「それでは、まずは九野さんの担当技官である山谷さんから、初回の鑑別面接と心理検査の結果の報告をお願いします」
そう那須川に水を向けられて、雫は座ったまま「はい」と返事をした。「それでは、皆さん手元にある資料をご覧ください」と言った声は、あと少しで上ずってしまいそうなほどだった。
「では、私から報告をいたします。まず初回面接についてですが、九野さんは緊張した面持ちを浮かべながらも、それでも本件の非行事実、SNSでのなりすましを認めていました。自分が取った行動を正確に把握している様子は、既にある程度の反省がなされていると私は考えます。また非行に至った原因ですが、本人が言うには「クラスメイトから無視をされて、むしゃくしゃしてやった」とのことでした。もしこれが事実ならば、担任の教師等にもその詳細を確認する必要があります。また面接で話された、交友関係や家庭環境についてですが……」
それからも雫は、九野との面接で得られた情報を仔細漏らさず報告した。でも、それは調書にも書かれていた内容がほとんどで、半ば平賀たちに配布したプリントをなぞる形になってしまう。
それでも、雫は面接結果の報告を終えると、次に心理検査の結果の報告に移る。雫が三人と共有しておきたい情報は、こちらの方にこそあった。
「続いて心理検査の結果の報告ですが、まず知能検査では異常は認められませんでした。人格検査でも概ね良好なパーソナリティを示しています。ですが発達検査、特にAQ―Jでは、注目すべき点がいくつか見られました。どの項目も平均と比べると高い点数を示していましたが、特に細部への注意とコミュニケーションの項目で、顕著な高得点が認められました。このことは九野さんに自閉スペクトラム症の傾向があることを、明確に示しています」
平賀たちは時折プリントに目をやりながら、雫の報告を聞き入れていた。雫が「自閉スペクトラム症」という単語を出しても、会議室の空気は少しも変わらない。
自閉スペクトラム症をはじめとした何らかの発達障害を抱えている子供は、全体の六パーセント存在しているという調査結果もある。三〇人規模のクラスに二人いることを考えれば、ここにやってくる少年が発達障害を抱えていたとしても、何も不思議ではないのだ。
「思えば、面接の場やそれ以外でも九野さんには、自閉スペクトラム症の傾向があると思われる特徴が、いくつか見受けられました。例えば九野さんはアイドルグループが好きなようで、そのことについての語りの多さは、他の話題とは比べ物にならないほどでした。また、面接に臨む姿勢も他の少年と比べるといくらか受動的でしたし、階段を上るときは右足から、降りるときは左足からという自分のルールを持っているようで、それが守られないときはやり直すといった場面も見られました。よって、まだ確定したわけではないですが、私は九野さんに自閉スペクトラム症の傾向があることを念頭に置きながら、鑑別を進めるべきだと考えます」
「山谷さん、ありがとうございます。確かにAQ―Jの検査結果を見れば、九野さんには自閉スペクトラム症、ASDの特性がありそうですね。でも、AQ―Jはあくまでスクリーニング検査なので、嘱託医である児童精神科医の鎌本(かまもと)先生に連絡を取って、詳細な検査を実施していただきましょう」
「はい。会議が終わったら、さっそく連絡を入れてみたいと思います」
雫は頷く。AQ―Jだけでは、自閉スペクトラム症だと確定診断を下すことはできないのだ。
雫が一通りの報告を終えると、那須川は「では、次に平賀さん。担当教官から見た、現時点での九野さんの所見について報告をお願いします」と、平賀に顔を向けた。
平賀も頷いて、「では皆さん、手元の資料をご覧ください」と言う。雫もプリントを手に取りながら、平賀の説明に耳を傾けた。
平賀が言うには、九野には階段の上り下りの他にもいくつかこだわりがあり、また周囲の物音にも敏感で、それはどれも九野に自閉スペクトラム症の傾向があることの裏づけになっていた。
平賀に続いて取手も報告を終えて、さらに三〇分ほど話し合うと、九野の鑑別方針を設定する会議は終わった。
こだわりの強さやコミュニケーションの困難さなど、九野が持っている自閉スペクトラム症(ASD)の特性を尊重しながら、鑑別を進めていくことが決まって、雫もそれに異存はなかった。むやみやたらに特性を否定して、自己肯定感の低下などといった、二次障害を招いてはいけない。
翌週に控えている二回目の鑑別面接に向けて、雫もASDや発達障害について書かれた本を読み返す。九野の特性をより理解するためには、そのことが欠かせなかった。
その日、雫は一人で公用車を運転していた。九野が通っている高校に赴いて、担任や学年主任の教師から話を聞くためだ。
でも、九野が通っている高校は、鑑別所がある長野市からは少し離れた上田市にあって、下道を使いながらだと優に一時間はかかってしまう。配属されてから一番の遠出に、雫のハンドルを握る手も少し強張っていく。一人で来ているという心細さも、正直なところ否めなかった。
一時間以上運転し続けて雫が辿り着いた高校は、中心駅からは少し離れた田園地帯の中にあった。関係者用の駐車場に公用車を停め、雫は校舎の中に入る。関係者入り口から入った校内は、授業中の時間帯だからか静かで、雫の緊張をより増幅させていく。
事務員に案内され、二階の応接室で座って待っていると、少しして二人の男性教師が入室してきた。比較的若く眼鏡をかけている方が担任、それよりかは少し年を取っているように見えて、軽く腹が出ている方が学年主任だろうと、挨拶をしながら雫は当たりをつける。
名刺交換をすると、若い方が
「今日は遠いところをわざわざお越しいただいて、ありがとうございます」と言われ、雫も適当な相槌を打つ。二人の態度は九野が補導されたにも関わらず、物腰柔らかだった。
「では、お二方にお訊きしたいのですが、九野さんはどのような生徒でしたか? まずは学業の面から。成績はどれくらいで、主にどんな教科が得意でしたか?」
「はい。九野さんは授業態度も良好で、成績も学年上位でした。特に数学が得意で、一年生のときも他の子に先駆けて二年生用の問題を解いていましたし、テストでは学年一位を取ったこともあります。興味のあることや得意なことには、高い集中力を持って臨める。そんな生徒でしたね」
「なるほど、そうですか。では、御子柴先生から見て、九野さんはいかがでしたか? 学業面でも他のことでもいいので、教えていただけるとありがたいのですが」
「確かに都留先生が言う通り、九野さんは学業面では優れた成績を収めていました。努力家で得意な数学だけでなく、苦手な日本史や公民といった科目も、手を抜かずに取り組んでいましたし、その姿勢は他の生徒にも見習ってほしいと思えるようなものでした。だからこそ、九野さんが今回のようなことに及んでしまったことに、私どもとしても大きなショックを受けています」
そう言いながら御子柴は悲しそうな表情をしており、本心から言っていることが雫には分かった。都留もきまりの悪い表情をしていて、九野が成績優秀だったことは間違いないのだろう。
それは誰にでもできることではないから、九野はもっと自分を誇ってもいいと雫には思える。だけれど、九野にとって学校生活は、それだけで満足できるものではなかったのだろう。
雫は、さらに追って訊いてみる。