷わず、まっすぐと歩きながら銅剣の鞘を抜いた。士氏の巫覡が金、と称するように金色に磨かれた美しい銅剣であった。完全左右対称の文様が細かく飾られている。それは、神獣をかたどった幾何学模様であった。

 士匄は、惨めに倒れ転がっている皐に向かって刃をふりかぶった。荀偃が割って入り、身を呈して庇う。

「やめてください、范叔。皐はもう、充分に罰を受けてます。えっと、罰だって酷い」

 未だ、己がどうなろうとしていたか分かっていない荀偃が、枯れた声で必死に言いつのってくる。士匄は、うるさい! と怒鳴った。それは、猛炎そのものの、焼き尽くすような赫怒かくどに染まっていた。

「わたしは、その女を殺すと決めた。殺したいとずっと、ずっと思っていた。ああ! 一目見たときから、手と足を斬り、はらわた引きずりだして首を刎ね、庭に全て串刺し晒してやると、ずっとそうしたい、そうすると決めていた! あなたは淫祠いんし淫婦いんぷに騙されただけ、哀れな被害者だ、主としたのははかられただけ。そのようなモノ守る務めなければ権限も無い」

 士匄の怒号に荀偃が力なく首を横に振る。ガチガチと歯を震わせていた。それも、虎のように睨み付けられ、止まる。目が泳ぎ、皐を見て、士匄を見て、途方にくれる顔をした。それでも、場を動かなかった。意地ではなく、本当にどうしてよいかわからなくなり、動けなかったのだ。

「……あなたは、わたしが見てなければいつもそう。中行伯はわたしの言うとおりにするがいい」

 怯んだ荀偃が、士匄を茫然と見上げた。その目は虚ろであり、脱力した体は、ぐにゃぐにゃと崩れてへたり込む。その痩せ細った体を士匄は無造作に軽く突き飛ばした。荀偃は、人形のように力なく、倒れた。その姿を確認することなく、今度こそ、剣を振り上げ、刃を落とそうとした。――が、悲しいかな、士匄の動体視力は良く、身体能力も良い。

「やめてください!」

 割って入ってきた趙武に、剣が止まった。己で自傷した足も痛いであろうに必死に走ってきたらしい。この後輩は、強い光を込めて、士匄を睨み付けてきている。美しいご面相が珍しく歪んでいた。

「どけ、趙孟ちょうもう。わたしは氏の嗣子ししとして、この侵入者を殺す。法の下、刑に処す。先達の行いに年下が口を出すな、どけ。お前を傷つけるわけにはいかん、それは筋が通らんからな。つまり、お前の行いも筋が通らん」

 低く唸る士匄に、趙武が強く首を振って、否定を表す。否。間違っている。そして、己の正しさを信じている顔であった。

「筋から申しましょう。未だこの巫女は中行伯の臣です。中行伯が放逐を宣言しない限り、この巫女を処する権限は中行伯にしかありません、たかが士氏の嗣子ていどのあなたには、無い。そして、あなたは獬豸かいちかんを背負うものとして、法に則り罰をつまびらかにし刑を言い放った。この場を解き、帰れ。つまりは責任をとったあと我が国からの追放。それが刑でした。死刑とはされていない。今、あなたは、あなたの立場、言葉を全て裏切っています」

「その女は己で場を解かなかった! 獬豸かいちがおらねば、今も往生際悪くあの貪欲の獣を暴れさせたやもしれん。ここは士氏の邸だ。ここは法の内側であり、そいつは咎人だ。わたしが処刑するのが道理、どけ」

 士匄の言葉に、趙武が軽蔑と哀れみの目を向けた。その顔が士匄の怒りに火をそそいだ。こいつごと、いっそ、となったその時、趙武が、卑しい、と小さく呟いた。士匄は一瞬、何を言われたのか分からなかった。

「筋が通らねば、へりくつですか! いいえ、へりくつも耳が汚れるというものです! あなたは単にこの人を殺したいだけでしょう! 中行伯が酷い目にあって腹がお立ちになった! 中行伯がこの人をいたわって不快だった! 中行伯の隣にいるという顔されて! 妬んだだけじゃあないですか! 自分が! 殺したいだけ! それを筋とか言いいます? ……恥を知っていれば言えませんよ」

 声を張り上げていた趙武が、最後の一言を吐き捨てた。士匄は、半歩だけ後ずさった。

「私を突き飛ばし、この人を殺せば、あなたは一生卑怯な恥知らずとして惨めに生きる。ちょう氏のおさとして申します、そうならば范叔の終わりは良くない。皆、背を向け、前にも進めず後ろにも退けず、よどんで終わるのみ」

