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第15話 斅うるは学ぶの半ば、人に教えると自分も学ぶ一挙両得。

「全ての事象はひとつのことになりたっているわけではない。滅んだものに因が重いこともあれば、そうでないこともある。わたしはお前の一族のいざこざなど、たいして知らんから、本質の話はできん。が、お前を教え導けと命じられている立場だ、問いには答える。ちょう氏は間抜けでもあったろうし、驕慢でもあったろう。が、わたしが思うに、あれはむさぼった、であろう。お前の父が嗣子ししから氏族のおさになったが、大叔父どもにも大きく領地をわけられ、そのうち一人は高い身分を与えられている。当時、趙氏には三人も『顔』があり、それを当然として政事軍事の場に来ていた。己の地位、立場を深く考えず、貪っていたのだ。お前の父は言いがかりの讒言ざんげんで滅ぼされたと聞く。人柄を悪く言うものはいないが、誰も助けなかった。国人みな、貪りをどこか感じていたのではないか。大叔父たちはお前の父を助けず、この世の春とあからさまに貪った。貪りというものの怖さは際限の無さだ。いくら食っても満足を得られず飢えている。また、それを己の力で満たそうとせず他者に依存する。そのようなものどもは、大きな失態をしなくとも人が遠のくものだ、食われたくないからな。お前の大叔父たちも確か讒言で滅んだが、誰も助けなかった。が、お前は誰も何も貪っておらん。ゆえに、みな助けたのであろうよ。趙氏が消え、小者が肥え太れば我らけいの一族としても理に合わず利が無い。これは、わたしの印象、抽象、イメージで言っている。お前の一族は才と行いがちぐはぐ、と見えるほどのことをしておらぬ。ぼんやりと滅んだ。君公くんこうにとって公室の国庫を潤すカモだったのかもしれんが、目についたのは貪っていたからであろう」

 士匄しかいの、イメージだと言うには明確な言葉に、趙武ちょうぶはゆるく笑んで頷いた。

「全くお優しい言葉ひとつもございませんが、何やら、得心するものありまして、勝手ながら安心してしまいました。そうですね、貪ったというのは正しい気がします。范叔はんしゅくがご存じないようですので申し上げますが、大叔父を讒言したのは、私の母です。そう、公室から嫁がれたのが私の母なのですけど。范叔は大叔父を二人と数えてますが、実は三人おりました。一人、あまりお方で、我が父の死後、母と密通なされておりました。他の大叔父が外聞が悪いと晋から追い払ったのです。母は愛しい男を奪われたと逆上し、兄である君公に反乱を企てていると讒言したそうですよ。貪って、また貪り返し、他者から奪うことしか考えぬから滅びかけた。私も他者を貪って生きておりますが、范叔のお言葉を訓戒に度を超さず研鑽し、慎ましやかさをうちに溶かして己の自信を見つけようと思います」

 士匄は、うっわ、きっも、という言葉をきちんと飲み込んだ自分を称賛したくなった。士匄は個人のありかたではなく、抽象的な集団のありかたを言ったのであるが、趙武はそれを己の都合良く受け取り、ついでにトラウマをご披露してくださる。未成熟の現れであろう。趙武の周囲に、趙氏の内部を悪く言うものはおるまい。聞くにあまりに繊細であるからだ。そうなれば、趙武も悪く言えぬ。周囲の善意によって立ち直った趙氏の長としては、淡い父親へも強欲な大叔父たちにも、そして不貞の母親に対しても、恨み言ひとつ言えなかったのであろう。しかし、それが今、じわりと放流された。厳しい家だが何不自由なく育ったぼんぼんの士匄としては、その怨嗟は気持ち悪い、と思うしかない。

