あまりに大きな情報が瞬間でぶつけられると、人の五感はバカになるらしい。
「が……っ」
士匄はぐらついたが、床を叩くように片手で支え、崩れ落ちるのを耐えた。
欲しい、全て欲しい。
飢えと渇きが身も心も喰らい尽くしていくようであった。食べよう。宝を女を手に入れよう。称賛されたい。権力を我が手に。ありとあらゆるものを欲しいままに貪る。
激痛と共に、口の中をわずかな血の味が広がっていく。同時に、視界が少しずつ開けてゆき、太陽の照りつける『夜』の中、巫女が手先から血をまき散らせながら踊っているのが見えた。土を何度も踏みしめ跳ね、腕を掲げて回っている。
饕餮は全てを具現化していない。瘴気の渦から上半身だけをもたげ、
「……場は
してやる、と口に出した瞬間に、士匄の心が殺意に染まった。あの女を殺し、その屍体を辱めたいという欲があふれ出る。獣欲にも似た衝動そのままに手元の銅剣を引き寄せ、立ち上がろうとした。
その腕を、掴まれ、引っ張られる。全体重を乗せたように強く押さえつけられた。
士匄は、この後輩を失念していたことに気づいた。これは士匄よりも耐性が弱い。きっと何らかの欲にかられているのであろう。もしかすると士匄を食おうとしているのであろうか。そのようなことより、目の前の女を殺したい、と士匄はふりほどこうとした。
「ダメです! その剣は身を守るものとしてあるのでしょう! 獣を遠ざける金ではないのですか、お気を確かに、
趙武が、悲鳴のような声で叫んだ。彼は、欲望の奔流の中で、正気を保っていた。士匄は、銅剣から手を離し、目を見開いて趙武を見た。引きつった笑みは、安心させようとしているようであった。額に汗を浮き立たせ、目は潤んでいるようであり少し充血している。すがりついてくる腕の片方は、血が流れ出て衣を赤く染めていた。床に、贄を
「
士匄は腕の刺し傷を凝視しながら呟く。それなりに深いのであろう、血が衣にどんどん広がっている。――傷というものは、よろしくない。祖からの体を傷つけるは不孝、死後もその傷が残り続ける不幸。とっさに持っている麻布を裂き、趙武の腕を縛った。応急処置である。士匄は一息つくと、
「バカヤロウ!」
と反射で怒鳴った。
「己で己の体を傷つけるとは、お前は
状況にそぐわないが、先達の
「見えぬ場所です、戦であれば、傷つくことございましょう!」
痛みで苦しいのであろう、掠れたような怒鳴り声であった。士匄の動きが止まっても、趙武は腕にしがみつき、身を離そうとしない。
「今は戦なのだと士氏の
は、と趙武が息を吐いた。地の底から吹いてきたような息であった。
「私は、弱い人間だから、こんなことしても、無駄かもしれない」
掴んでいた趙武が寄りかかってくる。士匄はそれを受け止め、その背後を見た。瘴気が渦巻き寄り集まり、男の影を作っていた。下は腰まで、指先からは腕まで表れ優しく撫でようと右手が伸びている。顔は――。顔は、目鼻はまだ、形作られていない。しかし、頬骨が目立つ、しっかりした輪郭が表れ、男らしい口元が柔らかく笑んでいた。
まるで、よくがんばったな、とねぎらうような、父親の笑みである。
趙武が、怯え焦った顔をしながら、床に目をやり、短剣に手を伸ばそうとした。士匄はその腕を掴んで止めた。
「これくらいだと、止まらないです! もっと傷を!」
「自傷の欲に引っ張られるな!」
士匄の怒声に、趙武が止まった。一つの欲から目を背けば、別の欲をご用意される。人の心は欲と切り離せぬ。饕餮はただ、己の権能をまき散らしているだけであり、士匄たちに何も働きかけてなどいない。そこにあるだけで、欲を膨らませ、そして貪り食うのであろう。
このままでは、趙武は狂う。否、士匄も狂い、
「みんな、くいつくせ! 食えば勝ち、食われれば負け!」
皐が笑いながら、勝利の雄叫びをあげた。それは託宣にも似ていた。士匄は、欲も何もかもが消え、いいようのない、怒りと不快で心が赤くなった。
