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第96話


 二時間以上にもわたる一人カラオケを満喫した雫は、翌日になると多少はリフレッシュした状態で、鑑別所に出勤していた。自分の机に着いてパソコンを立ち上げる。

 すると、メールソフトに数件のメールが来ていた。雫がそれらを確認し始めると、家裁調査官や付添人の弁護士といった見慣れた面々の中に、初めて見る送信者が混ざっていた。

 九野の担任である都留が、メールを送ってきていたのだ。面談をしたときに、雫は自分のメールアドレスが記載された名刺を渡していたから、そのこと自体は驚くには値しない。

 それでも、どうしたのだろうと思ってメールを開く。そして、丁寧な文章で綴られた本文を雫は読み始めた。

「日に日に寒さが増していく今日この頃、山谷さんはますます忙しくしていることと思います。そんななかで恐縮ながらも今回メールを差し上げたのは、九野さんについて新たに分かったことがあるからです。今日、九野さんのクラスメイトである瀬波せなみさんが、僕のもとに話に来てくれました。瀬波さんが言うところには、確かにクラスには九野さんを無視する空気があったと。時折コミュニケーションが不得手な九野さんをからかって、笑い者にしていたこともあったとのことでした。正直、僕が受け持っているクラスでそのようないじめ紛いのことが行われていたことは、すぐには受け入れられませんが、それでも瀬波さんは本当のことを言っている様子でした。もちろん、まだ九野さんがいじめを受けていたと決まったわけではありません。それでも、九野さんを担当している山谷さんにはこのことを伝えておくべきだと考え、今回ご連絡差し上げました。ご理解のほどをよろしくお願いいたします」

 メールを読み終えた雫は、その内容にはっとするようだった。

 もちろん九野が言っていたことが嘘だと思っていたわけではないが、他のクラスメイトからの証言に、九野がクラスで無視されていて孤立していたことが、一気に現実味を帯びてくる。

 雫は手早く「ご連絡ありがとうございます」といった簡潔な返信を都留に送ると、座ったまま今一度職員室内を見回した。とはいっても、今職員室にいるのは雫と湯原、それに那須川くらいのもので、別所と平賀は少年の行動観察に出ている。

 だから、すぐにメールの内容を平賀と共有できないことに少し歯がゆさを感じつつも、それでも雫は都留からメールが届いたことを、那須川に報告しに行く。その間も雫の頭では、九野のことがぐるぐると周り続けていた。




 雫は全体朝礼を終えてから、都留からのメールが届いたことを戻ってきた平賀に伝えた。その内容を確認すると、平賀も顎に手を当てて、少し考え込む素振りを見せていた。

 九野が面接で話したことは当然、雫は平賀と共有している。ひとまず九野がクラスメイトから無視されていたことは、まだ本当かどうか分からないから、慎重に取り扱おうという話になる。来週に控えている九野の三回目の鑑別面接でも話すかどうかは、よく検案して決めようと。

 その平賀の判断に、雫も同意する。デリケートに扱うべき事項なのは、二人ともが言わずもがな分かっていた。

 雫が返信を送ると、都留からのさらなる返信はその日のうちに届いた。でも、その内容を見て、雫はほんのわずかにでも落胆してしまう。

 高校は昨日のうちに二学期の終業式を終えたようで、生徒からの話はそれこそ三学期にならないと聞けないらしい。その頃には、雫たちはもう鑑別結果通知書を家庭裁判所に提出しているから、より詳しい話は反映できないことになる。

 雫は少し歯がゆさを覚えながらも、それでもしょうがないと自分を納得させた。どのみち一人だけでもクラスメイトが九野のことについて話してくれたのは、大きな前進だった。

 それからも雫が勤務を続けていると、一日一日は着実に過ぎていき、気がつけば大晦日を迎えていた。

 とはいえ、少年鑑別所はその性質上、三六五日休みがない。だから、雫もいつも通り出勤していた。

 でも、普段と同じようなデスクワークを行っていても、今日が大晦日だという実感は雫にも確かにあり、人知れずソワソワしてしまう。もちろん仕事はちゃんと行うが、それでも職員室には年の瀬特有の、落ち着かない感じが漂っていた。

