森に日常が戻って、一週間ほどが過ぎた。
午前中の診察を終えた私は、銀狼さんと一緒に食卓を囲む。
「どうだ。我の作ったパイ生地はさすがだろう」
きつね色に焼けた魚のパイを前に、銀狼さんが自画自賛していた。
先日の約束通り、最近は彼に料理を教え……もとい、手伝ってもらっている。
ちなみにこのパイを焼いたのは私。銀狼さんは私の指導のもと、小麦粉からパイ生地を作ってくれただけ。
「コルネリア、こっちの料理は何だ」
「それはきのこのキッシュです。同じパイ生地を使っているのですよ」
「匂いはうまそうだが……この中にきのこが入っているのか?」
「そうです。こちらもおいしいので、食べてみてください」
先日街に買い物に行ったことで、食事も一気に豊かになりました。やっぱり小麦粉は偉大です。
「うむ。うまい。これに比べると、我の作った生地は粉っぽい気もするな」
「それでも、初めて作ったにしては上手ですよ。私がパイを作った時なんて、お母さんに消し炭のパイと……いえ、なんでもありません」
嫌な過去を思い出しそうになって、慌てて会話を打ち切る。
その後は対面に座る彼がおいしそうにキッシュを頬張るのを、ただただ満足げに見つめていた。
過去に苦い経験をしたおかげで、今は料理に自信がありますが、かつての村では食べてくれるような人もいませんでしたし。おいしいと言って食べてくれる人がいるだけで嬉しいです。
「我ばかり食べているぞ。コルネリアは食べないのか?」
「へっ? た、食べます食べます。いただきます」
不思議そうな顔で言われて我に返り、食事を再開する。
銀狼さんの作ったパイ、確かに粉っぽいですが、これはこれで個性があっていいと思います。
料理よりもお菓子系に向いていそうなので、次は彼と一緒にアップルパイを作ってもいいかもしれません。
◇
お昼からはよほどの急患が入らない限り、銀狼さんの勉強の時間にあてる。
いつしか、これが日課になっていた。
「ううむ……文字を書くというのは手が疲れるな。人間はこれを、幼い頃から当然のようにやっているのか?」
「村では読み書きができる子のほうが少なかったですよ。学校もなかったですし、一部の大人が教えていました」
「大人か。コルネリアは母君に習ったのか?」
「そうですね。利発的な人で……文字だけじゃなく、家具の修理方法から料理……獣医としての知識まで、色々なことを教わりました」
「なるほどな。我とコルネリアが夫婦になれたのは、母君の導きというわけか」
「え? どうしてそうなるのです?」
「お前が獣医としての知識を持っていたからこそ、我を助けることができたのだからな」
そう言われて、私ははっとなる。
いくら動物の言葉がわかったとしても、怪我をした銀狼さんの治療ができなければ、今のような関係になることもなかった。
それだけでなく、最悪傷が化膿し、銀狼さんは命を落としていたかもしれない。
「だからこそ、我は感謝している。お前にも、その母君にもな」
彼のそんな言葉を耳にした時、心の中に温かいものが広がっていく。その意味を十分に噛み締めながら、私は改めて母に感謝したのだった。
「ほ、ほら銀狼さん、手が止まっていますよ。まだ初歩中の初歩なのですから、頑張りませんと」
続いて浮かんできた感情を隠すように、私は大きな声で言う。
すると彼は思い出したように、手元のノートに羽ペンを走らせた。
……銀狼さんも頭はいいのですが、あまり集中力が続かないのが玉に瑕でした。
「頑張ってあの本を読めるようにならねばな」
そう言って彼が視線を送るのは、戸棚の上に置かれた本。表紙に『新婚生活大全』とでかでかと書かれている。
やる気になるのはいいことですが、最終目標がアレというのは、一抹の不安を覚えてしまう。
「銀狼さまにご報告! 銀狼さまにご報告!」
その時、けたたましい声を上げながら一羽のキツツキが窓辺にやってきた。
「何事だ、騒々しい」
「また銀狼の花嫁が現れました!」
「え、また?」
まさかの単語に、私は一番に反応してしまう。
あの忌まわしき村の習わし……つい一月ほど前、私を送り出したばかりのはずですが。
「その情報は確かなのか」
「この目でしかと見ました! コルネリア様と似たような白い衣装を身にまとっております!」
両翼を羽ばたかせながらキツツキさんは言う。
この森に新たな銀狼の花嫁が送り込まれたことに、どうやら間違いはないようだ。
「やれやれ……我は人を食わんというのに。人間の考えることはわからん」
「まったくです」
思わず同意したものの、私も人間でした。
「ともかく、その人を保護してあげましょう。きっと不安を感じているはずです」
「コルネリアがそうしたいのなら、そうするとしよう」
銀狼さんはすぐに同意してくれ、羽ペンを置いて立ち上がる。
「キツツキさん、その花嫁さんのところへ案内してください」
「かしこまりました! こちらです!」
そう言うと同時に窓枠から離れたキツツキさんを追いかけて、私たちは小屋を飛び出した。