夢を見た。丘の上で
「何かの啓示かなあ」
目覚めた
「丘で、
そうひとりごちても、どの丘であったのか、いまいちぼんやりとしてわからぬ。自家の巫覡の顔ではなかった。それどころか、巫覡の顔は真っ平らであった。削ぎ落とされていたと言ってよい。
この紀元前六世紀の当時、夢は脳のメカニズムではなく、なんらかの情報である。朝食にて荀偃の話を聞いた父、
「我が家の巫覡でないものか。不思議だね」
と首をかしげながらのんびり応じた。肉や野菜を薄く切って煮込んだ
「そうだ、
いきなりの墓参りを勧める
「わかりました。きっと夢のお導きでしょう。おじいさまの
「いや、今日にでも。お前が出仕できぬ旨は私から伝えておこう」
荀庚がふわりと笑んだあとに、再び
荀庚の食の細さは最近とみに目立っている。この父親は己が長くないのだと思い込んでいるのであろう。荀庚が荀偃の夢を口実に
さて、お導きの通りと言うべきか。荀氏の
「あの! あなたさまと会う夢を見まして、ございます。
馬車から覗き、その
「ああ、まさに私もそなたの夢を見た」
荀偃は馬車から降りて、
当初は貴族の常として、巫覡の前に立った。が、この若い巫女は荀偃の身分に圧されて上手く話せないようであった。うながしても、あの、えっと、と言いよどむばかりである。そのようすがあまりにあわれで、荀偃は視線を合わせるように屈んだ。お優しい為政者であるが、軽挙に過ぎた。
「私の力になるとはどのようなことだ?」
荀偃は優しく言った。巫女は大貴族に視線を合わされて驚き、さらに挙動不審となる。
「どのようなこと、でも、です! あなたの、お望みの!」
巫女がひっくり返った声で言う。仮面であり表情はうかがい知れぬが、必死であるのがとれた。荀偃はなんでもかあ、と首をかしげ、考える。むろん、その間、周囲に侍る手勢のものどもは刀を手にし、棒を構え、主人に害なすものか、もしくは詐術を弄するか見計らっていた。もし、合図ひとつあれば、女はめったざしであったろう。ゆえに、圧され怯えているのかもしれなかった。
荀偃はそんな女の怯えにも、手勢の焦りにも気づかず、どんなことが望みか、と考えた。士匄におっとりとしておられると嗤われ、
「あ。そうだ。我が父は食が細い。たくさんお食事を召し上がるようにしてほしい。私も食べるのが遅いし、下手くそだ。そうだな、おいしくものがたくさん食べられるようになりたい」
もうそろそろ三十にも手が届く荀偃は、幼児のようなことを言った。考えに考えて、それしか思い浮かばなかったのだ。彼は黙っていても
「それは、それは得意でございます!」
巫女が身を乗り出し、手を広げて、踊るようなしぐさで言った。胸をはっているようにも見えた。それは心強い、と荀偃は笑い、女の手をとって立ち上がった。彼としては連れて行くつもりだったのだが、あまりに軽率である。貴族が顔もしらぬ民の手をとる、妙齢の女の手をとる。どちらも非常識すぎた。
「びゃっ」
引っ張り上げられ驚いた巫女が荀偃の手を弾いた。むろん、貴人の手を弾いたのであるから、おおごとである。巫女は動転し、身をよじった。せめて顔を見られてはならぬと仮面を抑える。この仮面こそが、異人としての力であり、託宣の証なのだ。その巫女の動きにつられ、荀偃はバランスをくずして手を回した。なんとか踏ん張ったが、
「あ」
荀偃は間抜けな声をあげて、巫女を見た。巫女は、仮面を抑えたまま、必死に身を丸めたが、どうしようもない。だらり、と深衣ははだけた。
当時の衣は、襟のある上衣とスカート状の下裳を縫い合わせたワンピースであり、帯でとめるものである。そして、この時代に下着は無い。
「びゃああああああああああああああああああああああっ」
「うわあああああああああああああああっ」
巫女は持っていた仮面を放り投げて、泣きながら己の股間を手で隠した。荀偃は、白昼ど真ん中で女の体をひんむいた状況に混乱し、悲鳴をあげた。周囲の手勢たちも、まぬけな巫女を庇えば良いのか、とんまな主を慮れば良いのか、一瞬困惑した。が、この手勢は主が好人物だが少々鈍くさいことをわきまえている。さっと替えの服を持ち寄り、