 まあ、それで、やる気がでるならいいか、と士匄は嫌悪をさっと放りだして思い直した。切りかえの早さは士匄の長所のひとつである。

「今は頭で分かった気になっているだけだ、これから身に溶かせ。人は欲を覚える。欲しがるということは、悪いことではない。生きるということは欲を持つことだ」

「范叔は強欲ですからね、そう思わないと生きていけませんね」

 趙武のツッコミは容赦が無い。士匄は苦々しさを隠さず、うるさい、と吐き捨てる。

「混ぜっ返すな。欲がなければ生きる意味などあるか。欲しいものを手に入れて何が悪い。しかし、それに振り回され貪るようであれば、滅びる。その欲をコントロールするものこそ、己が己であるという自信だ。自信無きものが、あれもこれもと手をだし功績をあげようとする、欲のままに手を伸ばし肥え太ろうとする、それが貪るというものであり、一歩踏み入れれば危うく、最後には終わり良くない。あー、だから、今の中行伯ちゅうこうはくは、危ういのだ。わたしが手を引かねば歩けぬ御仁だぞ! そうわたしの! 横におらねば! いつも失敗なされていた! いくら女がアゲマンでもそうそう上手くいくわけなかろう」

 最終的に、話が入り口に戻り、趙武は顔を引きつらせた。どれだけ、荀偃じゅんえんが好きなのだこの人は、と呆れる思いである。友情というより、ペットを愛でるものに近い。酷い友愛であった。

「きっかけがアゲマンでも能力があがり学びも食事も進んでおられる。范叔は中行伯がお相手してくださらないと寂しいって拗ねてらっしゃいますけど、良いことだと思います。危なっかしいところ、足りぬところをお支えになればよろしいじゃないですか。それが先達を支える若輩、上席を支える下席の役目というものでしょう」

 平気で、アゲマンなどという性的スラングを趙武は言い放つ。前話までもそうなのだが、趙武は己自身の性や女、恋愛に関してきわめて未成熟でおぼこのくせに、性消費にでもありそうな生々しい言葉を口にする。士匄の霊感体質を、毎日受け入れるユルユル、などと罵倒したのもそれである。そのちぐはぐの一旦は、どうも母親への屈折らしい、と士匄は思ったが、同時にどうでも良いと思った。それよりも、趙武が正論でつっこんできたほうに辟易した。きっかけがどうであれ、荀偃がやる気を出しているのであれば、補佐するのが士匄の立ち位置である。おもしろくなくて当てこすりからかい、躱されていたのは認めざるを得ない。

「あ!」

 いきなり趙武が声をあげた。士匄は、なんだ、と反射で問うた。

「いえ。最近の中行伯は、食事が美味しい、たくさん食べることができると喜んでおられます。実際、時々おこなう食事の儀礼の学びで、きれいに召し上がっておられます。以前は、咀嚼するのもゆっくりの方でしたから、それはまあ、良いこと……なのですが。違和感で」

「何が」

 だらだらと結論が迷子になるように話しだす趙武に、士匄はいらつきを隠さず、促した。趙武がその言葉に気を悪くした様子もなく、頷く。

「えっと、違和感。えっと。あ。あ。シュッとされた、と思ってた、んです、が。痩せてきてませんか」

 よく食べると言うわりに、別に体が鍛えられた様子もなく、ただ、どこかおかしくて、違和感があったんです。そう己の記憶をたぐるように呟いたあと、趙武が士匄をまっすぐ見てくる。

「今日、変だな、て思って。そうだ、肌の色も悪く、痩せているというより――やつれてませんか」

 士匄は、言われ、数日の荀偃を思い出す。目を輝かせ、議も堂々と行い、問いには即座に答える、全く似合わない、本当に似合わないことをしているは、本来太っているわけではなく、どちらかというと痩せ型であるので、痩せていておかしくなく。

 笑みを浮かべるその目の下には、はっきりとした隈があり、いっそ落ちくぼんでいた。

 頬骨が目立ち、それは青年期の脱出ではなく、頬がこけている。

 衣から見える手は骨が目立ち、それは骨太ではなく、骨と皮ではなかったか。

「あれ? 痩せているどころか、鶏ガラではないか」

「え。そこまでではないですよ、少し顔色悪く、痩せている気がするなあ、てくらいではないですか。明日、事情をお聞きになってはいかがでしょう」

 やけに深刻に考え出した士匄に、趙武が笑って柔らかく制した。趙武の脳裏にある荀偃は、食べているというわりにはふくよかにならず、少し痩せた印象、という程度であり、もちろん鶏ガラでもない。士匄が思い込みでおおげざに想像してしまったのだ、と断じた。

