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第13話 邂逅に相遇わば我が願い適えり、つまりはボーイミーツガール!

 夢を見た。丘の上で巫覡ふげきと出会う夢であった。

「何かの啓示かなあ」

 目覚めた荀偃じゅんえんは、夜明け前の空を眺めながら首をかしげた。夏の朝は、日中の暑さが嘘のような涼しさがある。少し湿気た風に緑のにおいがまじるのもなかなかに良い。荀偃じゅんえんは庭を出て軽く歩く。足で砂や土を盛り、小さな山を作ってみた。

「丘で、巫覡ふげき

 そうひとりごちても、どの丘であったのか、いまいちぼんやりとしてわからぬ。自家の巫覡の顔ではなかった。それどころか、巫覡の顔は真っ平らであった。削ぎ落とされていたと言ってよい。

 この紀元前六世紀の当時、夢は脳のメカニズムではなく、なんらかの情報である。朝食にて荀偃の話を聞いた父、荀庚じゅんこう

「我が家の巫覡でないものか。不思議だね」

 と首をかしげながらのんびり応じた。肉や野菜を薄く切って煮込んだあつものを匙ですくっては、もぐもぐと長く咀嚼する。荀庚じゅんこうは特に病弱というわけではないのだが、食が細く筋肉は薄く、貧血も多い、貧弱というべき体質である。貴族に生まれていなければ早々に死んでいたであろう。荀偃は特に病弱でも貧弱でもないが、食べるのが遅い。よって、この親子の食事風景は常に平和でゆったりとしていた。

「そうだ、えん。せっかくの啓示なのだから、桓子かんしの……父上のびょうへごあいさつへいっておいで。父上がお亡くなりになってもう十五年をとうに越えられた。父上はご友人多きかたであられた、黄泉こうせんでみなさまがたとお過ごしでしょう。それはまあ楽しく過ごされていると思うが、たまには孫が顔を出しても良いではないか」

 いきなりの墓参りを勧める荀庚じゅんこうは苦しい言い訳をしているようにも見える。荀偃じゅんえんは口の中の肉をゆっくりと咀嚼し飲み込んだ後、口をそそぐ。そうして荀庚に拝礼し口を開いた。荀偃は士匄しかいと違って、親に刃向かうという考えが無い。

「わかりました。きっと夢のお導きでしょう。おじいさまのびょうへ伺います。明日がよろしいでしょうか」

「いや、今日にでも。お前が出仕できぬ旨は私から伝えておこう」

 荀庚がふわりと笑んだあとに、再びあつものを食べた。荀庚の父、荀偃の祖父は諡号しごう中行桓子ちゅうこうかんしといい、落ちぶれかけていたじゅん氏をけいの家格にまでした、中興の祖である。何かに秀でていたというわけではないが、穏やかな好人物であり、友人が多かった。その穏やかさを受け継いだのか、荀庚も荀偃ものんびりとした――というよりはのろまな性質であった。

 荀庚の食の細さは最近とみに目立っている。この父親は己が長くないのだと思い込んでいるのであろう。荀庚が荀偃の夢を口実に嗣子ししとしての覚悟を促したのはあきらかである。おおげさでもある。荀庚はしばしば、このような態度をとる。少々めんどくさい父親であるが、荀偃は不快も不満も無かった。そこは深く考えずに従順な性格である。また、夢に巫覡が出た、ということが吉祥か不祥か、気になっていたため、きっとこれも何かの導きなのだと、思った。

 さて、お導きの通りと言うべきか。荀氏のゆうの入り口にて一人の巫女みこが荀偃を待ち望んでいたかのように伏して待っていた。若い女であり、巫覡らしく平たい仮面をかぶっていた。ゆるい深衣しんいはじっとりと汗ばんでいた。くずの生地は貧民らしくぺらぺらである。彼女は己で研磨したらしい少々いびつなぎょくを手に持ち、荀偃に向かって拝礼していた。

