両親と合流した九野は、最後に「本当にありがとうございました」と頭を下げて、鑑別所を後にしていた。平賀が運転する公用車が見えなくなると、雫は寂しさを覚えずにはいられない。
それでも、雫の今日の業務はまだ終わっていなかったし、明日以降も鑑別所での仕事は続く。
雫は踵を返して職員室に戻った。デスクワークを再開させる。
少し寂しく思う一方で、この先の仕事にも精力的に取り組める。そう思えるだけの達成感は、雫にも確かにあった。
テレビの画面にパラメータが表示される。いくつかの項目が数値で示されてから、最後に総合的な点数が浮かび上がる。
八十九点。高得点に、相手は小さくガッツポーズを見せる。雫の口からも自然に言葉がついて出た。
「凄いですね。上辻さん。これまで三曲歌って、全て八〇点台後半なんて。歌、お上手なんですね」
「ありがとうございます。まあ、よくカラオケには来てますから。歌ってる間に自然に上手くなった感じです」
そう言いながら、上辻は軽く鼻を鳴らしていた。雫も「それ、分かります」と、素直に同意を示す。
九野が鑑別所を退所していってから二日後。休日になった雫は、予定が合ったこともあって、上辻と駅前のカラオケ店に来ていた。
「ほら、次は山谷さんの番ですよ。何歌いますか?」
「そうですね……。ちょっとマニアックな曲入れてもいいですか?」
「ええ、全然大丈夫ですよ」
上辻がそう言ってくれたから、雫も思い切って知る人ぞ知るバンドの、アルバムだけに収録されている曲を入れることができる。それでも、テレビ画面に曲名が表示された瞬間、上辻は「マルセロですか」とバンドの名前を口にしていたから、雫が歌おうとしている曲も知っているようだった。
だから、雫も変な遠慮をすることなく自然に歌うことができる。上辻は雫が歌っている間もじっと見つめることをせずに、小さく身体を揺らしながら曲に乗っていたから、雫としてもいくらか歌いやすかった。一番好きなサビに、感情を込めることもできる。
今日ここに来る前は、初めての相手とのカラオケということで、雫は緊張していた。
でも、上辻がこれまで歌っていた曲は雫も好きな曲ばかりで、また上辻も雫の選んだ曲にさりげない反応を返してくれていたから、雫の緊張もある程度は軽減されてきている。
だから、雫は普段の一人カラオケとさほど変わらない状態で、最後まで歌いきることができた。表示された点数は八十五点と上辻よりも若干低かったものの、それでも上辻は「山谷さんも歌上手いですね」と言ってくれる。そう言われると、雫も悪い気はしなかった。
「ありがとうございます。あの、上辻さん。次、何か歌いますか?」
「いえ、ちょっと休憩させてもらっていいですか。山谷さん、続けて歌ってもいいですよ」
「いえいえ、それは気が引けますよ。私も少し休ませていただきます」
そう言うと雫はタブレット端末をテーブルに置き、自らもソファに腰を下ろした。上辻とほとんど同じタイミングでドリンクを口にする。
テレビが店内放送を流し始めたところで、先に口を開いたのは上辻の方だった。
「山谷さん、歌お上手ですね。何かやってたりしてたんですか?」
「いえ、私は音楽経験はそれこそ音楽の授業ぐらいしかなくて。ただ音楽が好きで、大学のときからよく友達とカラオケに行ってただけなんです」
「そうなんですか。それでこんなに上手いなんて、山谷さんにはセンスや音感があるんですね」
「いやいや、それを言ったら上辻さんだって、歌お上手じゃないですか。何か音楽経験があったりするんですか?」
「はい。実は大学で軽音サークルに入ってました」
「そうなんですか。パートは何だったんですか?」
「一応、ギター・ボーカルをやらせてもらっていました。まあバンドといっても大学のサークルだから、コピーバンドだったんですけどね」
「いやいや、それでも凄いですよ。私、楽器できる気しないですから。だから上辻さんは、そんなに歌が上手いんですね」
「ありがとうございます。恐縮です」
そう謙遜する上辻が、雫の目には好ましく映った。上辻こそ音感があって歌も上手いのに、そのことを少しも鼻にかけていない。上辻の人間性が感じられるようで、雫も一緒にいて過ごしやすいと思える。
部屋の雰囲気も入ってきた当初に比べれば、いくらか打ち解けたものになっていて、雫も少し気がかりに感じていたことを、思いきって訊くことができた。
「あの、上辻さん、今楽しいですか?」
「い、いや、楽しいですよ。どうしたんですか。藪から棒に」
「いえ、それならいいんです。でも、店の前で落ち合ったとき、上辻さん少しため息をついてましたから。何かあったのかなと」
