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第92話


 鎌本による診断の告知は、一五分ほどで終わった。

 きっと九野と小夏は今の診断を受けて、話がしたいことだろう。だけれど、鑑別所ではたとえ親と子であっても、面会以外で言葉を交わすことは認められていない。

 だから、雫たちは二人を引き離すしかなくて、それが仕事だと分かっていても、二人の心情を想像すると雫には少し胸が痛む思いがした。

 雫は九野を連れて居室に、平賀は小夏を連れて鑑別所の外にそれぞれ向かっていく。二人は「じゃあ、またね」と最後に言い合って、素直に雫たちに従っていた。

 居室に九野を戻すと、雫は「では、次は午後五時の夕食の際に、また声をかけに来ます」と伝えて、居室を後にしようとする。それでも、九野はぼそりと呟いた声で、雫を呼び止めていた。

「山谷さん、私って障害だったんですね」

 そう言う九野の声は、痛切な響きを帯びていた。まるでもう何もかも終わりだと言うかのように。

 でも、雫はそんなことはないと九野に分かってほしかった。合理的配慮を受けながら、社会の中で大きな不自由をせずに生活している人もいる。それは鎌本だって言っていたのに。

「九野さん、ASD、自閉スペクトラム症は障害ではないですよ。発達の多様性です。それは、鎌本先生だって説明してたじゃないですか」

「でも、それって私が劣ってるってことですよね。コミュニケーション能力とか色々」

「そんなことはないですよ。ただ単に、発達の違いだというだけです。誰でも得意なこともあれば苦手なこともある。それは当たり前のことではないですか?」

「でも……」九野はまだ雫の言葉にも、自分が受けたASDの診断にも、完全に納得しているようではなさそうだった。今まで自分がそうだとは知らずに生きてきたのだから、ショックを受けていても仕方はないのかもしれない。

 今の九野を元気づけるためには、どんな言葉をかければいいか。それが雫には、いまいちよく分からなかった。

「九野さん、また明後日私との面接がありますよね。よろしければ、そこで色々話しましょう」

 少し迷った挙げ句、雫は課題を先送りにすることを選んでいた。もともと居室で長話もできない。

 九野も小さく頷く。そして、雫は「では、また明後日。よろしくお願いしますね」と言うと、九野の居室を出てドアを閉めた。

 正式にASDと診断された九野に、次からどのように接していけばいいか。職員室に戻りながら、雫が考えることはそれだけだった。




 鎌本による九野の診察があった翌日は、雫は休みだった。一週間働いて、頭も心も疲れている。

 それでも、雫はゆっくりと羽を伸ばすわけにはいかなかった。幸い身体の方はあまり疲れていなかったので、雫は午前九時には目を覚ますことができる。

 そして、朝食を食べると雫は外に出て、自転車を漕ぎだした。十数分ほどかけて、長野駅の近くにある県立図書館へと向かう。そして、到着した雫は、ASDや発達障害についての本を、何冊か借りた。たとえ一日しかないとしても、何もしないよりはマシだろう。

 宿舎に戻った雫は、ひたすら借りた本を読む。明日九野にどのように接しようか、頭の中でイメージを組み立てながら。

「それでは、今日の面接を始めたいと思います。九野さん、よろしくお願いします」

 二回目の鑑別面接の当日になって、雫たちは第一面接室で向かい合って座っていた。緊張した面持ちで「よろしくお願いします」と答える九野。

 雫は穏やかな表情を心がけたが、それでも面接室の空気は和やかだとは言い難かった。

「いかがですか? 九野さん。ここにやって来てからもう一週間以上が経ちますが、鑑別所での生活は慣れてきましたか?」

「い、いえ、まだ慣れないです。寝る時間も起きる時間も私が家で生活していたときとは違っていますし、食事も不味くはないんですけど、毎日違うものが出されて。ここ固有の生活リズムには、まだ慣れていないというのが正直なところです」

