「それで、どう? 雫。長野では元気にやってるの?」
「いただきます」をして夕食を食べ始めて、いの一番に秋穂が訊いてきたことは、車の中で剛が訊いてきたことと大差がなかった。電話越しに毎月のように話していても、久しぶりに顔を合わせた状態で両親が訊きたいことはやはり一つなのだと、雫は察する。
「うん、元気でやれてるよ。今のところは体調も崩してないし、仕事も何とかできてると思う。宿舎での一人暮らしにも大分慣れてきたし、これといった問題のない、落ち着いた日々を過ごせてるよ」
「そう。でも、長野はどうなの? 東京とは色々勝手が違うでしょ?」
「いや、そんなには違わないよ。確かに規模が小さいのは否めないけど、それでも必要なものは大体揃ってるし。それに東京と比べると、やっぱり人が少ないから落ち着いてる部分はあるよ。けっこう過ごしやすいかな」
「それはよかった。で、ほら、長野といえばあそこでしょ。善光寺。雫はもう行ったの?」
「うん、行ったよ。二回。本堂は堂々としていて凛々しくて、背筋が伸びるなって思った。中に入ってお参りしたときも気持ちが引き締まったし、参道の途中にあるお店で食べたお蕎麦も美味しかったよ」
「そっか。お母さんたちも今度行ってみたいなぁ」
「うん、よかったら来てみてよ。休みが合えば、私も付き合うから」
「そう? ありがとね」おせちを食べながら、家族三人で和やかな会話を交わす。それはしばらく実家から離れていた分、想像以上の安らぎと幸福感を雫にもたらしていた。大学時代も都心の大学に通うため、大学の近くで一人暮らしをしていたのに、今感じている安心感はそのときの比ではない。
やはり両親から遠く離れてみて、心細く思っていた部分があったのだと、雫は改めて思い知る気分だった。
「ところで、どうなの? 雫。仕事の方は? 色々大変じゃない?」
秋穂がそう訊いてきたのは何気ない雑談の流れからだけではないと、雫は察する。
秋穂は毎月のように雫に電話をかけてきては、同じようなことを訊いている。その度に雫の答えることも似通ってきているものの、やはり顔を合わせたら心配に思う気持ちが再燃したのだろう。
だから、雫も安心させるように落ち着いた口調を心がけた。
「そりゃまあ大変じゃないって言ったら嘘になるけど、それを言ったらこの世に大変じゃない仕事なんてないからね。その少年と深いところで接する仕事だから、大変だなって思うときもあるけど、それでもどうにかやれてるよ」
「確かに少年鑑別所って大変そうだもんな。非行に及んだ少年は一筋縄ではいかなさそうだし。それに土日も正月もないんだろ。元日の今日だって、仕事してたんだし」
「お父さん、イメージだけで物を語るのはどうかと思うよ。鑑別所にやってくる少年の性格や態度は、それこそ人それぞれなんだから。それにカレンダー通りではないとはいえ、週に二日はちゃんと休めてるし、心配はいらないよ」
「でも、もう明日には帰っちゃうんでしょ?」
「そりゃ、まあ仕事があるからね。ごめんね、お父さんもお母さんも。全然ゆっくりしていけなくて」
「いやいや、俺たちは全然構わないよ。雫が一日早く帰ってきてくれただけで嬉しいし。仕事が理由なら、俺たちは責めるわけないよ」
「そうだよ、雫。謝らなくたっていいよ。雫が立派に働いてることが、お母さんたちにとっては何より嬉しいんだから。短い時間だけど、ゆっくりしてってよ。あっ、お風呂沸いてるから、よかったらご飯の後入ってね」
「うん、そうする」
ご飯を作ってもらった上に、風呂まで用意してもらえる。一人暮らしではなかなか味わえない至れり尽くせりの環境に、雫の心は大いに緩んでいく。普段はシャワーで済ませているから、久しぶりに湯船に浸かったら、身も心も十分なほど休めることができるだろう。
雫はありったけの感謝の思いを込めて、「ありがとね。お父さんもお母さんも」と口にする。二人は満面の笑みで応えていて、それは今日のうちに帰ってきたことが正解だったと、雫に思わせた。
それからも、雫たちはおせちを食べながら会話に花を咲かせる。剛や秋穂の仕事の話や、趣味の話など。
しばらくこういった雑談ができていなかったこともあって、取り留めのない話でも、雫の心は大いに持ち上げられるようだった。明日で帰ってしまうのが惜しいと、早くも感じられていた。
おせちを食べてから一時間ほどをかけてゆっくり風呂に入った雫は、風呂から上がると剛たちと少し話しただけで、自分の部屋に向かっていった。仕事と移動の疲れは意識しなくても確かに溜まっていて、日付が変わる前に眠気がやってきていたからだ。
