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第95話


 その日休みだった雫は、疲れが少し溜まっていたこともあり、昼前になってゆっくりと起き出していた。余裕を持って昼食を食べ、電子書籍を読んだり、配信されているドラマを見たりする。

 そして、外が暗くなる少し前に宿舎を出た。外は雪が降っていたこともあり自転車には乗れず、雫は歩いて長野駅前に向かう。外で夕食を食べる以外にも、雫にはしたいことがあったからだ。

 寒さに身を縮こまらせながら駅前に到着すると、雫は駅からもほど近いカラオケ店に入った。今時一人カラオケは珍しくもなんともないし、休みの日に思いっきり歌って心をリフレッシュさせるのは、雫の休日の過ごし方の一つでもある。

 普段のようにドリンクバーつきで部屋を予約し、入ると雫は真っ先にタブレット端末を手に取った。雫はもう一人カラオケには慣れていたし、どんな曲を歌いたいかも歩きながら少しは考えてきている。だから、曲を入力するのも迷わなかった。

 雫は好きな曲だけを歌う。他の人とのカラオケなら、気を遣ってその人も知っているであろう曲を選ぶが、一人カラオケならその必要はない。

 だから、世間的にはまだまだあまり知られていないであろうバンドやミュージシャンの曲も、雫は気兼ねなく歌うことができた。好きな曲を感情をこめて歌っていると、雫にも楽しいという気持ちが湧いてくる。

 もちろん、法務技官は自分で選んで就いた仕事だが、それでも大変さを感じていないと言ったら嘘になる。だから、休みの日くらいは自分の好きなことをしてもいいだろう。

 雫は、ほとんど休むことなく歌い続けた。自分の歌を疎ましく感じることもなく、心地よい気分に浸れていた。

 一時間ほど歌い続けたところで、コップが空になったので、雫は二杯目を飲むために再びドリンクバーに向かった。

 だけれど、ドリンクバーには先客がいて、それは雫にも面識がある人物だった。頭の中で名前を思い出しながら、雫はひとまず「こんにちは」と挨拶をする。

 すると相手もドリンクを手に取って、穏やかな表情を雫に向けてきた。

「こんにちは、山谷さん。確か一ヶ月ぶりくらいですよね」

 雫の名前を覚えていた上辻は、なんてことのないような表情で返事をしていた。だから、雫もさほど肩ひじを張ることなく会話を続けられる。

「はい、お久しぶりです。上辻さん。今日は非番なんですね」

「はい。家にいてもさほどやることがあるわけではないので、今日も来ちゃいました。ここじゃないと、なかなか思いっきり歌うことはできませんからね」

「そうですね。あの、上辻さんは今日もお一人なんですか?」

「はい。お恥ずかしながら」

「いえいえ、全然恥ずかしいことなんてないと思いますよ。ヒトカラは今じゃまったく普通ですし。かく言う私も、一人で来ることが多いですから」

「そうですか。じゃあ、僕たち一緒ですね」

 上辻の言葉に、雫も小さく頷く。同じ一人カラオケをしている者同士、連帯感のようなものさえ生まれてきている。

 それは上辻も同様だったのだろう。ドリンクを注ぎ終えても、すぐにドリンクバーから立ち去ってはいなかった。

「あの、ちなみに山谷さんって、普段どんな曲を歌われているんですか?」

 一歩踏み込まれるように訊かれて、雫は即答できなかった。「そうですね……」と間を稼ぎつつ、適当な返答を探す。

 普段雫が聴いたり歌ったりするのは、決して世間一般に知られているとは言えない、バンドやミュージシャンの曲が中心だ。でも、正直にそれを挙げたとしても、上辻が知っているとは限らない。

