都留や御子柴との面談は、一時間ほどで終わった。九野の教室での様子や交友関係など、初回面接では深く掘り下げて訊くことができなかったことを二人から訊くことができて、雫はわざわざ上田にまで車を走らせて来た甲斐があったと思える。
鑑別所に戻ると、雫はさっそく都留たちから聞いたことを、ファイルにまとめた。箇条書きのメモを参考にしながら、細かいところまで思い出しつつファイルに打ち込んでいると、雫には翌週に控えている次の鑑別面接への道筋が、おぼろげながら見えてくるようだった。
それでも、九野への二回目の鑑別面接の前に、雫たちにはもう一つやらなければならないことがあった。
雫が都留たちに話を聞きに行ってから、二日後。雫と平賀は昼食休憩を終える頃になって、職員室にチャイムが鳴るのを聴く。
雫たちが玄関に赴くと、そこには鑑別所の嘱託医である児童精神科医の鎌本と、臨床心理士の
雫たちはまず来てくれたことに感謝を述べてから鎌本を診察室に、沢井を第一面接室に案内する。九野の診察及び検査を行うには、二人とも少し準備を整える必要があった。
二人をそれぞれの持ち場に案内して、雫たちはいったん職員室に戻る。でも、次のチャイムは雫たちが戻ってきてから一〇分もしないうちに鳴らされた。
雫たちが再び玄関に行くと、そこには一人の女性が立って待っていた。カーキ色のコートに身を包んで少し寒そうにしているのは、九野の母親である
雫たちは小夏をすぐさま所内に引き入れると、待機室となる第二面接室へと案内した。小夏は見た目は落ち着いているように見えたが、子供にASDの可能性があると言われての心中は、雫には推し量ることができなかった。
小夏に少し待つように言って、雫たちは職員室に三度戻る。すると、また一〇分ほどしてから、今度は内線の電話がかかってきた。第一面接室にいる沢井から、検査の準備ができたとの連絡だ。
それを聞いた雫はさっそく職員室から出て、九野の居室へと向かう。
ノックをしてからドアを開けると、九野はどこか緊張した面持ちを浮かべていた。雫が声をかけると、おずおずとながらも立ち上がっていて、二人は第一面接室で待つ沢井のもとへと向かう。
第一面接室のドアを開けると、沢井は心配しなくても大丈夫というような穏やかな顔で、九野を迎えていた。沢井も何回か鑑別所に来て、収容されている少年に心理検査を行っているから、慣れている部分もあるのだろう。
だから、雫も「よろしくお願いします」と、九野を任せることができた。これから行われる検査に、雫は同席することができなかった。
しばらく九野を沢井に任せて、雫が職員室に戻ると、平賀は席を外していた。それでも、平賀が問診を行うために鎌本の元に小夏を連れていっていることは雫にも容易に察せられたから、焦ったり気を揉むことはない。
その証拠に平賀もすぐに戻ってきて、二人は九野たちの検査や診察が行われている間、自分たちの仕事をして待つ。デスクワークや他に担当している少年に関する資料の確認など、やらなければならない仕事は二人にも十分なほどあった。
だけれど、何をしていても雫の頭からは、今検査を受けている九野のことが離れない。目の前の仕事に頭を切り替えることは、雫には少し難しかった。
最初に内線が来たことを知らせる電話を受けて、平賀が職員室を出ていったのは、二人が戻ってきて三〇分ほどが経った頃だった。鎌本による小夏への問診が終わったのだ。
きっと今頃、平賀は小夏を第二面接室に戻してもう少し待つように言っているのだろう。
その平賀が戻ってきても、雫の机上の電話はなかなか鳴らなくて、雫は少しやきもきしてしまう。発達障害の診断に時間がかかることは想定していたが、いざ自分がその間にいると、時間の進みが実際よりも遅く雫には感じられていた。
小夏への問診が終わってから、さらに三〇分ほどして、ようやく雫の机上の電話が鳴る。内線をかけてきたのは沢井で、用件はやはり検査が終わったとのことだった。雫も一つ息を吐く。
