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第103話


 そうして、雫が業務に取り組んでいると、九野の少年審判の日はあっという間にやってきた。

 雫にも朝起きたときから気が逸る部分があって、やはり担当した少年の審判当日は何度味わっても慣れないなと感じる。九野の少年審判は午後からの予定だったから、雫がドキドキしている時間もより長かった。

 正午を過ぎる頃になって、両親を迎えに行っていた平賀が戻ってきて、雫も居室に九野を呼びに行く。声をかけてドアを開けたときに見た九野の表情は明らかに強張っていて、それはこれから自分の少年審判が行われるからには、当然だと雫には感じられた。

 緊張した様子の九野を両親とともに公用車に乗せて、三人は平賀の運転のもと家庭裁判所に向かっていく。

 そして、公用車が出発したのを見届けると、九野に対して雫ができることは、もう一つもなくなった。ただデスクワークをしながら、少年審判が終わることを待つしかない。

 雫は職員室に戻ると昼食休憩を挟んでから、再び仕事に取りかかった。でも、パソコンに向かっていても、雫の中からソワソワする思いはなくならなかった。

 それは九野たちを家庭裁判所に送り届けて戻ってきた平賀も同様だったようで、職員室にはどこか落ち着かない雰囲気が漂う。お互い九野のことが頭にあるからこそ、そのことを話すのは二人には憚られていた。

 雫が抱くソワソワした思いは、午後一時を過ぎて九野の少年審判が開始される時間帯になると、ますます増していく。

 九野たちはどのように少年審判に臨んでいるのだろうか。裁判官たちは九野たちに何を話しているのだろうか。雫はふとした瞬間にそう考えてしまい、目の前の仕事に完全に集中することは難しかった。時間の進み方もいつもより遅く感じられる。

 それでも、少年審判が始まってから一時間が過ぎてから、机上の電話は鳴る。それは雫がペットボトル飲料を飲んでいるタイミングで、当然電話は平賀が先んじて取ることになる。

 電話機に表示された番号から、家庭裁判所からの電話だとは雫には分かっていたし、その用件も簡単に察しがつく。それでも、平賀はただ相槌を打つだけで、電話の内容までは雫は分からなかった。

 数分話した後に、平賀が受話器を置く。雫は自分の鼓動が速まっていることを感じながら、「今の電話、家裁からでしたよね? どんな内容だったんですか?」と平賀に尋ねる。

 すると、平賀は穏やかな表情で答えた。

「はい。ただ今、九野さんの少年審判が終わったとの連絡でした」

「それで、九野さんにはどんな処遇が下されたんですか?」

「そうですね。結論から言いますと、九野さんは不処分となりました。反省が深まっていることと、被害者である安住さんや大星さんとの間で示談が成立していることなどが、決め手となったそうです。僕たちが提出した通知書も、今回の処遇に大いに寄与した形になりますね」

 平賀から少年審判の結果を聞いたとき、雫は大きな安堵に包まれるようだった。自分たちが適切だと考えた処遇がそのまま九野に下ったことに、裁判官たちも九野の態度や事情を汲んでくれたのだと感じられる。

 もちろんこの処遇が効果を発揮するかどうかは、これからの九野の過ごし方や周囲の人間の関わり方次第だが、それでも雫は、今だけは良い成果を得られたと考えていいように思えた。

「そうですか。確かに九野さんはとても反省している様子でしたからね。今回このような処遇が下って、私としても良かったと思えます」

「はい。もちろんこれから先のことは誰にも分かりませんが、僕も今回の九野さんに対しては、とりわけ適切な鑑別ができたと手ごたえを感じています」

「はい!」雫ははっきりと頷く。もしかしたらその表情は少し緩んでいるのかもしれないと、自分でも思った。

「それでは、山谷さん。これから僕は家裁に九野さんたちを迎えに行きますので、戻ってくるまでの間、九野さんの退所の準備をお願いできますか?」

「はい。もちろんです」

 雫が再度頷くと、平賀は公用車の鍵を持って、再び職員室を出ていった。

 一人残されて、誰も見ていないのをいいことに雫はガッツポーズさえしそうになったけれど、それでも今回の処遇が九野に対してどのような意味を持つかはまだ分からないので、すんでのところで堪える。

 雫は鍵を持って九野の私物が入っているロッカーを開けた。久しぶりに見た九野の私服等からは、開放感に似たような印象さえ雫には感じられた。




 九野の私服や私物を居室に持っていき、退所に当たっての手続きを雫が済ませていると、平賀が運転する公用車は一時間もしないうちに鑑別所に戻ってきた。

 玄関に行って見た三人は、父親である正忠まさただや母親である小夏が安堵した表情を見せているのに対し、九野の表情は少年審判が終わって不処分になったというのに、まだどこか固いままだった。その理由が分からないほど、雫も察しは悪くない。

 それでも、雫は九野に声をかけて、もう一度だけ居室に戻るよう促した。九野も頷いて、雫の後をついていく。最後のときになっても、右足から階段を上り始めるのは変わってはいなかった。