「慣れていない」という言葉を二回繰り返したことから、九野が本当に鑑別所での生活への順応に苦労していることを、雫は察する。

 九野にはASDの特性の一つである強いこだわりがあることは、雫も認識済みだ。きっと家ではずっと固定された生活パターンで暮らしていたのだろう。それを急に変えることは、苦労があってもおかしくない。

「そうですか。まあ今までとはまったく異なる鑑別所での生活に、一週間で慣れろという方が難しいですよね。私としては九野さんの精神的な負担を減らすためにも、なるべくここでの生活に慣れてほしいのですが」

「はい。私もそうしたいところなんですけど、なかなか……。もしかしたら退所するその日まで、慣れることはないかもしれません」

 そう言った九野に、正直だなと雫は思う。率直に自分の思いを述べられているのはいいことだが、それでも担当技官である雫がどう思うのかは考えないのだろうか。これもASDの特性である、他人の内心を想像しづらいことから来ているのだろうか。

 いずれにせよ、雫がすることと言ったら、穏やかな表情を保ったまま面接を進めることだった。

「それでは、九野さん。改めて今回の非行事実について、確認させていただきます」

 雫がそう話題を変えると、九野は表情をかすかに強張らせていた。本人にとっては訊かれたくないことでも、雫には今一度確認して、九野自身がどう思っているのかを知る必要があった。

「九野さんは今年の九月から一一月にかけて、会員制SNSサービスであるインタグラハムで、安住佐柚あずみさゆさんや大星輝来おおぼしきららさんといったクラスメイトを騙るアカウントを作成し、誹謗中傷や性的な投稿など当人たちの名誉を傷つけ、また侮辱する行為に複数回に渡って及んだ。これは間違いないですね?」

「はい、間違いないです」九野の認める態度は、二回目の面接でも変わらなかった。ここで否認しても何にもならないことは、しっかりと分かっているらしい。

「そうですか。では、今回のような行動に及んだきっかけは、何か九野さんの中であるものなのでしょうか?」

「山谷さん。それは前回の面接のときにも言いましたよね。報復ですよ。私をいじめていたクラスメイトに対する仕返しですよ」

 九野はさも当たり前のようにそう言っていて、それを聞いた雫がどう思うかは、あまり考えていないようだった。想像力が不足する傾向にあるASDの特性がここでも出ていると、雫は感じずにはいられない。

「なるほど、そうですか。ですが、九野さん。本当に安住さんや大星さんといったクラスメイトは、九野さんのことを無視したりからかったりしていたのでしょうか?」

「はい、確かにしていました。私の被害妄想なんかじゃありません」

「いえ、私も九野さんのことを疑っているわけではないんです。ですが、担任の都留先生に話を聞いたところでは、九野さんのことを無視したりからかっているクラスメイトはいないとのことでしたが」

「そんなの当然じゃないですか。先生がいる前で、堂々といじめをする人なんていないですよ」

 そう言った九野に、雫は一理あると思う。担任もいじめの事実を知っていて、それを黙認していたならば悪質にすぎるが、それでも都留の口ぶりからそういった気配は、雫には感じられなかった。

 どちらかが嘘をついているのだろうか。雫は九野が口にした理由を、そのまま呑み込めない。

「九野さん。もしかしたら、九野さんの方からクラスメイトとの関わりを拒んでいるのではないですか? 教室で音楽を聴くことで、話しかけられないようにしているのではないですか?」

「そんなわけないじゃないですか。私は話しかけられたら、普通に応えますよ。山谷さんは、そんなに私に原因があるとしたいんですか? 山谷さんも、私の味方はしてくれないんですか?」

 縋りつくかのように言った九野に、雫は普段九野が都留やクラスメイトからどう扱われているのかを、一部分だけれど察してしまう。

 だから、自分はただ鑑別を行うだけの存在で、九野の敵ではないが味方でもないという事実を伝えることは、雫には少し気が引けた。

 意図的かどうかは別にして、九野がクラスで孤立していることはおそらく事実なのだろう。そこにさらに追い打ちをかけるような真似は、雫はしたくなかった。


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