「ねぇねぇ、雫。仕事はどうなの? うまくいってる?」
テーブルに戻ってすぐに有沙が訊いてきたのは、今日会ってからまだ雫が訊かれていない話題だった。
でも、久しぶりに会った友人との会話には自然な話題だと思えたから、雫も特にためらわず答えられる。
「まあ、うまくいってるかどうかは分かんないけど、それでも何とかはやれてるよ」
「そう。雫の仕事って確か少年鑑別所でしょ? 正直、私まだよく知らないんだけど、どう? 大変?」
「そりゃあね。たとえ間接的にでも、その少年の人生に関わる仕事だからね。大変な部分はあるよ」
「そっかぁ。でも、それって公務員なんでしょ? いいなぁ、安定してて。お給料もいいんでしょ。ちょっと羨ましいかも」
「いやいや、それで言ったら、私の方こそ有沙が羨ましいよ。だって、クリエイティブな仕事なんでしょ。どう? 有沙の方こそ。仕事ちゃんとやれてんの?」
「雫、毎回そうやって訊くよね。なんかお母さんみたい」
「いや、でも有沙のことが気がかりなのは、本当だから。どう? 仕事は順調?」
「うん、最近は少しずつ仕事を振られることも増えてきたし、
「えっ、凄いじゃん! 確か有沙、専門出てからまだ三年目だよね? 着々と経験積んできてんね」
「うん、まあ三年目だからそろそろ戦力になってもらわないと困るって、感じなんだけどね。でも、できることも着実に増えてきてるし、今仕事がとっても楽しいんだ。事務所の人もみんないい人ばっかだし。居心地がいいから、これからもこの事務所で働いていきたいなって思ってるよ」
有沙は声を弾ませていて、心からそう思っていることが、雫にも伝わってくる。
自分と有沙は違う仕事をしているし、自分の仕事は楽しさを感じるような種類の仕事ではあまりない。それは雫にも分かっていたけれど、でも目元を思いっきり緩ませている有沙を見ると、少し羨ましいと感じてしまう。
自分の仕事が嫌なわけでは、まったくないのに。
「そっか。それはよかった。でも、ファッションデザインの仕事って大変じゃないの? ゼロからイチを生み出さなきゃならないわけだし」
「まあ、そりゃ確かに大変だなって思うときはあるよ。でも、その大変さもひっくるめて、私はデザインの仕事が好きだから。ほら、私新しいこと考えるの好きじゃん? だから、どんどんと新しいデザインを考えられる今の環境は、きっと私に向いてると思うんだ」
「でも、他の面で大変じゃない? ほら、有沙ってそそっかしいところあるから」
「オブラートに包んだ表現ありがと。でも、大丈夫だよ。私にそういう特性があるっていうのは、重々自覚してるし。だから、スマホのリマインダーアプリを活用したり、手書きでメモを書いたり、To Doリストを作ったり色々対策してる。それに、迫田さんをはじめとした事務所の人も、私の特性を分かってくれてるからね。勤務はフレキシブルタイムだし、同時に二つ以上の仕事が重ならないように、うまく調整してくれてるんだ。だから、とても働きやすいよ。ここまで理解のある職場、ないんじゃないかってくらい」
そう言う有沙は胸を張るかのようですらあって、今の環境に満足していることが雫にも窺えた。そういった特性がありながらも色々気をつけたり、周囲の人に様々な配慮をしてもらいながら有沙が前向きに働けていることは、雫にも嬉しい。
でも、その一方で九野のことを考えてしまう部分も雫には確かにあった。九野は以前までいた環境や、ASDという診断を受けて、自己肯定感が低くなってしまっている。
その違いは何なのだろう。九野にも将来、有沙のように前向きになれる日が来るのだろうか。
今くらいは仕事のことを考えないようにしようと思っても、雫は明日の今頃はまた鑑別所で勤務をしている。まったく考えないようにすることは難しかった。
「ねぇ、有沙。一つ訊いていい?」
「なになに、どうしたの急に?」
「有沙はさ、いつからそうやって自分の特性を受け入れられるようになったの?」
「うーん、いつからって言われても自然にだけど……。ていうか、どうして急にそんなこと訊いてくるの?」
「いや、私の親戚の子にそういう傾向がある子がいてさ。だから、これからどうやって接していったらいいのかなって」
「へぇ、その子ってADHD? それともASD? もしくはLDとか?」