「それはお恥ずかしい話ですが、山谷さんとのカラオケに少し緊張してたんですよ。だって、こうして山谷さんとカラオケするのは、今日が初めてなんですから」
「そうですね。ならよかったです。私も今日を迎えるにあたって、少し緊張してた部分はあったので。もしかしたら、上辻さんには何か気がかりなことがあるんじゃないかって思ってました」
「気がかりなこととは?」
「あの、こういった場であまり言いたくないかもしれませんが、例えば仕事のことですとか。警察官のお仕事が大変なのは、私にも少しですが察しがつきますし」
上辻は小さな笑いをこぼしている。でも、その笑みが雫には苦笑いのようにも見えたから、やはり仕事が大変なのだろうと改めて察する。
上辻が返事をしたのは、数秒置いてのことだった。
「まあ、大変なのは否定できないですね。でも、これはどちらかというと、僕の業務能力に問題があるんだと思います」
「どういうことですか?」
「僕、仕事が遅いんです。詳しくは言えないですけど、先輩が一時間で終えられる仕事に二時間もかけてしまったりですとか、そういうことがよくあるんです。未だに要領が掴めていないと言いますか。もう配属されて二年目になるのに、これじゃダメですね」
上辻はまるで懺悔するかのように語っていて、室内にも暗雲が垂れ込み始めたように雫には感じられた。いくら気になったとはいえ、仕事の話を振らなければよかったと軽く後悔さえしてしまう。
でも、仕事の話を持ち出したのは雫の方なのだから、雫は責任を持ってフォローに回った。
「そんなことないですよ。詳しいことは私には分からないんですけど、上辻さんにはまだほんの少しだけ、経験が足りていないだけなのではないでしょうか。言い方は悪いんですけど、量をこなしているうちに業務の質もスピードも上がっていくことは往々にしてありますし。そんなに悲観する必要はないのではないでしょうか」
「そうですかね……。僕、これでももう二年目なんですけど……。いつまでも大目には見てもらえないでしょうし……」
「大丈夫ですよ。だって上辻さん、私が警察署を訪れたときには、適切に対応してくれたじゃないですか。あのときの上辻さんの態度は、私にもいくらか安心できるものでしたし、上辻さんが警察官の仕事に向いてないことはないと思いますよ」
雫がそう励ましてみても、上辻の表情は完全に回復したとは言い難かった。まだ仕事がうまくいかないことを気にしている様子に、雫は上辻が日頃から感じているネガティブな感情の根深さを知る。
雫も何とかしたいと思わずにはいられなかった。
「そうですよ、上辻さん。今日が終わっても、また一緒にカラオケしましょうよ。上辻さんは今日のカラオケを、楽しく感じているんですよね?」
「それはそうですけど……」
「だったら、こんな言い方はおこがましいかもしれないんですけど、また私とカラオケをすることを頑張った自分へのご褒美だと思って、日々の業務に取り組んでみるのはどうでしょうか? 楽しみがあった方が、仕事も頑張れると思うんです」
上辻はすぐに返事をしなかった。そのわずかな間に、雫には恥ずかしさが押し寄せてくる。自分があり得ない思い上がりをしているようにさえ思われた。
「って、ちょっと傲慢すぎましたかね。私とカラオケをすることがご褒美なんて。私だって、そんな大した存在じゃないのに」
「いえ、そんなことはないです。僕も今はこんな雰囲気になっちゃってますけど、それでも山谷さんとのカラオケは楽しいですから。それが今回一回きりじゃないってことは、僕としても嬉しく感じられます」
「そうですか。じゃあ、また一緒にカラオケをしましょう。私も一人カラオケには、少し飽きてきたところだったので」
「は、はい。よろしくお願いします」
声をかすかに震わせながらも、上辻がそう返事をしてくれたから、雫も温かい目を向けられる。音楽の趣味が合う上辻とカラオケをしていると、雫にも一人カラオケでは味わえない感情が得られていた。
「じゃあ、続けてになっちゃうんですけど、私歌わせてもらいますね」と言うと、上辻も「はい、どうぞ」と応じてくれる。
タブレット端末を手に取って雫が入力した曲は、頑張っていてもなかなかうまくいかない、そんな人に対する応援のメッセージを含んだ曲だった。上辻もその曲を知っていたようで、目を瞬かせている。
始まった曲を、雫はこれまで以上に感情を込めて歌った。点数は二の次。まずは一生懸命毎日の仕事に当たっている上辻と、加えて自分をも励ましたい。
歌いながら、雫にはその思いしかなかった。