 趙武の言葉が終わると同時に、蝉の鳴き声がつんざくよう耳に鳴り響いた。今、鳴き始めたわけではない。ずっと聞こえてなかっただけである。

 士匄は、腕を力なく降ろし、銅剣を手放した。するりと落ちた剣は、カラン、と金属らしい音を立てて土に転がった。少し虚ろな目を荀偃に向けると、

「我が手勢に馬車を用意させる。少し手当したら、その巫女と共にお戻りになられるがいい。……お父上には、ご自分でご説明願いたい」

 と、ぽつぽつと言った。荀偃が、ゆっくりと身を起こし、大仰にため息をつく。えっと、その、と、もごもご呟いたあと、士匄を見上げた。

「あー、えっと。よろしいのですか? 皐と帰って。あれ、父上に何を説明……」

 いまだとんまなことを言う荀偃に、士匄は眩暈めまいをおこしかけた。そして同時に、気分が良くなった。

「そ、う、だな。僭越せんえつながらわたしがお父上にご説明しよう、中行伯は横で座っておられるだけでよい。やはり、あなたはわたしがおらねば――」

「伯さま。今度のことはあたしの夢から始まったことです。あたしがきちんと全て、お話しします。その上で、伯さまがあたしの処分をお決め下さい。主の望みを叶えられなかった巫覡の罪を、伯さまが裁いて下さい」

 懲りない士匄を遮り、皐が荀偃に訴えた。荀偃は士匄に圧迫され怯える小動物であるが、特技は士匄の言葉を聞き流すことである。この時も、士匄の口上を全て聞き流し、皐の言葉に頷いた。

「それでは范叔。馬車の用意をお願いしますね。えっと、手当をしてくれる……んですね。良かったね、皐。その指もきっと治るよ」

 荀偃が皐の手を取り、いたわるように撫でた。皐は、頬を染めていた。士匄は、威勢も怒りも何もかも吹き飛び、ただ不快だけで彩られた顔を荀偃に向けた。

「あなたが自分をいたわってくれ、頼むから」

 吐き捨てるように言うと、誰か来い、と邸に向かって怒鳴った。

 士氏の臣や小者は優秀である。士匄が呼びつければ、すぐさま参じ、荀偃や皐を連れて去っていった。馬車の用意もさっさと終わらせるであろう。そのさまを見届けた士匄は、荀偃の姿がいなくなったとたん、どっと疲れが来て、地にへたり込んだ。立とうとしたが、腰が抜けたように力が入らない。寿命を削られた後、徹夜で荀偃に心を砕き、山神さんしんを呼ぶために願い奉り、その上、饕餮とうてつと対峙して退かず言上で乗り切ったのである。偶然に近い手助けがあったとしても、心身共に疲労の域をとうに超えている。

「中行伯の前で力を抜かないあたり、いっそ怖いです」

 趙武が横に立ち、見下ろして言った。

「うるさい! あの御仁はわたしが支えてようやっと立っておられる。わたしが倒れるわけにはいかん」

 幼少のころから、グズでノロマであった荀偃を思い出しながら士匄は強く返した。趙武が肩をすくめたあと、空を見上げる。

「……日輪は私たちを照らし恵みと恐怖を与える、まさに陽そのものです。今もじりじり暑くて、焼け焦げそうですね。月は優しく照らしてくれます。でもその安らぎは死者のもたらすものだと思うのです。月は死んで生まれ変わる。つまり死から始まる。まさにいん

「何が言いたい。ぐだぐだ遠回しな」

 空を見上げる趙武を見て、士匄は眉をしかめた。趙武はふり返らず、天に手を伸ばす。血に染まったままの袖が、青空に映えた。

「星は、心を思い起こします。情というわけではなく、夢。望み、欲。こいねがう心。掴めない願いです。獬豸かいちが星の光をたぐって駆けてこられた。そうして、いなくなれば星が消えていた。獬豸は星を狩りに来たみたいだなあって、今、思ったんです。私たちの欲を全部ばくばく食べちゃった。届かない願いはずっと届かないって、星を狩っていきました。星狩りですね」

 えらく、美しく言葉を終わらせた趙武が、士匄を見て、照れくさそうに頬を染めた。士匄は呆れ、バカにした顔で見上げる。

「オヤジの駄洒落か。お前は弁のセンスが無いな」

 欲しがり、星狩り。言われ、趙武はさらに頬を染めた。上手いこと言ったつもりであった。が、彼はそのまま小さくなるような男ではない。見た目は嫋々としてようが、中身は骨太である。そして、でもあった。

「……先達に申し上げるのもはばかると思っておりましたが、申し上げます。あのね。中行伯はあなたがいなくても、なんとか生きていくと思います。あなたがいなくなっても生きていけますよ、きっと」

 趙武の言葉に、士匄は、はあ? と大きく声をあげた。あの、グズのろまとんまの鈍くさく、すぐキャパオーバーする優柔不断の荀偃が、士匄無しに生きていられるわけがないだろう。この後輩はわかっていない、と士匄は懇切丁寧に、十数年以上積み上げられた過去の事例を以て説明してやった。趙武はいちいち頷き、全て聞いた後、僭越ですが、と再び口を開いた。

「中行伯がいなくなって、生きていけないのはあなたです」

 笑顔で断言したあと、士匄の反論も聞かずに、趙武は足を引きずりながら去っていった。手を伸ばし頼ることは悪くないが、頼りっぱなしにするのは、もう止めようと趙武は笑った。士匄がどうするかは、まあ士匄の自由であろう。

 趙武の言葉に、頭脳明晰な士匄は首をひねり、

「なんだそれは」

 と本気で呟いた。

 じりじりと日が照らす真夏の熱気の中、士匄は少し考えたが、意味が分からず、脳内のゴミ箱に捨てた。暑すぎて何もかもがどうでも良い。地の底に落ちてくような疲れの中、士匄は空を見上げた。真っ青な空に、太陽の光が眩しく輝いていた。

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