目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第9話 これ桑と梓あれば必ず恭敬す、私の故郷はあなたも故郷。

 そろそろ山の領域に近いとなったあたりで、士匄しかいの人相は最高潮に悪くなった。表情はどす黒くなり、目の下に隈が何重にもできているようにも見える。飢えた痩せ犬のような目つきで、時々周囲を見渡す。

「……薬湯はまだございます、用意させましょうか」

「いらん。もはや無駄だ」

 趙武ちょうぶが不安を隠さぬ顔で、問うたが、士匄は拒んだ。趙武の手にははくの枝がある。士匄はゆうをあとにするとき、真っ先に趙武に渡した。欒黶らんえんでもないかぎり、この不祥に当てられる、と思ったのである。が、士匄は柏を手にしていない。それも含めて趙武は不安らしい。士匄は自己利益優先の男であるが、趙武は己だけが良い目を見るのは落ち着かぬ、という人間であった。

「それでは、もう一度伺います。いえ、同じことを問うというのはあなたにとって不快かもしれませんが、私は改めて問いただしたいのです。山に入るはあなただけと言う議、承諾できません。事情分からぬものを連れて行けぬという理はわかりますが、私を置いていく理由にはならない。ここまで来たのです、共に参ります。私はこの柏がございますので、ご面倒はおかけしません。あなたは才あり格あり、いずれ家を継がれてこの国の差配をされるお方。私は非才ながら下役としてその差配を承るものです。おおよそ国を動かすに『信』が必要です。あなたを一人難事に向かわせてしまえば、私はこれから何を信として生きていけばよいのでしょうか。私から信を奪わないでください、お願いします」

 拝礼し顔を窺う趙武に、士匄は軽蔑をあらわにした目を向ける。

「お前を連れて行く連れて行かぬは先達であるわたしが決めたこと。二度も問うは非礼且つ厚顔、不遜であるが、それは許そう。しかし、お前は連れて行かん。いや、今、いらぬと判じた。趙孟ちょうもう。わたしは未熟は大目に見る。才無きバカも許す、それは天が決めたことだ。しかし、卑しく愚鈍であることは許しがたい。お前は、本当はなど分かっておらぬ。分かっておらぬのに上っ面だけ使って媚びる道具にした。それは恥ずべきことだ。お前は我が晋の害だ、国を出ろ。『信』とは個人間の約定ではない。常に国を思いおのが職分を越えずまつりごとを行う大夫たいふとしての基礎だ。日々国難を考え積み重ね怠らず、危機があっても必ず好機とする備えの心構えでもある。お前がわたしに心をくだき難事を共に分かち合いたいという気持ちはわかるが、気持ちだけで国が支えられるか。おおよそ古来より、下役が上役を訪ねるときはにえを差し出す。上役は気持ちをとり贄を返す。お前という贄は返す、おもんばかる気持ちだけは受け取っておく」

 士匄は、趙武が力になりたいと心底思っている、すっかり思うようになったことを受けた上で、容赦無く払いのけた。この、傲岸不遜で身勝手な若者は、しかし法制の人間であり理の男でもある。趙武が勢いと気分で国の根幹に関わる言葉を曲解し上っ面の言葉を投げてきたことに静かに怒り、先達として釘をさした。

 趙武は傷ついた顔をして俯いた。本気で誠意のつもりで言ったのだが、信が分かっていないと言われれば、そうでしたと応じるしかない。無知だと決めつけているわけではなく、学んだことが理解できていない、分かった気になった考えなしと指摘され恥じ入った。その上で、気持ちだけは貰っておくと汲み取られたわけであるから、惨めでもあった。己がただ導かれる民であるなら、これで良いが、国政を担う貴族としては失格である。趙武は、は、と息を吐いて、丁寧にゆっくりと拝礼する。

「……ご教示ありがとうございます。范叔はんしゅくの訓戒、常に思い戒めとし研鑽いたします。……私はおっしゃるとおり未熟な愚かもの、本来であれば先達の叱責を受け引くが道理ですが、もう一度だけ申し上げたいことがございます。……わ、私は韓伯かんはくに范叔のご教導受けるよう命じられ、今回は知伯ちはくに范叔を支え……問い……いえ、えっと」