「あの! あなたさまと会う夢を見まして、ございます。荀氏じゅんしのお世継ぎのお力になれと啓示ございました」

 馬車から覗き、そのゆうこそが丘の上にあることに荀偃は気づいた。

「ああ、まさに私もそなたの夢を見た」

 荀偃は馬車から降りて、巫女みこに駆け寄った。想像以上に小さくかよわい女に思えた。よくよく見ると、衣服が大きいようであった。このようなとき、士匄しかいであれば立ちはだかり、何が言いたいか、と居丈高に問うていくであろう。夢であろうが誰かに示唆されるなどまっぴらだ、という男である。趙武ちょうぶであれば柔らかく接し、常識的に託宣をさせ、内容によっては褒美でもやったであろう。が、荀偃は少々、いやかなりお人好しであった。

 当初は貴族の常として、巫覡の前に立った。が、この若い巫女は荀偃の身分に圧されて上手く話せないようであった。うながしても、あの、えっと、と言いよどむばかりである。そのようすがあまりにあわれで、荀偃は視線を合わせるように屈んだ。お優しい為政者であるが、軽挙に過ぎた。

「私の力になるとはどのようなことだ?」

 荀偃は優しく言った。巫女は大貴族に視線を合わされて驚き、さらに挙動不審となる。

「どのようなこと、でも、です! あなたの、お望みの!」

 巫女がひっくり返った声で言う。仮面であり表情はうかがい知れぬが、必死であるのがとれた。荀偃はなんでもかあ、と首をかしげ、考える。むろん、その間、周囲に侍る手勢のものどもは刀を手にし、棒を構え、主人に害なすものか、もしくは詐術を弄するか見計らっていた。もし、合図ひとつあれば、女はめったざしであったろう。ゆえに、圧され怯えているのかもしれなかった。

 荀偃はそんな女の怯えにも、手勢の焦りにも気づかず、どんなことが望みか、と考えた。士匄におっとりとしておられると嗤われ、欒黶らんえんにノロマとバカにされるゆえんである。そのうえ、あれがよいかこれがよいかと迷い続けるのであるから、韓無忌かんむきに『決断力を育てるよう』と注意されてもしかたがない。優柔不断な荀偃は、結局、まともな結論が出なかった。

「あ。そうだ。我が父は食が細い。たくさんお食事を召し上がるようにしてほしい。私も食べるのが遅いし、下手くそだ。そうだな、おいしくものがたくさん食べられるようになりたい」

 もうそろそろ三十にも手が届く荀偃は、幼児のようなことを言った。考えに考えて、それしか思い浮かばなかったのだ。彼は黙っていてもけいになる家柄であり、特に困った問題もない。あえていうならこの優柔不断で流されやすい性格が問題であるのだが、自覚はない。あの邑の税収が、やら、そろえた馬の質がやら、もろもろリストアップした末のこれであった。

「それは、それは得意でございます!」

 巫女が身を乗り出し、手を広げて、踊るようなしぐさで言った。胸をはっているようにも見えた。それは心強い、と荀偃は笑い、女の手をとって立ち上がった。彼としては連れて行くつもりだったのだが、あまりに軽率である。貴族が顔もしらぬ民の手をとる、妙齢の女の手をとる。どちらも非常識すぎた。

「びゃっ」

 引っ張り上げられ驚いた巫女が荀偃の手を弾いた。むろん、貴人の手を弾いたのであるから、おおごとである。巫女は動転し、身をよじった。せめて顔を見られてはならぬと仮面を抑える。この仮面こそが、異人としての力であり、託宣の証なのだ。その巫女の動きにつられ、荀偃はバランスをくずして手を回した。なんとか踏ん張ったが、をつかんでいた。

「あ」

 荀偃は間抜けな声をあげて、巫女を見た。巫女は、仮面を抑えたまま、必死に身を丸めたが、どうしようもない。だらり、と深衣ははだけた。

 当時の衣は、襟のある上衣とスカート状の下裳を縫い合わせたワンピースであり、帯でとめるものである。そして、この時代に下着は無い。

「びゃああああああああああああああああああああああっ」

「うわあああああああああああああああっ」

 巫女は持っていた仮面を放り投げて、泣きながら己の股間を手で隠した。荀偃は、白昼ど真ん中で女の体をひんむいた状況に混乱し、悲鳴をあげた。周囲の手勢たちも、まぬけな巫女を庇えば良いのか、とんまな主を慮れば良いのか、一瞬困惑した。が、この手勢は主が好人物だが少々鈍くさいことをわきまえている。さっと替えの服を持ち寄り、

