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第8話 なんじの倹徳を慎みこれ永図をおもえ、ものごとは長い目で計画的に

 翌日、士匄しかいの都合の良いお願い――相談というよりは、である――に荀罃じゅんおうはふわりとした笑みで快諾した。そこには四十路になったばかりの、壮年の魅力があった。

「本来は嗣子ししであり当事者である范叔はんしゅくが、お父上であられる范卿はんけいに言上されるのが本筋です。が、けいを父に持つものの長として私に願うというのであれば、それも筋にかなうこと、引き受けよう。ただし、私の立場で范卿に申し上げるということは私事ではなく公事となる。その覚悟はよろしいか」

 柔らかく紡いでいた言葉は、最後に低くドスの効いた声音になった。士匄は内心、ぴいっ、と怖じ、身を固くした。昨日、荀罃に頼むのが良いと何故己は思ったのか。士爕ししょうは厳しくうるさい父親であるが、この荀罃は厳しく恐ろしい先達であった。今、士匄が趙武ちょうぶを教導しているように、かつて士匄はこの荀罃に教導されていたのである。ゆえに恐ろしく、だからこそ頼りにしてしまう。

 珍しく即答しない士匄を不思議に思いながら、趙武が口を開いた。

「恐れ入ります。確かに知伯ちはくと私たちの関係は私的なものでなく、公事のものです。この件を公事として扱うというのは理にかなっております。しかし、蓋をあければ氏としゅう人の間で為された約定とゆう譲渡の話です。しんの国事にも君公くんこう、公室のいずれにも関わりのないこと……確かに、范叔の祟りによる不祥は深刻で、えっと、その、国事に影響も、できることもあったりかもしれないのですが」

 最初は整然と紡いでいた論は、最後にはしどろもどろになり、趙武は俯いた。元々の問題は士氏の話であり、もっと言えば士匄の下手打ちである。が、士匄に影響した祟りは恐ろしい政変をもたらす可能性を途中で思い出し、なんと言って良いかわからなくなったのである。荀罃が穏やかな顔のまま苦笑した。

「范叔。私に、音頭をとって范卿に言上してほしい、と相談しながら、私に全てを話さなかったようだな。私の才を過大に評価いただくは光栄なれど、つぎはぎを想像で補い卿へ報告する私とでも思うたか。なんじのそのあさはかさは未だ変わらぬと見える。汝は才あるがその浅慮軽率によりいずれ身を滅ぼすと心得なさい。そして趙孟ちょうもうべんに関しては向き不向きあり、汝は学びの途中。これから研鑽するが良く、お気になさるな。それよりも、です。汝は常に、先達に許しを請うてから発言をしていますね。それが今回、いきなり口を出したは范叔をおもんぱかってのことやもしれぬが、その底には先達への軽視がある。汝は范叔に発言を願い出るべきであった。しかし、范叔を軽視し、また私に甘え、口を出した。それは己の地位に対する緩みであり、自らへの戒め足りぬこととしなさい」

 姿勢を正す二人を代わる代わる見ながら、柔らかく笑み諭したあと、荀罃はすっと笑みを消した。そして。

「これが戦陣、軍中であれば二人とも私に斬られたと心せよ」

 と炯々けいけいと光る鷹のような眼差しで睨み付けた。底冷えのするような凄みあるその顔は、まさに峻烈な戦士そのものであり、声音は谷底から響くような恐ろしさと――本気があった。士匄はもちろん、趙武もあわてて拝礼した。二人とも内心、めちゃくちゃ半泣きであった。

 士匄は范武子はんぶしを呼び出したことだけは隠し、観念してきちんと話した。つまり、この祟りが士氏から晋内部にまで影響する可能性である。荀罃は折り目正しい様子で聞き終わり、

