「それでは、これから今回の面接を始めさせていただきます。九野さん、よろしくお願いします」
有沙とスーパー銭湯に行ったり、実家で再び夕食を食べたりして少しリフレッシュした翌日、雫は再び鑑別所に出勤していた。全体朝礼を済ませてから、第一面接室で九野と向き合う。
「よろしくお願いします」と答えた九野は、まだどこか表情が硬い。けれども、雫は落ち着いた表情を崩さない。それどころか、少し穏やかな笑みさえ持って、雫は三回目の鑑別面接を始めていた。
「では、九野さん。改めて、あけましておめでとうございます」
「あっ、はい。あけましておめでとうございます」
「年も変わって、今年はもう二〇二五年ですね。どうですか? 新しい年を迎えてみて」
「そ、そうですね……。まだあまり実感が湧かないと言いますか……。紅白や年賀状、おせちに駅伝など、家にいた時には当たり前のように見たりしてたものがないと、少し寂しく感じます。まあ、これも私のせいと言えばそうなんですが」
「そうですか。確かにここにいると毎日同じような日が続きますから、なかなか年の移り変わりは感じにくいですよね。それでも、九野さん。何か今年をこう過ごしていきたいなどということはありますか? 今年の抱負と言い換えてもいいですが」
「今年の抱負、ですか……」そう言うと、九野は少し考え込むような素振りを見せた。もしかしたら、雫にそう訊かれるとは思っていなかったのかもしれない。
雫は、答えを探している様子の九野を温かく見守る。九野は少ししてから、再び口を開いた。
「あの、まずは人に迷惑をかけないことを第一に過ごしたいと思っています。私は去年あんなことをして、多くの人に迷惑をかけてしまったので。それにASDの特性もありますし。人に迷惑をかけることなく、じっと過ごしていきたいと思っています」
九野の返答を聞いて、雫は少し寂しくさえ感じてしまう。
九野には、自らの行いを反省する様子が見られる。それは確かに良いことだ。
だけれど、生活をしていくなかで誰にも迷惑をかけないのは、かなり難しいことに雫には思える。人は迷惑をかけあって生きていくものだし、誰にも迷惑をかけたくないと思ったら、それこそ孤立するしかない。
それは今までの九野のクラスでの過ごし方そのもので、それを想像すると雫は気が滅入ってしまいそうになる。
「いい心がけだと思います。ですが、九野さん。生きていくうえで、人に迷惑をかけてはいけないというわけでは、まったくないんですよ。というか、生きていれば人にある程度の迷惑をかけるのは、当然のことです。だから、そこまで気を張ったり、自罰的になる必要はないのではないでしょうか」
雫がそう言うと、九野はかすかに目を丸くしていた。担当技官という立場上、雫にそうを言われるとは思っていなかったのかもしれない。
九野だって、雫に受け入れられようと思って言ったわけではないだろう。だから、雫はこの話題について、それ以上深く立ち入ることはしなかった。
「は、はい」という曖昧な反応を示した九野を前に、落ち着いた表情を保ちながら、次の話題に移る。
「それでは、九野さん。ここからは、九野さんの今の気持ちを訊かせていただきますね」
「は、はい。分かりました」
「まず九野さんがSNSで誹謗中傷や性的な投稿などのなりすまし行為をしてから、少し時間が経ちましたが、どうでしょうか? そのことについて今はどのように感じていますか?」
「は、はい。やっぱりしてはいけないことをしてしまったと思います。警察に捕まってここにやって来て、しばらく考えているうちに、私がその安住さんや大星さんの立場だったら絶対に嫌だし、傷つくと感じたので。本当に悪いことをしたって思います」
九野の返答は、ある意味では模範的に雫には感じられた。ASDには想像力が弱いという面もあり、その瞬間は相手の立場に立って考えるのが難しいところもあるが、それでも時間をかけるうちに、九野も相手の気持ちに思い至れるようになったのだろう。それは雫には、好ましいことに感じられる。
九野の言葉や態度からは、うまく雫に取り入って処遇を軽くしてもらおうといった思惑は見られず、本音を話しているようだった。
「そうですか。そう考えられるようになったのは、ここでの生活もプラスに働いているのでしょうか?」