 そんななかでも仕事を終えた雫は、残っている職員に向けて「よいお年をお迎えください」と声をかける。休みとなっている湯原以外は、明日も顔を合わせるというのに、「よいお年を」と返されると、雫の心はどことなく弾んでいくようだった。

 年が明けて元日になっても、鑑別所に特に変わったところはなかった。正月飾りも出ていないし、変化といえば卓上のカレンダーが新しいものになったくらいだ。顔を合わせる面々も、休みの湯原以外は変わらない。

 それでも、雫はどこか新鮮な気持ちを持って、業務に臨んでいた。少年との面接のときに「あけましておめでとうございます」と口にすると、少しこそばゆい感覚がする。

 年が変わっただけで、所内の空気も新しいものに入れ替わったかのようだった。

 その日の仕事を終えた翌日、一月二日は雫には休みとなっていた。

 宿舎に戻った雫は、着替え等の荷物をリュックサックにまとめ、そのまま自転車に乗る。目指すは長野駅だ。年始だから、雫は東京の実家に帰省する計画を立てていたのだ。

 もちろん日付が変わってから帰ることもできたが、それでも雫は少しでも長く両親と顔を合わせていたかったし、昔からの友人とも過ごしたかった。だから、仕事を終えたその足で実家に帰ることにしたのだ。

 長野駅に着くと、人の姿は意外なほどまばらで、雫は今日が元日ということを再認識する。

 駅の印象とともに、乗った新幹線も今までに経験したことがないほど空いていた。自由席でも誰の隣にもならずに難なく座れたくらいだ。

 新幹線が発車すると、雫はスマートフォンでSNSを見たり、電子書籍を読んだりして時間を潰す。仕事で疲れていたので、軽く眠ったりもした。

 少しでも運賃を節約するために、雫は大宮駅で降りて埼京線に乗り換える。そして、新宿駅で中央線に乗り換えて、電車に揺られること三〇分ほど。雫は実家の最寄り駅に到着した。久しく訪れていなかった場所に、新鮮さと懐かしさがする。

 そして、駅前に駐車されていた見覚えのある車に、雫は向かった。念のため運転席を確認する。

 すると、そこには雫の父親であるつよしが座っていて、雫の心はほだされた。助手席に座り、「こんな遅くまでありがと」と、雫は剛に声をかける。剛は「全然、大丈夫だ」と答えていて、もう夜の九時を回ったこの段階での運転を、少しも苦にしていない様子が窺えた。

 実家に向かっている間、車を運転しながら剛は「元気でやってるか?」「仕事はどうだ?」としきりに雫に話しかけてきていた。

 体調面はともかく、仕事面は実の両親とはいえ守秘義務は発生しているから、雫はそこまで詳細に答えられない。だから、返事も曖昧なものになってしまって、車内での会話はさほど盛り上がらなかった。

 それでも、剛の運転する車に揺られること二〇分ほど。雫は実家に辿り着く。一軒家の堂々とした佇まいに、久しぶりだからか安心を感じる。

 ドアを開けて「ただいまー」と言うと、リビングから母親である秋穂の「おかえりー」という声が聞こえてくる。それだけで、雫の心は大いに落ち着いた。

「あけましておめでとう」と新年の挨拶を交わすと、まだ夕食を食べていなかった雫は、ダイニングに案内された。ダイニングテーブルには三段重ねになったおせちが用意されていて、このほとんどを秋穂が作ったと思うと、雫には頭が上がらない思いがする。

 剛たちも雫が帰ってくるまで、夕食を待っていたようで、三人はダイニングテーブルに集まった。剛が冷蔵庫から缶ビールを取り出す。「雫も呑むか?」との言葉に、雫も小さく頷いた。


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