一晩、巫覡は荀偃にかかりきりとなった。士匄は眠らずに見続けた。
――太陽のぼりて万物照らせば、
「若輩の身でありながら不作法、怠慢をお許し下さい」
と謝った。士匄は、ああうん、と生返事である。後輩が疲れて寝たのだから勝手に眠ればよい。温情ではなく、趙武が起きようが寝ようが役に立たぬと、放置してたのである。それは趙武もわかっているため、余計に情けなかった。
寝不足で目がぎらついた士匄に巫覡が伏して言う。巫覡は徹夜も何もなかったようにケロリとしていた。
「我が主の子よ、
魂は精神、魄は肉体をつかさどるたましいである。肉体が獣になれば人の心を持っていても元に戻らない、時間は無い。そのように言上した上で
勢いで動いた考えなし、迷惑、同情しているなら銅剣で殺してやれ
と巫覡は士匄に言ったのである。もちろん、士匄はおおいに気を悪くし、唾を床に吐いた。巫覡に対して吐かなかったのは、ギリギリの節度らしい。
共に座している趙武が厳しい顔を巫覡に向けた。これら、
「
巫女の呪術か何か。それをやめさせるのかと念押しする趙武に、士匄は頷き声を上げた。
「あったりまえだろうが。他に選択の余地などない。巫女を押さえつけ、何がなんでもやめさせる。そのクソ女の処置はそのあとすれば良い」
「それでは、荀氏の邸に伺ってお取り次ぎいただくということで、よろしいでしょうか?」
趙武が言葉を継いで、話を続けた。士匄は、即答しなかった。
それは不可能である、という理がまず出る。
荀偃を連れて通すならともかく、たかが
『そちらで
などと言っても、取り次ぎどころか、門の中にも入れてもらえぬであろう。無理押しすれば、士匄たちこそ礼と法を破ることとなる。手順を踏み、儀礼を以て理由を言わば、許されるであろうが、まごまごしていれば荀偃は取り返しのつかない域へ達するにちがいない。
「おい。中行伯を祓ったこと、くだんの巫女には伝わっているのか?」
士匄は趙武の問いに答えず、巫覡へ向かった。巫覡はもちろんでしょう、と答える。士匄はなおも問う。
「……改めて聞くが、この邸の護りは強いと言っていいな? 我が邸中央には祖を祀る
巫覡のいらえは、当然です、であった。彼の自信がみてとれる態度であった。怪訝な顔を浮かべる趙武に向き直ると、士匄は口を開いた。
「我ら
は!? と趙武と巫覡が同時に言った。
「どうやってですか!」
趙武がもっともな疑問を叫んだ。士匄はこともなげに
「そちらの嗣子、中行伯を当家で預かっている。この嗣子、身に余る力を手に入れようと淫祠を使った疑いあり。荀氏当主は
「……もし、巫女が逃げおおせ、荀氏が知らぬ存ぜぬを通せばどうなります」
緊張に満ちた声で趙武が指摘した。士匄は一拍置いたあと、
「そうならば、中行伯は山に逃すしかあるまいよ」
と、無表情に呟いた。そのやりとりに首を振ったのは巫覡である。この壮年の男は困惑を隠さない。
「その巫女は不祥のものに等しい。そのようなものを、この邸に入れ、なんとなさいます。凶でしかありますまい」
士匄が、巫覡を手で制して睨み付けた。縄張りを侵された虎のような目つきであった。
「なんとかする、そしてしろ。これは決定だ。祖が結んだ
おもちゃってマジ言いそうになった、と趙武は思った。ここまでキメておいてなんて残念な人だろう、とも思った。
「……かしこまりてございます。ところで、請いますか、脅しますか」
「恫喝に決まっている」
巫覡は、士匄の命に頷き、下がっていった。趙武がさすがに察する。
「
趙武の言葉に、士匄が呆れた顔をした。この青年は、選民主義者であり、なおかつ傲岸で利己主義である。心底バカにした笑みに少々の
「人選は巫覡だ。そのための贄は常にあろうよ。趙氏の長は人の持ち物にまであわれみを施される、それはまあ仁深きことであり、民のためになろう。まあ、そのあわれみが緩い堤防を壊し、氾濫し、多くの民が溺れる場合もあるゆえ、ほどほどに」
浅はかなおせっかいなど、害だ、と侮蔑したのである。趙武が、不快をおもいきりあらわにしたが、
「先達のお言葉、訓戒といたします」
と、しずしずと拝礼した。むろん、全く納得していない。士氏の奴隷、贄は士氏の財産でありどのように使おうがご自由に。それは理として正しい。が、趙武は素直に嫌だと思った。趙武は人が死ぬのは、どのような身分であれ嫌であった。春の、士匄や
さて、巫覡の送った使者である。相手に対する強制の
その誠実さは、素直さであり、まあ疑うということを知らぬらしい。強制の咒を込めた言上は、するりと通り、荀氏はぽいっと問題の巫女を門の外へ放りだした。これは士氏の巫覡が強いのか、荀氏が抵抗しなさすぎるのか、わからない。
巫女、つまり
「
ガアアアッと
皐は、荀偃を夢に見た。全く縁の無い人であったが、啓示あらば、それは主であり、責がある。なんとしても、彼を祝福し、喜びを与えねばならぬ。
「ちょっと、遠い……」
眉をしかめ、低く唸る。遠いと言うがせいぜい古代の一都市である。たいした距離ではない。しかし、皐は一も二も無く、疾く早く、すぐにでも駆けつけたい。ふところから干し肉を出し、食いちぎって嚥下する。はるか南の山霊を祀る巫覡から分けてもらった、
皐は、常人ではありえない速さで走り出し、憎き士匄の邸へ駆けていった。