「まず、范叔は最短の方法が難しい、と思っているのだね」

 と尋ねた。士匄がしぶしぶと頷く。趙武はわからず、

「どういうことですか」

 と聞いた。荀罃が目で士匄を促し、士匄は嫌そうに口を開いた。

「……わたしがただ狂人に呪われ、いずれ父上の不祥に繋がるのであれば、その前にわたしが追放されれば事足りるのだ。わたしと父、そしてこの晋との関わりを儀として断てばよいこと。しかしお前と一緒に書庫で調べた結果、たちの悪い山神の可能性に行き着いた。例えばわたしが追放されどこの国にも受け入れられず死したとしよう。そうなれば、山神はこの晋につきまとい、今度は依り代なく祟りをまき散らしかねん」

「……范叔……。では、己から晋と離れ、責をお取りになるおつもりだったのですか……?」

 本来は自分の将来を捨てて責を取るつもりだったのか、と趙武は少し感動した。この当時、国を追い出されるいうのは人間社会からの締め出しである。今となっては意味が無いとわかったために口に出したのだろう、この先達を見くびっていたのだと、身が引き締まる思いであった。

「は? そんなわけなかろうが。バカバカしい」

 趙武のちょっとした感動と尊敬は即座にこっぱみじんとなった。趙武はがっかりした顔を士匄に向けた。士匄は頭の回転が良い。その表情で趙武の心中を察し、なじろうとしたあたりで、荀罃が手で制した。

「范叔の言葉、わかった。私はついでに、汝のお父上に嗣子の追放を進言するつもりであったが、そのような事情であれば仕方が無い。嗣子の廃嫡は本来他家が口だすことではないが、私は国事だと考えたまで。問題の場所を直接確認したいということも含めて前向きにお話することにしよう。しかし、最初にも言ったが、これは私事ではなく公事として私は承る。そこはお覚悟を」

 荀罃が穏やかに話を終わらせた。士匄は、ごまかしていていたままなら追放されていたのか、と顔を少し引きつらせた。趙武は穏やかな荀罃ばかりと接していたため、士匄や荀偃が何を怯えているのか知らなかった。今、知った。

 ところで、士匄が荀罃に縋って士爕に説明してもらったくだりは省略する。内容は今まで記してきた話をくり返すだけだからである。むろん、めちゃくちゃに怒られ、怒鳴られ、荀罃の前で殴られた。荀罃は驚くこともなく見守っていた。その上で、士爕は士匄に憂いと愛情を込めたまなざしで、見つめた後、軽くため息をついた。

「汝は己ひとりで考え終わらせようとする。こたびもそうだ。その狂人の件を私に報告しなかったのは面倒と思ったからであろう。その面倒という考えは、己ひとりで事足りるという慢心のためだ。私にも覚えがある考え方だから、わからぬでもない。私も己が一人で何でもできるのだと勘違いし、そして父にこっぴどく叱られたものだ」

 その声音は怒りや呆れより、もっと切迫した響きであった。士匄は常と違う士爕の態度に不審の目を向けた。

「はっきり言おう。人は一人では何もできぬ。一人で考え終わらせたという満足感はあろうが、必ずほころびが出る。それをみな、自然と学ぶ。親や人を見て、一人では成し遂げぬと、学べる。しかし、私も汝も、を生まれながらに見てきた。ゆえに、自分たちも、と錯覚するのだ。しかし、あの人は異常なのだ。――そう、我が父、汝の祖父は、天に愛された人であった。汝は祖父に倣うな、祖父と己を同じと思うな。……いや、祖父を同じと思ってはならぬ。己を戒めよ。己の才で足りると慢心するな。それを肝にその邑と山に行け。趙孟と共に行くは良いこと。あのものは己ひとりで終わらせようとはしない。しかし他者の言いなりにもならん、柔らかくも芯あり。しかし自分の立っている場所にご不安ある様子、見習いながら教導しなさい」

 どこか、ひびの入ったような父親の声音に、士匄は素直に拝礼し、訓戒ありがとうございます、と自然に返した。士匄の我の強さは生まれながらのものであり、その才は天性であろう。が、己ひとりで事足りるという価値観は、確かに范武子という天才の影響があるかもしれない、と気づいたのである。慎み深い士爕もそのような時代があったのだと言うから、天才というのは周囲に対して毒でもあるのだろう。士匄は、士爕の言葉を深く心の裡に溶け込ませながら、同時に、