だけれど、まだ九野には鎌本との面接が残っていて、電話を終えた雫は第一面接室に九野を呼びに行き、そのまま診察室に移動して、鎌本に預けた。検査から息つく間もなく鎌本との面接に移って、九野は少し大変だろうが、それでも時間は限られているので、余計な時間は取ってはいられない。
落ち着いた表情をしている鎌本を認めながら、雫は診察室を後にする。面接にも、やはり雫は同席できなかった。
鎌本から面接が終わったという内線が雫たちのもとにかかってくるまでには、また三〇分ほどかかった。
診察室に九野を引き取りに行った雫は、そのまま二階の居室へと九野を戻した。ASDの診断までには、また少し時間を要するし、今日は面会ではないのだから、九野を小夏と一緒にいさせるわけにもいかない。
きっと待っている間、九野や小夏はいくつもの可能性を考えて不安がったり、気を揉んだりするのだろうけれど、それは雫たちにはどうしようもないことだ。
というか、雫も同じように気を揉んでいる部分があって、落ち着いていられる方法があるのなら、知りたいくらいだった。
再び雫たちの机上にある電話に内線電話がかけられてきたのは、それからさらに一時間ほど後のことだった。雫に先駆けて受話器を取った平賀は、一分にも満たない電話を終えると、雫に「診断結果が出たようです」と告げる。
その声に雫は職員室を出て、再び九野の居室へと向かっていった。「九野さん、診断が出たようです。先生のもとにいきましょう」と呼びかけると、九野もドキドキした面持ちで頷く。
雫たちが診察室に入ると、既に鎌本と小夏が座って待っていた。鑑別所に入所してから、九野と小夏が会うのは初めてだ。二人はこれからなされる診断に緊張しながらも、少し安堵した面持ちを見せていて、だけれど雫たちも居合わせていたから、大っぴらに話すことはしていなかった。今日は面会ではないから、雫たちも二人が多くの言葉を交わすことを容認するわけにはいかない。
九野が小夏の隣に腰を下ろすと、「お二人とも今日は診察や検査、お疲れ様でした」と鎌本が切り出す。診断の場面には同席を許されていて、いよいよなされる診断に、雫としても背筋が伸びる思いがした。
「では、今回の診断結果を説明させていただきます」九野たちに簡単に検査や面接、診察の感想を尋ねてから、鎌本は口にした。
診察室の空気が、よりいっそうの緊張感を帯びる。
「今回の診察及び検査の結果、九野珠梨さんはASD、自閉スペクトラム症と診断されました」
鎌本の穏やかで、でもどことなく厳かさを含んだ声が部屋中に広がって、雫たちの耳にも入る。九野の後方に立っていたから、肝心の九野の表情は雫には分からない。
でも、診断を受けた瞬間に九野の方を向いた小夏の横顔は、はっきりと確認できた。小さく開いた口と、少しひそめられた眉から、ショックを受けていることが雫にも窺える。
以前と比べれば、発達障害に対する世間の理解は進んではいるものの、実際に我が子が診断されたらどう思うか。小夏の心情は、察するに余りあった。
それから、鎌本は今回の診断に至った理由について、事細かに九野たちに説明していた。面接や問診、心理検査の結果を参照しながら、ASDの診断基準である「複数の状況で社会的コミュニケーションおよび、対人的相互反応における持続的欠陥があること」と「行動、興味、または活動の限定された反復的な様式が二つ以上あること」が、九野に認められたことを丁寧に伝えている。
ASDは障害ではなく、発達の多様性の一つである。合理的配慮等によって、本人が生活していくのに困らない状態を作ることができる。短所を克服するよりも、長所を伸ばすことに力を入れましょう。
そんな鎌本の言葉は雫には十分理解できるものだったが、当の九野や小夏に届いているのかどうかは確証がなかった。
ASDは、今や障害ではない。正式な診断マニュアルであるDSM―5にも自閉スペクトラム「症」と記載されている。でも、それを言ったところで九野たちが素直に聴き入れてくれるかは、雫には怪しいと思えてしまう。
発達「障害」という従来通りの呼称に、九野や小夏が囚われている可能性は否定できなかった。