 頭にある考えが言葉にできず、趙武はもどかしく悔しかった。それでも必死に口を開く。

「まだあなたの行いの理がわかっておりません。私自身が見届けねば、その……たぶんわからないままです。知伯は私に正しい解を学べとおっしゃってました。この命をたがえるのは、若輩としてできかねます。お願いです、連れて行ってください」

 趙武はなんとか言い切って、士匄を見た。士匄が苦々しい顔をしたあと、小さく舌打ちする。

「理あり、礼ある。そう言われれば連れて行くしかない」

 正直なところ、連れて行きたくはない。士匄は山に近づくにつれ、この祟るストーカーな山神を見くびっていたことに気づいた。その力ではなく、はしゃぎようである。士匄が祀りに来てくれたのだと浮かれ、我を忘れているような重圧が襲い続けている。こんな鈍くさい後輩を供にしては、足を取られかねぬ。はっきり言って迷惑である。が、趙武が荀罃じゅんおうの教えを違えることは、同時に士匄も違えることとなる。それは己の中の筋が通らない。

「お前はわたしの力になりたいのかもしれんが、はっきり言うと足手まといだ。しかし、わたしは礼を外した卑怯者になりたくはない、連れて行こう。その柏を絶対に離すな。お前は面倒をかけぬと言った。その言葉、違えるなよ」

「ありがとうございます。あの、それなら……知伯に対してごまかそうとしたのは、卑怯だったのでは?」

 士匄の言葉に、趙武が素でつっこんだ。嫌味のつもりでもなく、違いを聞きたいだけであった。士匄は一瞬口ごもったあと、

「それはそれ、これはこれだ!」

 と人類史最強の言葉で怒鳴った。

 真面目なのかアホなのかわからぬやりとりを経て、士匄と趙武は問題の山に踏みいった。土の臭いが充満し、漂っている。ざわざわとした空気、メキリメキリという微かな音と、お、お、という響きが地から伝わり、趙武は内心震えた。

 士匄といえば、迷い無く歩いて行く。麓では上流の川が下流で氾濫したかのような泥のあとが山腹から残され、押し出された木々や石がやはり泥まみれに転がっていた。ひとつのゆうを押し流し潰すに充分なものであった。それを尻目に士匄は山肌見えぬ木々の中へ押し入り登っているのである。片手で邪魔な枝を押しのけながら、片手には箱を持っていた。後ろを必死に追いかける趙武が思わず声をかけた。疑問もあったが、不安もあった。

「その箱はなんですか?」

「柏の挿し木だ。苗木だと重かろうが」

 バカにしたように言う士匄に趙武は苦い顔を隠さなかった。

「柏は今知りました、確かに苗木は重いしかさばりますが……。そうではなくて、何故お持ちなのですか」

 厄を避けるならこれがあるでしょう、と趙武が手の中の枝を振った。前述したが、日本のカシワではなく、ヒノキの一種である。鈴なりについた小さな葉が揺れた。士匄は小さくため息をついた。めんどくせえ、という態度を隠さない、極めて失礼な態度である。鈍い、と口に出しかけて飲み込んだ。他の者――たとえば欒黶や荀偃じゅんえんである――が同じ事を言えば、士匄は顕示欲のまますらすらと説明したであろう。士匄は趙武をそれなりに認めており、ゆえに説明を失念するのである。

「この山神は祀ればおとなしくなる、はずだ。贄を貰っているのだ、あとは儀を行えば良い。略式のやしろを作るが早かろう」

 趙武が士匄の言葉を深く噛みしめるように聞き、考えた後、口を開いた。

「范叔は今回の祟る山神を、たいへんしつこくご面倒な女性と同じとおっしゃってました。えっと。その女性は贈り物と儀礼で引き下がっていた、ということでしょうか」

 真顔で必死に言う趙武に他意はない。士匄は、おまえ、と思わず呻いた。

「いい加減、その話題を忘れろ。女はあれだ、なんとかなった、同じだ! 同じ」

 士匄の言葉に趙武はあまり納得していないようであった。そして、趙武の指摘は鋭い。しつこい地雷女と切れるまで、士匄は苦労した。その女は他家のものではなく、自家のはしためという程度であったが、追い払っても気づけば這い寄っており何もいりません尽くしますという言葉でまとわりつき士匄の情を乞うた。あれに似たこの山神が目論見通り離れるとは限らぬ。士匄は珍しく、自信を少し失いかけたが、持ち前の我の強さで気を持ち直す。そのような士匄の心中知らず、そんなものですか、と趙武は感心するように言った。趙武は本当に女性との経験が浅く、機微が全く分からない。