「こちらお使いを」

 と荀偃に差し出した。我に返った荀偃は女に衣をかぶせて、むりやり肌を隠した。手にある麻帯を渡せば良いだけなのだが、そこに思い至っていない。ゆえに、荀偃は女に衣をかぶせたまま動けなくなり、女も動けなくなった。せめて仮面をかぶりたい、と女は目を地にむけるが、荀偃が邪魔でかがむことができない。

「お、お前が祈れば父がたくさん食を楽しめるのか?」

「え、あ、はい、はい」

 いつも一つ食べるごとにため息をついている父を思い出す。荀庚は食べることが嫌いなわけではない。ただ、食べることが苦手なのだ。食事も祭祀と繋がるこの時代では、苦労が多い。

「じゃあ、お前が。えっと、お前の名は?」

 荀偃は、毎回お前、と聞くのが嫌になって思わず問うた。手勢が後ろで頭を抱えたことに気づかなかった。聞かれた巫女は、顔をあからめて、はへ、はひ? と奇声をあげたあと、

こう、でござい、ます」

 と、素直に応えた。巫覡の顔をあばき、衣服をひんむき、名まで問うたのである。荀偃以外は、ことの状況に発狂しそうな気持ちであった。一人気づかぬ荀偃は、

「そうか、こう。ではまず邑に来られよ。ゆっくりと話そう」

 と笑った。こうが、耳も首筋さえ真っ赤にしながら頷き、ようやく、そっと荀偃から身を離して仮面を拾い上げた。が、巫覡としての仮面姿にならず、荀偃に寄り添って共に馬車へ乗った。

「――と、いうわけで、巫女がくれたこのお守りが霊験あらたかでして、本日はぺろりと食べることができたのです」

 以上、荀偃による謎の回想であった。士匄しかいたちはしらけた目を荀偃の手元に向けた。そこには、平たいのか丸いのかよくわからない石が紐でくくられ、ぶら下がっている。

「えっと、その、小石ですか」

 趙武ちょうぶがこわごわと聞く。

「亀です!」

 よくよく見ると、石の頂点に亀甲模様が染料で描かれていた。雑な亀である。

「なんだ? つまり、中行伯ちゅうこうはくはその淫祠いんし女を情人にしたから俺がを食い損ねたと? 情人のプレゼントで食欲もばっちりスッカリ男らしいってなんだ、怪しい売り文句ではないか」

 欒黶らんえんが口を尖らせた。この男は、座談のあとに出される甘味が食い足りぬと拗ねているのである。いつもとろとろと食べるのが遅い荀偃のものをかっさらい、『いらないようであったから』、とわざとらしく食べるのが趣味なのだ。むろん、ほめられたことではなく、上席に怒られ士匄には『窃盗罪』と毎回しっぺされるのだが、懲りない。

 しかし、今回、荀偃はきび飴がけの餅をぺろりと食べた。いつもなら、ちまちま食べているくせに、ぱくぱくと、しかし儀礼正しく食べきった。それに逆切れ怒った欒黶に辟易しながら、荀偃が返したのが、つまりは長々とした回想話であった。

「まあ、欒伯らんぱく。中行伯が良い巫覡と言っているのだ、淫祠などと詐欺迷信のように言うな。そして、まあ一目惚れしたのだと臆面もなくご披露される。いやいや、そのような良き女とねやを共にしておるのだ、そりゃあ精を付けねばならぬ、食も進むであろう」

 士匄はにこにことしながら欒黶に話しかけた後、最後ににやにやとした笑みを荀偃に向け、身を乗り出し顔を覗きこんだ。まぬけなことに荀偃がきょとんとした顔で首をかしげる。なんとまあ、愉快なカモがネギを背負っている。士匄は荀偃という先達が大好きである。世の中に、ここまでおもしろいがあろうか、いや無い。

