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第19話 物を開き務めを成す、成功するには準備と計画が大事!

 巫覡ふげきがどのような構成、手順、様式、技術を使ったかなど、士匄しかいにはわからぬし、どうでもよい。眼前で様々行われたが、要は荀偃じゅんえんを助けられれば良い。巫覡の言うとおり、獣化の進行は食いとめられ、士匄から見ても人間に戻った。骨と皮と筋であるのは仕方がないが、幾つも埋められていた石は取り払われ、清潔な布が巻かれている。その布の隙間からは、朱墨による文字が見えるが、何を意味するのか士匄にはわからない。

 一晩、巫覡は荀偃にかかりきりとなった。士匄は眠らずに見続けた。趙武ちょうぶもつきあっていたが、うとうとし、寝入ってしまった。士匄は寝具を用意することもなく、放置した。まあ夏であるため、風邪は引かなかったであろうが、不人情極まりない。

 ――太陽のぼりて万物照らせば、君子くんしの時を明君めいくんに会えるが如し。百鬼闇夜ひゃっきあんや佞人闇主ねいじんあんしゅ それようは徳に勝たずと言えり――。つまり、夜が明けた。趙武が体内時間通りに起きて恥じ入り、

「若輩の身でありながら不作法、怠慢をお許し下さい」

 と謝った。士匄は、ああうん、と生返事である。後輩が疲れて寝たのだから勝手に眠ればよい。温情ではなく、趙武が起きようが寝ようが役に立たぬと、放置してたのである。それは趙武もわかっているため、余計に情けなかった。

 寝不足で目がぎらついた士匄に巫覡が伏して言う。巫覡は徹夜も何もなかったようにケロリとしていた。

「我が主の子よ、嗣子ししに申し上げる。めいに従い、じゅん氏の嗣子をとりあえずはきよめましてございます。しかし、狍鴞ほうきょうが祓えたわけではございません。こちらのうちに潜伏しております。こんはいまだ侵されず、はくは侵されかかったところを押しとどめたにすぎず。はくが侵されればこんがそのままでも戻りませぬ。あなたがこの方に人の道をお与えになるなら時間がない。あわれみをお与えになるなら、『きん』をお使いすることお薦めする、一時の感情で動いているのなら害あって一利ございません」

 魂は精神、魄は肉体をつかさどるたましいである。肉体が獣になれば人の心を持っていても元に戻らない、時間は無い。そのように言上した上で

 勢いで動いた考えなし、迷惑、同情しているなら銅剣で殺してやれ

 と巫覡は士匄に言ったのである。もちろん、士匄はおおいに気を悪くし、唾を床に吐いた。巫覡に対して吐かなかったのは、ギリギリの節度らしい。

 共に座している趙武が厳しい顔を巫覡に向けた。これら、と天の声を聞く者どもは、卜占ぼくせん史官しかんと同じくシステムの信奉者である。卜占が占い、史官が記録を至上とするように、巫覡は祀りというシステムを至上としており、そのためには主筋にも厳しい物言いをする。それはわかるが、あまりに社会の理と人の情に対して鈍感すぎた。こういったものは、時に人を蒙昧もうまいにする、とさえ趙武は思った。

范叔はんしゅく中行伯ちゅうこうはくはひとまず息をついた様子。医者に診せ、お食事の件もご相談すること、いかがでしょうか。そして問題の巫女です。その淫祠いんしが善意か悪意かは存じ上げませぬが、放置しておけば中行伯の身は再び危なくなるのは必定。止めねばなりません。……止めます、よね?」

 巫女の呪術か何か。それをやめさせるのかと念押しする趙武に、士匄は頷き声を上げた。

「あったりまえだろうが。他に選択の余地などない。巫女を押さえつけ、何がなんでもやめさせる。そのクソ女の処置はそのあとすれば良い」

「それでは、荀氏の邸に伺ってお取り次ぎいただくということで、よろしいでしょうか?」

 趙武が言葉を継いで、話を続けた。士匄は、即答しなかった。

 それは不可能である、という理がまず出る。

 荀偃を連れて通すならともかく、たかが氏の小せがれと、ほとんど縁の無いちょう氏のおさがそろって訪ね、

『そちらで食客しょっかくになっている巫女を引き渡せ』

 などと言っても、取り次ぎどころか、門の中にも入れてもらえぬであろう。無理押しすれば、士匄たちこそ礼と法を破ることとなる。手順を踏み、儀礼を以て理由を言わば、許されるであろうが、まごまごしていれば荀偃は取り返しのつかない域へ達するにちがいない。

「おい。中行伯を祓ったこと、くだんの巫女には伝わっているのか?」

 士匄は趙武の問いに答えず、巫覡へ向かった。巫覡はもちろんでしょう、と答える。士匄はなおも問う。

「……改めて聞くが、この邸の護りは強いと言っていいな? 我が邸中央には祖を祀るくすのきがあり、お前は常に祖を祀り、我らも毎朝ご挨拶している。東西南北の棟、儀によって滞りなく建てている。我が士氏はん家の本拠である范邑はんゆうほどでなくとも堅牢であると」