 士匄も、己の認識に自信が持てぬ。散々男は自信だと言ったやさきにこれであるが、己の考えを断言できるかの見きわめも『自信』のひとつである。士匄は、荀偃の姿がぼやけていた。ここ数日の彼の印象は闊達である。が。実像が思い出せぬ。この、脳裏に浮かんだ骨と皮の飢え死にしそうな男が本来の荀偃だ、などと断言できるほどの材料がない。

「……ち。中行伯のところへ行くか」

 ただ、姿を確認したいから、という理由で動こうとした士匄を、趙武はさすがに止めた。いくら友情に篤いとしても重すぎである。士匄は不快を隠さずため息をついたが

「まあ、確かに考えすぎだな」

 と受け入れ、学びの続きだ、と趙武を促した。その後、范武子はんぶしの残した法について少々教示したあと、士匄は趙武を解放した。

 翌日、士匄は叫び声を喉奥に引っ込ませ、なんとか耐えた。何故、己は気づかなかったのか、と腹がずり落ちる思いであった。

 荀偃はニコニコと笑いながら挨拶をしてきたが、目は落ちくぼみ瞼は腫れ眼はつぶれかかっており、頬はこけ、唇はガサガサであり肌にも水気がない。あからさまな栄養失調の姿で、首も手も肉が削がれたように細い。まさに、骨と皮である。

「中行伯、なんだ、それは!」

 士匄はしずしずと拝礼する荀偃にどなりつけ、その腕をとると共に部屋を出て行く。え、え、なに? と荀偃がのんびりとした口調で言いながら、引きずられていった。帯止めには、石で作られた無骨で素朴なお守りがいくつもつけられ、動く度に揺れ当たり、コンコンコンと音を立てていた。

 みなが唖然としたなか、趙武は我に返り、拝礼した。

「恐れ入ります。范叔がなぜいきなりご乱心されたかわかりませぬが、先日から中行伯をご心配なさっているご様子でした。私は范叔にご教示いただく立場のもの、その行いひとつひとつを良くも悪くも学びとしとうございます。追いかけてよろしいでしょうか」

 若輩のリーダーともいえる韓無忌かんむきは、行っておいで、と許し、促した。みなの目に荀偃はいつもと変わらず見える。しかし、最近何やら浮ついていたのも確かである。士匄は現世うつしよ常世とこよの境に立っているようなところがある。人の見えぬものを視て、聞こえぬものを聴き、空飛ぶ鳥に祖霊の魂を感じることができる。

「大事になるようであれば、私の父かなんじの父に相談せねばならぬな、欒伯らんぱく

 部屋に取り残された韓無忌が、ゆったりと欒黶らんえんに顔を向けて言った。弱視の彼は、そこに人がいる、という程度のことしかわからない。欒黶がかったるい、という態度を隠さず肩をすくめた。

「汝の父は手堅いし、俺の父は有能な正卿せいけいだ、まあなんとかしてくれるだろうが、相談など手間ではないか? 荀氏中行家は傍系の家がおられる。知伯ちはくは仕事ができるお方だ。中行家がひとつ滅んだからって困ることないと思うぞ」

 欒黶は選民階級独特の酷薄さと薄情さをさらけだした上で

「それより本日はもう学びなどできまい。汝が議を出そうが、俺はわからん。ゆえ、今日のおやつを二人で食おう。汝が己のぶんだけで良いとなれば、残りは俺が食う。今日の甘味はなんだろう、瓜がいいなあ、瓜」

 と、愛嬌のある笑みを見せた。甘みのある整った顔であるため、いっそうかわいげがあった。

 韓無忌は容赦無く荀罃じゅんおうに連絡しお越し頂き、欒黶は韓無忌という謹厳な男と、荀罃という厳粛な男に時間いっぱい絞られぎゅうぎゅうに躾けられた。教わる言葉に脳が飽和状態になれば、姿勢の躾が始まるという具合に、素晴らしい環境でみっちり学び、食事の儀礼に関しても荀罃の度重なる殴打に耐えながら、半泣きで礼儀正しく食べた。望み通りの瑞々しい瓜であったが、味などさっぱりわからなかった。

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