「それでは、九野さん。続いては九野さんの家庭環境について、今一度訊かせていただきます」
話に一つの区切りがついたことを感じて、雫は話題を転換した。九野もおずおずとながら頷いている。
それでも、九野の口から話される家庭環境は、雫にとっては真新しい情報に乏しいものだった。九野は一軒家で両親と三人で暮らしていて、世帯収入も平均以上にあって、日々過ごすなかでもさしたる問題は見られない。それが雫が九野から聞き取った、九野家のあらましだった。
訊かれたことにだけ答えるといった九野の姿勢に、家庭環境の話題もすぐに終わり、雫は少しだが空を切るような感覚を味わう。
きっとそれは、取り立てて話すことが少ないからだろう。だから、雫も根掘り葉掘り訊くことは控えた。
「それでは、九野さん。今回の面接は以上となりますが、最後に何か九野さんの方から、訊いてみたいことなどはありますか?」
それからもいくつか鑑別の参考になりそうな事柄を雫が訊いていると、面接時間は一時間に近づいてくる。ただでさえ鑑別面接は受ける側からすれば神経を使うし、九野もそろそろ疲れてきている頃だろう。
だから、雫は話題のキリがよくなったところで、今回の面接も終了させる旨を九野に告げた。
九野も心なしか胸をなでおろしているように、雫には見える。この緊張する時間から早く解放されたいと、発せられる雰囲気が語っているかのようだ。
「いえ、特にはないです」
そう答えた九野は、早く面接を終えたいという思いを隠しきれてはいなかった。様々なことを訊かれて負担に感じているのは、雫にも理解できる。
それでも、雫はそのまま面接を終わらせはしなかった。今回の面接で訊こうと思っていたことは、まだ残っていたからだ。
「そうですか。では、九野さん。最後に私の方からもう一つだけ、お訊きしてもよろしいですか?」
九野としては「は、はい」と答える他なかっただろう。雫としても、九野に余計な負担はかけたくない。だから、前置きは抜きにして直接的に尋ねた。
「ありがとうございます。九野さんは入所時のオリエンテーションの際に、最後何かを訊こうとしていましたよね。あれは何を訊こうとしていたのでしょうか?」
雫がそう尋ねると、九野は答えに窮する様子を見せていた。「いえ、あの……」といったはっきりしない反応からは、訊くかどうか迷っている心のうちが察せられる。
雫にも無理はしないでいいという気持ちと、どうにか話してはくれないかという気持ちの両方がある。それでも内心は後者に傾きつつあったから、雫はせめて話しやすい雰囲気を出せるように心がけた。
「いえ、やっぱり何でもないです」
九野のその言葉選びや、歯に物が詰まったような言い方から、九野が何か言いたがっていることは、雫にも明白だった。
それでも今この場で言わないという判断を選択したのなら、雫としてもそれを尊重したい。ここで言うように強制しても、かえって九野は口を閉ざしてしまうだろう。雫にもまだ九野と面接をする機会は残されていたし、日頃の生活の中で担当教官である平賀に打ち明けることも、十分に考えられる。
だから、雫は「分かりました」と頷くと、「では、今回の面接は以上になります。九野さん、お疲れ様でした」と声をかけて二回目の鑑別面接を終了させた。九野も小さく頷いている。
でも、その表情にはまだ雲が覗いていて、まだ自分がASDであることを受け入れられていないことや、言いたいことを言えなかったと思っていることを、雫は改めて感じていた。
「上辻、今日事情聴取を行った少年の調書、まだできてないのか?」
上辻がパソコンと向き合いながらキーボードを叩いていると、ふと万里が話しかけてきた。待ちかねているといった声に、上辻もパソコンから顔を上げる。
既に外は暗くなってから大分経ち、課内にいるのは二人くらいだった。
「はい。あともうちょっとで終わります」
そう返事をしながら、上辻は万里の顔を仰ぎ見る。その表情は、少し倦んでいると言ってもよかった。
「そうか。今どこまでできてる? ちょっと見せてみろ」
先輩で役職も上の万里に言われれば、上辻は従うほかない。マウスを譲ると、万里は上辻が作成途中の調書を冒頭から確認し始めた。
万里が画面をスクロールして目を通している間、上辻は緊張するような、喉が渇くような心地を味わう。万里の横顔は気になったけれど、まざまざと見ることもできなかった。
「うーん、ちょっと細かく書きすぎじゃないか?」
調書の今できている部分まで目を通して、万里がため息交じりに言う。
「それはどういうことでしょうか?」
「まあ要するに、もっと要約しろってことだな。いくら少年事件は減ってきているとはいえ、俺たちもこれを読む家裁の人間も、時間は無限にあるわけじゃないから。もっと効率よく的確な書き方をしないと」
「そうですかね……。僕としては今書いていることが、全部必要なことだと思ってるんですが……」
「いや、俺だったらこの三分の二にまとめられてるな。で、もう仕事を終えて家に帰り始めてる」
「でも、そうしたら調書の内容が薄くなってしまいませんか……?」
「だから、簡潔かつ内容の濃い調書を書く必要があるんだよ。要点を適切に抽出して、文章ももっとシンプルにして。まだ二年目のお前には、なかなか難しいかもしれないけどさ」
「そうですか。では、一から書き直します」
「いや、その方が余計時間かかるだろ。ひとまずこの調子で最後まで書き進めてくれればいいよ。で、書き終わったら、俺の机に提出してくれ。明日朝一番でチェックするから」
「分かりました」
「ああ、じゃあ俺もう帰るけど、他に何か訊いておきたいことはあるか?」
「いえ、もう大丈夫です」
「そうか。じゃあ、消灯よろしくな。お前も早いとこ帰れよ。家でゆっくり身体を休めるのも、仕事のうちなんだからな」
「分かりました。万里さん、今日も一日お疲れ様でした」
「ああ、お疲れ。じゃあ、俺先に失礼するな」
「はい」そう上辻が頷くと、万里は自分の席に荷物を取りに戻って、そしてそのまま課内を後にしていた。
一人残された課内で、上辻はかすかに心細い思いを味わう。自分もなるべく早く調書を書き上げて、帰らなければならない。
上辻は、再びパソコンに向かった。でも、調書を完成させることにはまだ少し時間がかかって、上辻はふとした瞬間に「自分は何をやっているのだろう」と思いに囚われてしまっていた。