 巫覡のいらえは、当然です、であった。彼の自信がみてとれる態度であった。怪訝な顔を浮かべる趙武に向き直ると、士匄は口を開いた。

「我らけいになるものが、たかが淫祠の巫女を訪ねるなど、軽重が疑われる。その巫女を呼びつけるが本式。そいつにはここに来てもらう」

 は!? と趙武と巫覡が同時に言った。

「どうやってですか!」

 趙武がもっともな疑問を叫んだ。士匄はこともなげに

「そちらの嗣子、中行伯を当家で預かっている。この嗣子、身に余る力を手に入れようと淫祠を使った疑いあり。荀氏当主は上軍じょうぐんの将であり、それを支える上軍の、法制の士氏としては見過ごすわけにはいかぬゆえ、捕らえしばらく滞在していただくこと勝手ながら取り決めた。この力手放すことなければ、嗣子は廃嫡となり地に還ろう。この件に関し差配したものあらば早急に申し出ること肝要、無ければ我らとしても他に手立て無し。差配したもの隠し立てするならば、荀氏の終わり良くない。まあ、こういったことを知らせる。中行伯を真に憂えている巫女であらば、すっとんでくる。逃げようとするならば、荀氏全てでひっつかまえ、連れてくるだろうよ」

「……もし、巫女が逃げおおせ、荀氏が知らぬ存ぜぬを通せばどうなります」

 緊張に満ちた声で趙武が指摘した。士匄は一拍置いたあと、

「そうならば、中行伯は山に逃すしかあるまいよ」

 と、無表情に呟いた。そのやりとりに首を振ったのは巫覡である。この壮年の男は困惑を隠さない。

「その巫女は不祥のものに等しい。そのようなものを、この邸に入れ、なんとなさいます。凶でしかありますまい」

 士匄が、巫覡を手で制して睨み付けた。縄張りを侵された虎のような目つきであった。

「なんとかする、そしてしろ。これは決定だ。祖が結んだ交誼こうぎである。それを、このようなしょうもないことで放りだし、不義非礼のものとなりはてるは、我らも獣になると同じと知れ。中行伯はわたしの大切な玩……友人だ」

 おもちゃってマジ言いそうになった、と趙武は思った。ここまでキメておいてなんて残念な人だろう、とも思った。

「……かしこまりてございます。ところで、請いますか、脅しますか」

「恫喝に決まっている」

 巫覡は、士匄の命に頷き、下がっていった。趙武がさすがに察する。

のろいごと使いを送りますか。使いのものがおかわいそうではありませぬか」

 趙武の言葉に、士匄が呆れた顔をした。この青年は、選民主義者であり、なおかつ傲岸で利己主義である。心底バカにした笑みに少々の嗜虐しぎゃくを乗せて返してやる。

「人選は巫覡だ。そのための贄は常にあろうよ。趙氏の長は人の持ち物にまであわれみを施される、それはまあ仁深きことであり、民のためになろう。まあ、そのあわれみが緩い堤防を壊し、氾濫し、多くの民が溺れる場合もあるゆえ、ほどほどに」

 浅はかなおせっかいなど、害だ、と侮蔑したのである。趙武が、不快をおもいきりあらわにしたが、

「先達のお言葉、訓戒といたします」

 と、しずしずと拝礼した。むろん、全く納得していない。士氏の奴隷、贄は士氏の財産でありどのように使おうがご自由に。それは理として正しい。が、趙武は素直に嫌だと思った。趙武は人が死ぬのは、どのような身分であれ嫌であった。春の、士匄や荀罃じゅんおうが『素衣素冠そいそかんの男』を殺すことが理と言ったことも、分かりはするが納得できない。人は死ねばそれまでなのだ。失われれば取り返しはつかぬ。趙武は人権を考えたわけではない。ただ、好みではなかった。――はるか将来、彼は最大勢力敵国との恒久和平条約にこぎつける宰相となるが、ここでは語らない。

 さて、巫覡の送った使者である。相手に対する強制のじゅを仕込み、荀氏中行ちゅうこう家の門前から口頭で伝えさせる。その門構えは卿を歴任しただけに士氏に遜色ないほど堂々でありながら、どこか柔らかさも感じるものであった。邸をぐるりと囲む土壁は塗り固められ、欠けや歪みひとつ無い。誠実さが伝わるような風格であった。

 その誠実さは、素直さであり、まあ疑うということを知らぬらしい。強制の咒を込めた言上は、するりと通り、荀氏はぽいっと問題の巫女を門の外へ放りだした。これは士氏の巫覡が強いのか、荀氏が抵抗しなさすぎるのか、わからない。

 巫女、つまりこうは、士匄の恫喝を真っ正面から受け取った。禽獣のような目つきで使者を睨み付け、憤怒の具現と化していた。山霊さんれいの力を強くとりこむため、己に文様を施し、人を捨てた仮面をつけている。一歩一歩進むたびに、地が霊力に怯え、焦げた。

はくさまを返せえええ!」

 ガアアアッとわしの鳴き声のように叫んだとたん、咒ごと使いのものは破裂し、血肉を地にまき散らした。その不浄の肉塊を踏みつけ、歩き出す。荀偃のにおいの元をたどれば、場所などわかる。皐が祀る山、それを護る獣は荀偃の望みを叶えるものである。すなわち、欲するものすべて食う。生きることは食うことであり、食いつくすことは勝つことであった。勝たねば、死ぬ。それが世界である。

 皐は、荀偃を夢に見た。全く縁の無い人であったが、啓示あらば、それは主であり、責がある。なんとしても、彼を祝福し、喜びを与えねばならぬ。

「ちょっと、遠い……」

 眉をしかめ、低く唸る。遠いと言うがせいぜい古代の一都市である。たいした距離ではない。しかし、皐は一も二も無く、疾く早く、すぐにでも駆けつけたい。ふところから干し肉を出し、食いちぎって嚥下する。はるか南の山霊を祀る巫覡から分けてもらった、狌狌しょうじょうの肉である。この、大型の猿に似た獣は、食うとよく走ると言われている。

 皐は、常人ではありえない速さで走り出し、憎き士匄の邸へ駆けていった。

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