「たぶんASDの傾向にあると思う」
「なるほどね。じゃあ、私とはちょっと違うね」
「うん。でもさ、その子なかなか自分にASDの傾向があることを受け入れられてないみたいで。こんな自分はダメだって、ちょっと自信をなくしちゃってる部分があるんだ」
「そっか。だから、訊いたんだ」
「うん。いや、もちろんASDとADHDが違うってことは分かってるよ。でも、同じ発達障害当事者として先輩である有沙の話を聞きたいなって、今話を聞いてて思ったんだ」
「なるほどね」有沙は、下唇に手を軽く当てた。それが何かを考えるときの有沙の癖だと、雫ももう知っている。
少しして、有沙が下唇から手を離す。考えるのが終わった合図だ。
「いや、私もすぐに自分の特性を受け入れられたわけじゃないよ」
「えっ、そうなの?」
「まあ、私は中二のときに診断を受けたんだけど、それまでも自分が他の子とちょっと違うなーって思ってたから。授業中もなかなか集中できなかったり、他の子と比べて忘れ物も多かったし。自分ダメだなーって、中学の頃までずっと思ってたよ。ちょうど今のその子みたいに」
「えっ、意外。高校で初めて会ったときは、あんなに溌溂としてたのに」
「まあ、その頃には時間も経って、大分自分の特性を受け入れられるようになってたからね」
「ねぇ、それってどうやったの? 改めて訊くようで悪いんだけど」
「うーん、まあ一番はやっぱり親の影響が大きかったかなぁ。私、自分が発達障害だと診断されて、自分はダメ人間だって落ち込んでたんだけど、お父さんやお母さんが何度も『そんなことない』って言ってくれて、大分救われたんだ。二人ともADHDのことはめっちゃ勉強したみたいだし、『有沙は有沙のいいところがあるんだよ』って何度も言ってくれて。あれは大きかったなぁ」
「なるほどね。やっぱり一番近くにいる親からの影響は大きいかぁ」
「うん。あとは学校とか、周囲が配慮してくれたことも大きかったかな。気が散りやすいから、なるべく多くの情報が入らないように席を前の方にしてくれたりとか、周囲の掲示物を減らしてくれたりとか、そういう配慮をしてくれたおかげで、私は充実した学校生活を送れた実感があるよ。で、その配慮は今の職場でも続いてる。本当、ありがたいことだよ」
「そうだね。私もそういった配慮は大切だと思う。でもさ、その子あまりそういう配慮を受けたくないみたいなんだよね」
「それは配慮してもらうのが申し訳なかったり、恥ずかしいってこと?」
「うん。そういうことだと思う」
「なるほどね。でも、そんな風に思う必要ないと思うけどなぁ。ほら、合理的配慮って言うでしょ。私にとっても合理的。相手や周囲にとっても合理的。だったら、やった方がよくない?」
「確かにそれはそうだね」
「でしょ。人間誰しも一人では生きられないんだから。配慮してもらったり、助けてもらうのは当然のことだよ。そこに申し訳なさや、恥ずかしさを感じる必要なんてないんだから」
「なんか、有沙立派だね。そういうことを言うなんて」
「まあね。でも、最初からそうだったってわけじゃないよ。他の人に支援してもらって、助けてもらって私はここまで来たんだから。そのことに対する感謝は、常に忘れてないつもり」
「そうだよね。助けてもらうのは、何ら悪いことじゃないよね」
「うん。人に助けてもらったことで、私は自分の特性を受け入れられるようになったし、自分のことを好きになることもできた。発達障害があってもダメ人間じゃないし、何一つ終わりじゃないってね。だからさ、その子もまずは周囲に相談してみたらいいんだよ。助けてくれる人は、きっといると思うから」
「うん、そうだね」と返事をしながら、雫は九野のことを考え続けていた。
九野は今すぐは周囲に相談することはできない。でも、自分が九野の悩みや不安を聴くことで、九野の助けになるのかもしれない。九野のパーソナリティを知られて、鑑別の役に立つこともあるだろう。
九野に接するヒントのようなものが得られた気がして、雫は「ありがと」と礼を言う。有沙も「どういたしまして」とはにかむように言っていて、二人からはまた笑みがこぼれる。
そのタイミングで報知機が鳴り、二人はできあがった料理を取りに行った。注文した料理を食べながら有沙と話していると、雫は理想的な正月を過ごせていると思えた。