部屋に入ると、学習机や本棚、ベッドなど中は雫が最後に(去年の正月に)入ったときと何一つ変わっていなくて、雫は懐かしさを感じる。掃除が行き届いていることや、すでに暖房が入っていることにも剛たちの心遣いを感じて、胸が暖かくなる。
そして、雫はそのままベッドに入ると目を瞑った。初夢は、元日の夜に見る夢を指すらしい。どんな初夢が見られるのか、少し期待する感覚も雫にはあった。
それでも、結局夢らしい夢は見ずに雫が目を覚ましたときには、外は明るくなっていた。スマートフォンを確認すると、もう朝の八時を過ぎている。普段だったらもう鑑別所に出勤している時間帯だから、ここまで眠っていたのは雫には久しぶりだ。それだけ実家が心地よかったということだろう。
雫がリビングに行くと、既に剛たちは起きていて、テレビで始まったばかりの駅伝を見たり、朝食の準備をしていたりしていた。
雫も二人に「おはよう」と挨拶をして、こたつに入り何となく駅伝を見る。スタートしたばかりの駅伝は、まだ大きな集団が鎬を削り合っていた。
そのまま雫たちがのんびりと駅伝を見ていると、最初のタスキ渡しがされるという場面で秋穂が「ご飯できたよ」と声をかけてくる。
雫たちがダイニングテーブルに向かうと、テーブルの上には昨日のおせちの残りと、餅が一つ入った雑煮が用意されていた。正月の朝の山谷家の定番のメニューに、雫もなじみ深く思う。口にした雑煮のあっさりとしたしょうゆ味に安心感を覚える。
三人で時折テレビに目を向けながら、今行われている駅伝のことや、最近の近所の出来事について話す。二軒隣の
朝食を食べると、雫は出かける準備を始める。パジャマから外出着に着替え、洗面台で簡単なメイクを施す。
そして、必要な荷物を持ったところで、剛に「お父さん、車借りるよ」と声をかけた。今日の日中車を使わせてもらいたいということは、帰る前、去年のうちに話しておいたので、剛も「ああ、気をつけてな」と、快く車の鍵を貸してくれた。
雫にとっては年に数回しか乗らない剛の車でも、運転自体は鑑別所の仕事で慣れているから、何の気がかりもなく運転できる。通っていた高校へ向かう通学路も、運転席から見るとまた違った景色に見える。
正月だからか外を歩いている人はまばらで、道端にはいつ降ったのかも分からない雪が、少しだけ残っていた。
一〇分ほど車を運転して、雫はとあるマンションの駐車場に車を停めた。エレベーターを五階で降りて、手前から二番目の部屋のインターフォンを押す。
すると、ドアを開けたのは秋穂と同じくらいの年齢の女性だった。「あら、雫ちゃん。あけましておめでとう」と和やかな顔で言う女性が誰だか、雫も当然知っている。
「はい。
「うん、いるよ。今起きたとこだけどね。何なら呼んでこようか?」
「いえ、大丈夫です」
「そう? あの子、準備ができるまでもうちょっとかかると思うから、よかったら上がってかない?」
「いえ、お気遣いなく。こちらで待たせていただきます」
「そう? 遠慮しなくてもいいのに」
さすがに数分間だけ家にお邪魔するのは気が引けたので、雫は「本当に大丈夫です」というように小さくかぶりを振った。美佐子も納得したようで、リビングに向かっていって「有沙、雫ちゃん来たよ」と告げている。
それに反応する「えっ、もう!?」という声は間違いなく
雫がそのまま玄関で待ち続けて、一〇分ほどが経った頃だろうか。キャラクターが描かれた大きめのトートバッグを持った有沙が、雫の前に現れた。
「ごめん、雫! 遅くなって!」と手を合わせて謝る姿も毎度のことだから、雫もさほど気にしない。有沙が自分を待たそうと思って待たせているわけではないことは、雫にも分かっていた。
「大丈夫だよ、謝らなくて。有沙がわざとやってるわけじゃないのは、私にも分かってるから。それよりどう? 忘れ物はない?」
「うん。えっと、タオルに着替えでしょ。あと財布にハンカチに……。あっ、スマホ忘れた! 今取ってくるね!」
そう言って、有沙は踵を返してリビングに戻っていった。これも有沙にはよくあることだから、雫は今さら大した感情を持たないし、むしろ出かける前に忘れ物に気づけて良かったとすら思える。
有沙がスマートフォンを手に戻ってくると、雫はリビングの方に向かって「じゃあ、美佐子さん。いってきます」と声をかけた。有沙も「いってきまーす」と続くと、リビングからは「いってらっしゃい」という返事が返ってくる。その声に少し頬を緩めながら、雫たちは有沙たちの部屋を後にした。