「はい。間違いなくそれはあると思います。安住さんたちから離れてみて、自分のしたことがどんなに酷いことだったのか、身に染みて分かりました。もし今の状態で過去に戻れたら、そういう投稿をしようとしている私に、そんなことは絶対にしないでと言いたいです。そんなことをしても相手を傷つけるだけだし、自分だって後悔する。いいことは一つもないんだよって、言ってやりたいです」
それは九野の、心からの反省の言葉に違いなかった。わざわざ雫たちが「反省しろ」と言わなくても、十分なほど九野が反省していることに、雫には九野が鑑別所に入所してきた意味が確かにあったと感じられる。鑑別結果通知書に記載する意見にも、前向きな影響が出てきそうだ。
でも、九野はそのことを見越して言っているわけではなく、その様子が雫の目にもいくらか好ましく映る。
「そうですね。九野さんの言う通りだと思います。SNSでのなりすましは、やはりしないことが第一ですから」
「はい。私は明らかに間違っていました。いくら安住さんや大星さんをはじめとするクラスメイトから無視をされていたとしても、そんな行動に及ぶべきじゃなかったんです。もっと私の方から話しかけたり、それも難しかったら、今まで通り気にしていないふりをしていればよかったんです。そうすれば誰も傷つくことはありませんでしたから」
「でも、それでは九野さんが傷ついてしまうのではないですか?」思わずそう口にした雫の脳裏にあったのは、去年のうちに都留から届いたメールだった。九野が無視されていたことを、一人のクラスメイトが認めていたのだ。
そのことを伝えるべきか、雫は若干迷う。そのメールは、雫の思考にも確かに影響を与えていた。
「……じゃあ、どうすればよかったんですか? 私が話しかけたとしても、安住さんたちは無視をしてしまう。それなら、私が我慢するしかなかったじゃないですか」
九野が切実な表情をしていたから、雫は九野の訴えを無視できない。おそらく自分が我慢するしかないと視野狭窄に陥っていた九野に、部外者である自分がアドバイスをすることは気が引ける。
それでも、訊かれたからには雫は答えるほかなかった。
「そうですね……。私はこんなことを言える立場ではないのかもしれませんが、それでもまずは周囲の人に相談してみてもよかったのではないでしょうか。担任や両親といった大人たちに。きっと、その人たちは九野さんの状況を改善しようと、動いてくれたと思いますよ」
「でも、もしそうしたところでうまくいかなかった場合は、どうすればいいんですか? 親や担任に言ったことで、ますます嫌われて相手にされなくなることだって考えられるのに」
「そうですね……。これはあくまで私の意見ですが、その場合は逃げてもいいのではないでしょうか」
「逃げるとは、どういうことですか?」
「例えば保健室等に別室登校したりですとか、あとは思い切って転校して環境を変えてみるですとか。とにかくクラスから距離を取ってもいいのではないかと、あくまで私はですが思います」
「……でも、逃げていいんですか? それって、とても恥ずかしいことじゃないですか?」
「九野さん。クラスメイト、いや人に対して無視をすることの方が、よほど恥ずかしいことですよ。逃げるのは恥でも何でもないんです。九野さんが学びやすい場所や、過ごしやすい場所は他にもきっとあるはずですから。それを選び取るという考え方をしてみては、いかがでしょうか」
ひょっとしたら、自分は九野の肩を持ちすぎているのかもしれない。そう思う気持ちは、雫にもある。
それでも、九野は反省が深まっている様子だったから、こう言っても支障は少ないだろうと雫は判断していた。
無視する側とされる側。どちらが恥ずかしいことをしているのかは明白だったし、それを九野に伝えても罰は当たらないだろう。
九野は「確かにそれはそうですね」などと言って、はっきりと理解を示すことはしていない。それでもわずかに開いた口から、何かを考えていることは察せられて、雫は自分の言葉が九野に届いていると、実感を得られていた。
「とは言っても、すぐにそうするのはなかなか難しいですよね。もちろん、九野さんが元のクラスに戻りたいのなら、私にもそれを止める権利はありません。それでも、私が今言ったことは、一つの選択肢として持ってみてもいいのではないでしょうか」
そう声をかけた雫に、九野も小さくだが頷いていた。自分が九野に今までとは違う考え方を提示できたようで、雫としてもわずかにだが、面接をしていて手ごたえを感じる。
大人としての自分の役割を、少しだけでも果たせているのかもしれないとすら思えた。