 雫は居室まで九野を連れていくと、私服に着替えて準備ができたらまた声をかけてほしいと促した。

 九野が頷いてドアを閉めてから、数分が経った頃だろうか。居室から「終わりました」という声がして、雫は再びドアを開ける。

 すると、そこには当たり前だけれど、私服姿の九野が立っていた。入所時以来の姿にたった三週間ほどしか経っていないのに、雫は懐かしささえ感じてしまう。

 最後にこれまででも一番優しい声で、「では、九野さん。行きましょうか」と言って、雫は踵を返す。

 でも、玄関に戻ろうとしても、九野が動く気配はなかった。

 雫が振り返ると、九野は服の裾を握って立ち尽くしている。その曇りがかった表情から、九野が今何を感じているのかが、雫にもそれとなく察せられた。

「どうしたんですか? 九野さん、ご両親が待ってますよ」

「……あの、山谷さん。今日で私はここを出てしまうんですよね……?」

「そうですね。少年審判が終わった少年を、いつまでも収容しておくことはできませんから」

「……そうしたら、私はまた学校に行かなきゃならないんですよね?」

 九野の声色は消え入るようで、雫は九野が考えていることがより正確に分かるようだった。

 九野は鑑別所を退所したら、元の高校に復学することになっている。それは冬休みが終わって三学期を迎えてから、つまり明日からの予定だ。

 もちろん、九野の処遇やASD特性のことは高校にも伝わっているし、都留からは合理的配慮も含めた受け入れ態勢を会議していると、雫も伝えられている。

 だけれど、九野はさっそく明日からまた安住や大星らといったクラスメイトと顔を合わせるのだ。そこは大人が完全にコントロールできるものではないし、九野にとっても心の準備をするには時間が短すぎるのだろう。

 だから、九野が不安に思うことも、雫には当然のことだと感じられた。


「そうですね。学校側も受け入れ態勢を整えてくれると言っていますし、それに復学を希望したのは他ならぬ九野さんではないですか。再び学校に通うための条件は揃っているんですよ」

「それはそうなんですけど、でも私また無視されたりしないでしょうか……? それにクラスメイトにも私が鑑別所に入っていたことが伝わって、今まで以上に煙たがられでもしたら、私はどうすればいいんでしょうか……?」

 九野の表情にはまだ不安が色濃くて、それはもっともなことだと雫は思う。

 少年審判は非公開で行われたし、九野が鑑別所に入所したことも秘匿されていて、そこには守秘義務も発生している。

 でも、誰かがあらぬ噂を言い立てないとも限らない。表向きは停学処分となっていても、本当の事情を邪推する人間が現れないとは、誰にも言えないのだ。

「九野さん、以前にもお話ししましたが、そういったときは逃げてもいいんですよ。保健室登校等に切り替えたり、他の高校に転校することだって、まったく認められていないわけではありません。私は何よりも九野さんの心身が守られることを、一番に願っていますよ」

「ありがとうございます。でも、今回のことを経て、クラスメイトの私を見る目は、より厳しくなってしまうと思うんです。今までもそうじゃなかったのに、また学校に通い出して急に受け入れられるようになるとは、正直私には思えないんですが……」

「大丈夫ですよ。九野さんには『tiny dancers』の曲があるじゃないですか。九野さんの高校では、休み時間にスマートフォン等で音楽を聴くことは、禁止されていないんですよね?」

「は、はい。それはそうですけど……」

「だったら、今まで通り自分の好きな曲を聴きながら、やり過ごせばいいんですよ。変わるべきは九野さん自身というよりも、九野さんの周囲だと私は思います。もし周囲が変わらなければ、九野さんも無理してそこに合わせようと変わる必要はありません。今まで通り自分の好きな曲を聴いて、落ち着いた状態で過ごしていればいいのではないでしょうか?」

「本当にそれでいいんですか……?」

「はい。音楽を聴くことで九野さんの心身が守られるのなら、私はそれでもいいと思っています。大丈夫ですよ。今のクラスメイトたちとは、高校を卒業したら、もうほとんど会うことはなくなりますから。そういった人たちのために無理して自分を合わせようなんて、それこそとても疲れてしまうことだとは思いませんか?」

「そうですね……。言われてみれば、そんな感じも少しですけどしてきました」

「はい。それとこれは少し矛盾してしまうようですが、それでも九野さんが変わりたいというのなら、私はそれでもいいと思っています。九野さんには変わる自由と変わらない自由の、どちらともがあるんです。そう考えると、少しですが気が楽になってきませんか?」

 雫の呼びかけに、九野は明確な言葉では答えなかった。でも、小さくても首を縦に振っていて、自分の言葉は届いていると雫には思える。

 九野が学校でつつがなく過ごせますように。九野の未来が少しでも良いものになりますように。別れ際になって雫はそう思わずにはいられない。

 それでも玄関では両親が待っている。九野との日々を、また新たにスタートさせようと待っている。だから、雫は一際優しい声で最後の声かけをした。

「九野さん、ご両親のもとへ行けますか? ご両親は、九野さんとこれからも一緒に過ごしていきたいと願っていますよ」

 九野が再び首を縦に振る。その意図するところは、雫にもはっきりと伝わった。雫も頷いて踵を返して歩きだすと、今度は九野もちゃんとついてきてくれる。

 二人は、一歩一歩を噛みしめるように歩く。これから先への不安と、ほんの少しの期待を抱えながら。



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