 獣さえ通らぬような木々の隙間を士匄が進んでいく。趙武も土を踏みしめながら続く。よくわかるものだ、と趙武はもはや思わなかった。きっと、不祥が導いているのであろう。実際、士匄の体からは凶の卦がにおいたつようであった。

「あっちだ」

 うるしの木々を抜け、葉を払いのけて士匄は指でさししめす。趙武が頷き、共に歩き出そうとした瞬間、士匄は前屈みになり止まった。うっわ、やべ。士匄は脂汗をかきながら唾を飲み込みやりすごそうとする。

「え、范叔?」

 慌てた趙武が肩を掴んで揺さぶった。これが決定打となり、士匄はうずくまって盛大に嘔吐した。わあ、と趙武が驚いた声をあげた。

「……おま、え。趙孟……。あとで泣かす」

「心配して声をかけた人間に言う言葉ですか」

「お前が! 揺さぶらねば! 我慢……。っおえぇっ」

 再び嘔吐し、吐瀉物をぶちまける士匄の背を、趙武が優しく撫でた。竹に入った水と麻の布をさしだしてくる。士匄は黙って受け取ると、口をそそいで汚れを拭いた。

「そちらは差し上げます。体調がよろしくないのであれば、休憩なされますか。もしくは、戻られますか」

 士匄は気づかう手を払いのけると立ち上がって首を振った。

「気にするな、当てられすぎただけだ。近くなっている証拠だ、少し油断した。近い。しかし、山頂にはまだ遠い。山頂は元々の正式の祀りを、今もある麓の一邑がしているであろう。つまり、消えた邑の祭祀が近いということだ。ち、どんなお粗末な祀りかたをしたかしらぬが、迷惑な話だ」

「まあ、迷惑といえば迷惑ですが」

 士匄の言葉に趙武は肩をすくめた。確かにこの山神は迷惑であるが、ここまでになったのは士匄が素衣素冠そいそかんの男を問答無用に贄にしたからである。その行いが非道だったのではないか、という思いが今も否めない。

「ったく迷惑だ。己の地だと主張するから貰い受けてやると贄にしてやったのだ! それをじめじめと祟り祀れと訴える。儀に則ってやったのに足らぬというは強欲というもの。くそ」

 舌打ちしながらざくざくと歩き出す士匄に迷いも無ければ反省もなく、まず悪いとも思っていない。趙武はもう一度肩をすくめながら、共に歩き出した。

 たどり着いたその場所は、漆の林の中にひっそりとあった。木々はその場を不自然なほど避けるように立っている。石を重ね土を塗り固めた小さな土壁が柏を囲っていた。その柏は折れており、傷ついていたが、それは問題ではない。周囲の空気は重く、山は鳴り響き、呼応したように木々がパキンパキンと音を立てていた。

 趙武が半歩後ずさり

「え」

 と小さく呟く。顔は蒼白であった。士匄は、不祥でどす黒い顔をしたまま、眉をしかめ、

「くそ」

 と吐き捨てる。

「あ、范武子はんぶしも知らぬ何かがあったのではないでしょうか? こんな、ありえないです、こんな山中で」

 趙武が柏を持ったまま、士匄にすがりついて叫んだ。

「……うるさい趙孟! 黙れ、腕を離せ! ああ、分かった、そりゃあ祀りがおかしいことになる! !」

 山川が人の祖霊であることなどありえぬ。そして、祖霊を廟でもないのに祀ることもない。

「最初の邑が祖をここに祀って山神と同じにしたか、そもそも間違えたのかは知らん。ここの山神は祖として祀られたいわけだ」

 儀礼が違うという以前の話である。山川の神は人が乞えば返してくれる、人なつっこい神である。天や地に比べればまだ人間的と言えるが――人間ではない。人間の思考などわからぬ。なぜ人間が山川の恵を乞い願うのか、わからぬ存在である。現代でも天災に『やめてくれ』と言っても意味が無いと同じ、いわゆる言葉が通じない、というものである。それをお前は我らと同じ存在だと祀っていたのだ。士匄は歯ぎしりをしたあと、

「そんなこと、できるか!」

 と、叫んだ。できるか、という声が響き渡った瞬間、ずう、ずううという音が響き渡り、ご、ご、と地が揺れた。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?