 だから、雫は上辻でも知っていそうな、比較的有名なバンドやミュージシャンを挙げることにした。

「ロック系の曲を歌うことが多いかもしれないです。エリソンとかレオセアラーズとか。そのへんのバンドを中心に」

「そうなんですか。その二組は僕も知っていますし、よく聴きますよ。えっ、他にはどんなバンドやミュージシャンが好きなんですか?」

「アンデルソンやマテウスゼビオ。あとは泡沫花火なんかも好きですね。って、上辻さんご存知ですか?」

「はい、三組ともよく聴いたり歌ったりします。えっ、じゃあ山谷さん、もしかしてオリヴェイラも聴いたりしてますか?」

「はい、私もオリヴェイラは好きですよ。『眠らない街』とかいいですよね」

「はい。もしかしたら僕たち、音楽の趣味とか好きな曲似てるのかもしれないですね」

 軽く声を弾ませた上辻に、雫も「そうですね」と頷く。

 思えば雫は長野に配属されてから、仕事以外での人との関係をあまり持てていなかった。それが音楽の趣味が合う相手だったらなおさらだ。

 雫は、上辻に親近感を抱き始める。他にはどんなバンドやミュージシャンを聴いているのだろうと、興味さえ湧いた。

「あの、山谷さん。もしよかったら、今度一緒にカラオケしませんか?」

 上辻からすれば、きっとそれは話の流れに沿った提案だったのだろう。だけれど、その言葉は雫が抱き始めていた好奇心を軽く飛び越えていたから、雫は思わず「えっ!?」と素っ頓狂な声を出してしまう。

 雫の反応に上辻も我に返ったのか、顔を赤らめている。ドリンクバーの周囲には、奇妙な空気が流れ始めていた。

「あっ、いや、すいません。なんかこれじゃナンパみたいですよね。すいません、今のは聞かなかったことにしてください」

「いえいえ、それは……。えっ、でも上辻さんは他にカラオケを一緒にできるような人は、いらっしゃらないんですか?」

「ま、まあ、お恥ずかしながら……。別に友達がいないわけじゃないんですよ。でも、この仕事に就いてると休みも平日が多くて、なかなかその友達とは予定が合わないといいますか……。いや、でもだからといって、山谷さんに声をかけるのは違いますよね。まだ数えられるくらいしか会ってないですし」

 そう言う上辻の口調はどこかしどろもどろで、それがかえって嘘をついているわけではないと、雫に感じさせた。

 雫だって、別に一人カラオケが嫌なわけではない。でも、大学時代はよく友人とカラオケに行っていて、そのときの思い出が今も残っているのは確かだ。

 ここで無下に断るのは、あまりに冷たく見られないだろうか。いくつもの考えが雫の頭に去来し、声になって抽出される。

「いや、私の方は全然大丈夫ですよ。こっちに来て、音楽の話できる人ほしいなと思ってましたから。上辻さんはいかがですか?」

「あっ、はい。僕も音楽の話ができる人は、いてほしいです。友達ともなかなか会えなくなってしまった今だとなおさら」

「そうですか。じゃあ、今度予定が合ったときにでも、一緒にカラオケしますか」

「えっ、いいんですか?」

「ええ、大丈夫ですよ。私も上辻さんがどんな曲を歌うのか、興味が出てきましたし」

「は、はい。ありがとうございます。じゃあ、予定を確認するために、連絡先でも交換しておきますか?」

「はい。ラインでいいですか?」

 雫の提案に上辻も頷き、二人はスマートフォンを取り出した。QRコードを表示させて、ラインを交換する。

 すると、雫のホーム画面の一番上に「上辻洋海」の名前が追加された。思えばこうして誰かとラインを交換したことは、長野に来てからは職場を除けば初めてだったから、雫にはそれが異性相手だということを抜きにしても、なんだかこそばゆく感じられる。

 同じように思っているのか、「あの、これからよろしくお願いします」と言った上辻もどこか照れくさそうだ。雫も「はい、よろしくお願いします」と返す。

「では、僕はこの辺で失礼させていただきますね」と伝えて、ドリンクが入ったコップを持って、自分の部屋に戻っていった上辻を少し見届けてから、雫も機械にコップを設置する。

 どのドリンクにしようか迷っている間も、雫の心は少し浮かれてしまっていた。

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