 ――じいさんの模倣と思われるのは癪だ

 と密かに思っていた。では、己ひとりで全てはせぬ。しかし他者と歩調を合わせるなどまっぴらである。ならば、己が他者を使ってやるほどになればよい。この、我が強く怖い物知らずの若者は、父親に殊勝な姿を見せながら、不遜極まりないを決心していた。

 趙武はちょう氏の長であるが、なんども言うように韓厥かんけつの保護下にある。ただ、この保護者は養い児に対して不安なく信用度が高い。即座に許した。士匄も前述通り許され、問題の邑へゆき、山へ向かう。旅程など本筋に全く関係無いためここでは書かない。

 こう都を出て、邑に近づくにつれ、士匄の顔色が悪くなっていった。傍目で見ていても雑霊にまとわりつかれているのがわかるほどである。供をしている下役でさえ困惑の顔を向けた。趙武としても、傍によりたくもなかったが、ここまでつき合ったのである。己の供たちに断り、士匄の馬車に同席し、見守ることにした。

巫覡ふげきの方をお連れすれば良かったのです」

 己の薬湯を与えて趙武が言った。士匄は手持ちのものを全て使い果たしていたため、おとなしく受け取る。この当時、医と呪は極めて近い概念と思えば良い。

「確かに不祥重く穢れに乗じて雑多なはまとわりついてきているが、別に死にはしない。ふわふわしたものは手で祓っても離れるから問題でもない。それよりもこの不祥そのものが必要であろう。絳を出て、邑に近づけば近づくほど重くなりのしかかる。つまり、誘ってきている」

「誘って? あなたを祟り、穢れを重くすることがですか?」

 趙武の引き気味の言葉に、士匄は頷いた。

「祖にしても山川さんせんの神にしても、祟るときは『不幸にしてやれ』と思っているわけではない。少し怒鳴ったつもり、ちょっと声かけをしている程度なのだ。こいつの場合は、しつこい地雷女みたいなわけだから、言うなれば『私をもっと見て』だ。つまり誘っている」

 はあ、と趙武が気のない返事をする。いまいちわからない、という顔であった。士匄は、どうしようもない、と思うしかない。この境界の感覚は、士匄でなければ巫覡しかわからぬであろう。士匄の諦念を知ってか知らずか、趙武がおずおずと口を開いた。

「申し訳ございません。私はその、女性とのそういうのは経験が浅く……范叔はそのようなご面倒な女性と何かあったのでしょうか?」

 本気で気遣わしげに、そして少しの好奇心で尋ねてきた後輩に、士匄は

「うるさい!」

 と思わず怒鳴った。それは何かしらの経験を吐露するようなものであったが、士匄はそれ以上何も言わずそっぽを向いた。

 さて、新たな士氏の邑は士匄を出迎えつつも、あからさまな穢れ、不祥、不吉、呪い、祟りの気配におののき、巫覡を用意しようとした。

「いらぬ」

 と一喝した士匄は、邑宰ゆうさい

「新たな主筋にこのようなことを申し上げるは不遜、斬られてもおかしくないことでございますが、おそれいります。邑内にお入れするわけにいきませぬ」

 と門前払いをくらった。士匄は怒ることもなく邑に立ち入らず馬車の中で寝た。つき合わされた供のものたちこそ良い迷惑である。当然ながら、彼らはそのようなそぶりをおくびにも出さない。趙武も邑に立ち入らず、己の馬車で過ごすこととした。

「……清めたはくを用意しておけ」

 くらく重い目つきで邑宰に士匄が命じたのを、趙武は横目で見ながら立ち去った。中国古代で言う柏とは日本でいう『カシワ』では無く、ヒノキ系の樹木である。そして、やしろにも使われる神聖な木であった。用意させるのが苗木か枝かはわからない。趙武には、士匄にまとわりつく不祥の気配はわかるが、この空の向こう、問題の山神からの祟りはわからない。

「明日は予定どおり山へ向かいます。みな、ゆっくり休むよう。……屋根の下での手配できず、すまない」

 己の手勢に趙武は丁寧にねぎらった。趙氏のものどもは、野営の訓練になりますゆえ、と若い主を励ますように笑った。

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