「淫祠の乞食女ひとりで、くそ迷惑な!」
士匄は無造作に趙武の首根っこをつかむと、己の真ん前に引きずり出し、押さえつけた。趙武が、驚きすぎて、ぽかんとした顔で、固まる。元々、饕餮の圧力に抵抗するだけで精一杯であるところに、士匄の狼藉である。処理が全く追いついていない。
「……
水底から響くような声が、士匄の口から紡がれていく。趙武の足から流れる血を、指にすりつけ、士匄は己の唇に塗った。
「この場、北の山々、我が国より北東の方々がお越しになられ、前に
士匄の言上に、趙武は一気に蒼白となった。士匄の銅剣で足を斬られる、と起き上がろうとしたが、その頭を床に押しつけられる。
「趙は歩み遅けれど、越えていくもの。小さきものであるが、
押さえつけていた趙武がおとなしくなった。彼は士匄が害せぬと気づいたようであった。士匄はようやく、姿勢を正しいものとし、息を吸って吐いた。前座だけでとんでもなく、しんどい。二首山神が顕現したときの加護はギリギリ効いている。しかし、本体そのものが、もたない。これ以上は引き留められない。儀に則って帰さねば祟りはそちらからも振ってくる。ゆえに、きちんと帰した上で、饕餮の影、たったひとかけらを消さねばならない。そう、冷静に考えながら、士匄の腹の底は憤怒で煮えくりかえっていた。
淫祠の巫女にしても、
――身分不相応というものだ
士匄は、言上の最中で無ければ、そう吐き捨てたであろう。
おおよそ、君主は北を背に南を見る。臣は南からやってきて拝謁する。腹立たしいことに、士匄たちは臣の位置にて出迎えるはめになっており、分が悪い。しかし、はいそうですか、と饕餮を君主と仮託し、儀を行うことなどできぬ。陽を食い尽くすようなものが、陽に向かう場所にいることが間違いである。つまり、
「改めて名乗りを上げる。この場を任されている
そもそも、
彼は、怒りのあまり、饕餮に攻撃をしかけているのである。正気の沙汰ではない。
「
手元に置いていた銅剣を手で弾いて遠ざける。賢人を呼び集めるなら、武はいらぬ。
「四凶の族を流し、
法の下に罪人は全て世の果てへ流し、害を防ぐべし。
饕餮がこの程度でひるむか。むろん、ひるむことなどなく、陰気を深めながら己の欲しいままに貪ろうと音も無く吼えた。実体でない異形は声も出せぬらしい。が、その圧は凄まじく、骨が軋み折れそうな重さが襲った。
「くあああああああああああっ」
趙武が身を丸め、床を掻きむしりながら叫んだ。根性のある彼は、甘美の夢想にも自傷の欲求にも耐えながら、気が狂わんばかりに咆吼をあげている。贄の場所から逃げださぬのは上出来だ、と士匄は内心褒めながら言上を続けた。
「
良からぬものとの交友を断てば良き友の信頼を得る。
「我が儀を礼を、恵の礼を以てお返しいただくこと、わたしの喜びといたす。我らもはや
饕餮のもたらす
「大凶徳、常に刑ありて許すこと無し、
九刑はこの中原、
「こ、の! あんたなんかにぃ!」
皐という女――少女にも近い、この巫女は、士匄が何故邪魔をするかなどわからぬ。ただ、権威権力を以て皐の善意を
確かに、士匄の皐を見る目は、侮蔑そのものであった。彼女の言葉ひとつも、尊ぶに値せぬと思ってもいた。
が、ことここにあたって、そのようなことを思うことも考えることも、士匄はしなかった。それどころではないからである。この場にいるのは、士氏という法と礼を尊ぶ家の嗣子と、法を犯した礼知らぬ咎人のみである。法に侮蔑も憤怒も憎悪も邪魔であった。情を越え理の先に礼がある。
「
能も無いのに高位につくは姦をひきよせるのみ、その心正しくとも分不相応は羞じよ。
ぐふ、と腹でも踏みつけられたかのような声をあげたあと、皐がゲホゲホと嘔吐した。
「ぎゃあああああああああああああっ」
皐が激痛に悲鳴をあげた。饕餮の
人面の羊は皐に近づくにつれ、人となった。やせこけた骨と皮ばかりの男が、皐の傍で座り込み、かかえ上げて抱きしめる。――荀偃であった。