「いやはや、この宮中、まつりごとを学ぶ我ら後輩といたしましては、先達のお言葉の深さ、感服するしかない。くずの深衣は確かにこの世のもの、異界の巫覡に相応しくなく改めてもらうは必定。それはまあ、早急に帯を解いてしまうは仕方無し。しかし仮面をとれば、それは巫女ではなく女。顔を見てしまえば中行伯も責をとりたくなるもの、わかりますとも、わたしも男です、名も問うが必至。ほうに苦き葉あり、わたりに深きわたりあり。深くはすなわれいし、浅くは則ちかつせよ。川を渡ろうにも底深い場所に阻まれ、葉が邪魔で瓢箪を浮き具にできず、渡るに難しいのが恋というものだが、あなたは深い場所を衣服からげて歩けば良いと、皆の前でどうどうと恋人に会いに行く古詩の勇者のようだ。良き巫女を得て、あなたも食欲旺盛とのこと、

 最後の台詞あたりで、荀偃の頬をやわらかく摘みながら、士匄は笑った。それはまさに、獲物を嬲り食う肉食獣の笑顔であった。荀偃がようやく気づいたらしく、ざあっと顔を青ざめた後、一気に紅潮させた。

「ちが、違います、違う、そ、そうじゃないんです、違う!」

 荀偃の名誉のために先に記すが、こうと肉体関係はいっさい無い。彼は偶然女の服を剥いでしまい、偶然女の顔を見て、そして偶然名を聞いたのである。ほとんどやっていることは求愛であるが、彼はそのつもりはなかった。しかし、この場にいる皆、荀偃の言葉を信じていない。士匄にいたっては荀偃の言動を、性行為込みの恋愛詩でからかっており、極めて趣味が悪い。

「えっと。まあ、その、どのようないきさつであれ大切な方からの贈り物なのですよね、その亀? 無くさないようにしまっておくのが良いと思いますよ」

 趙武が半泣きの荀偃を慰めた。荀偃が、あわてたように石を帯止めに付けていた。え、そこに飾るの? と趙武も少々ドン引いた。絹の帯、細かな銅細工の帯止めに、土臭い小石はとてもではないが、似合わない。

「……まあ、ご本人が良いのであれば……良いのかなあ」

 趙武は肩をすくめて呟いた。いや、本当に良いのか。どう見てもただの小石であり、大夫の軽重が問われるのではないであろうか。最年長の韓無忌が休んでいるために、場の空気はだらけている。趙武はぴしゃりと己の頬を軽く叩いて気合いをいれた。甘味は娯楽のために食べているわけではなく、儀礼を確かめるために食しているのである。遊びではない。この宮中にいる以上、遊びの時間は無い。

 無駄に根性スイッチの入った趙武が、三人の先輩を相手取り議を問うていくのであるが、まあ、そこは本題ではないため、はぶく。

 荀偃はもちろん、父親の荀庚も生まれて初めて食事を楽しんでいる。美味しくても喉に詰まっていた日々よ、さようなら。食欲のままに口に入れても腹におさめても、苦しくないというのは素晴らしい。

「父があのように楽しんでいる姿は初めてだ。皐のおかげで見ることができた、礼を言う」

 大貴族の令息に丁寧に拝礼され、こうは顔が茹だるほど動転した。皐は巫覡であるが邑や氏族に属すようなごたいそうなものではなく、いわゆる歩き巫女であり、乞食に近い。それが、大貴族にかしずかれ、なおかつ名まで問われたのである。有頂天になっても仕方が無かった。

「そ、そしたら、もっとたくさん、欲しくなるように、する、えっと、いたします。荀氏が欲しいものを欲しいまま、食べられるように、もっといたします」

 皐は信頼された巫覡として、宣言した。善意である。言葉の内容よりも善意が嬉しく、荀偃は笑顔を返して頷いた。

 世の中、善意こそがトラブルとパニックの原因であり、悪化させる種である。まあ、そういったことを皐はもちろん、荀偃もまだ知らなかった。

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