「こちらお使いを」
と荀偃に差し出した。我に返った荀偃は女に衣をかぶせて、むりやり肌を隠した。手にある麻帯を渡せば良いだけなのだが、そこに思い至っていない。ゆえに、荀偃は女に衣をかぶせたまま動けなくなり、女も動けなくなった。せめて仮面をかぶりたい、と女は目を地にむけるが、荀偃が邪魔でかがむことができない。
「お、お前が祈れば父がたくさん食を楽しめるのか?」
「え、あ、はい、はい」
いつも一つ食べるごとにため息をついている父を思い出す。荀庚は食べることが嫌いなわけではない。ただ、食べることが苦手なのだ。食事も祭祀と繋がるこの時代では、苦労が多い。
「じゃあ、お前が。えっと、お前の名は?」
荀偃は、毎回お前、と聞くのが嫌になって思わず問うた。手勢が後ろで頭を抱えたことに気づかなかった。聞かれた巫女は、顔をあからめて、はへ、はひ? と奇声をあげたあと、
「
と、素直に応えた。巫覡の顔をあばき、衣服をひんむき、名まで問うたのである。荀偃以外は、ことの状況に発狂しそうな気持ちであった。一人気づかぬ荀偃は、
「そうか、
と笑った。
「――と、いうわけで、巫女がくれたこのお守りが霊験あらたかでして、本日はぺろりと食べることができたのです」
以上、荀偃による謎の回想であった。
「えっと、その、小石ですか」
「亀です!」
よくよく見ると、石の頂点に亀甲模様が染料で描かれていた。雑な亀である。
「なんだ? つまり、
しかし、今回、荀偃は
「まあ、
士匄はにこにことしながら欒黶に話しかけた後、最後ににやにやとした笑みを荀偃に向け、身を乗り出し顔を覗きこんだ。まぬけなことに荀偃がきょとんとした顔で首をかしげる。なんとまあ、愉快なカモがネギを背負っている。士匄は荀偃という先達が大好きである。世の中に、ここまでおもしろい
「いやはや、この宮中、まつりごとを学ぶ我ら後輩といたしましては、先達のお言葉の深さ、感服するしかない。
最後の台詞あたりで、荀偃の頬をやわらかく摘みながら、士匄は笑った。それはまさに、獲物を嬲り食う肉食獣の笑顔であった。荀偃がようやく気づいたらしく、ざあっと顔を青ざめた後、一気に紅潮させた。
「ちが、違います、違う、そ、そうじゃないんです、違う!」
荀偃の名誉のために先に記すが、
「えっと。まあ、その、どのようないきさつであれ大切な方からの贈り物なのですよね、その亀? 無くさないようにしまっておくのが良いと思いますよ」
趙武が半泣きの荀偃を慰めた。荀偃が、あわてたように石を帯止めに付けていた。え、そこに飾るの? と趙武も少々ドン引いた。絹の帯、細かな銅細工の帯止めに、土臭い小石はとてもではないが、似合わない。
「……まあ、ご本人が良いのであれば……良いのかなあ」
趙武は肩をすくめて呟いた。いや、本当に良いのか。どう見てもただの小石であり、大夫の軽重が問われるのではないであろうか。最年長の韓無忌が休んでいるために、場の空気はだらけている。趙武はぴしゃりと己の頬を軽く叩いて気合いをいれた。甘味は娯楽のために食べているわけではなく、儀礼を確かめるために食しているのである。遊びではない。この宮中にいる以上、遊びの時間は無い。
無駄に根性スイッチの入った趙武が、三人の先輩を相手取り議を問うていくのであるが、まあ、そこは本題ではないため、はぶく。
荀偃はもちろん、父親の荀庚も生まれて初めて食事を楽しんでいる。美味しくても喉に詰まっていた日々よ、さようなら。食欲のままに口に入れても腹におさめても、苦しくないというのは素晴らしい。
「父があのように楽しんでいる姿は初めてだ。皐のおかげで見ることができた、礼を言う」
大貴族の令息に丁寧に拝礼され、
「そ、そしたら、もっとたくさん、欲しくなるように、する、えっと、いたします。荀氏が欲しいものを欲しいまま、食べられるように、もっといたします」
皐は信頼された巫覡として、宣言した。善意である。言葉の内容よりも善意が嬉しく、荀偃は笑顔を返して頷いた。
世の中、善意こそがトラブルとパニックの原因であり、悪化させる種である。まあ、そういったことを皐はもちろん、荀偃もまだ知らなかった。