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第87話


「以上で、鑑別所の施設やここで過ごすルールといった、一通りの説明は終わりとなります」

 雫たちが九野を連れて鑑別所の施設を案内したり、第二面接室に入って鑑別所で過ごすうえでの規則の説明を終えると、九野は一つ理解したように頷いていた。

 実際、九野は主に平賀が行った説明にもちゃんと耳を傾けていたし、何回か頷いて相槌も打っていた。

 さすがに表情はまだ少し固いけれど、それでも鑑別所に入所したことを受け入れているようにも、雫には見える。不本意な態度を示したり、ほのめかしたりする少年が少なくないなかで、少し珍しくも感じられた。

「それでは、九野さん。ここまでの話を聞いて、何か質問等はありますか?」

 平賀が尋ねると、九野はおずおずといったように口を開いていた。

「……あの、就寝時間は夜の九時って説明されましたけど、それは必ず守らなければならないんでしょうか?」

 九野の質問は、雫にとっては取り留めもないと思えるようなことだった。それでも、九野は不安そうな目を覗かせていたから、適当にあしらうわけにはいかない。

「はい。規則ですので、夜の九時には消灯させていただきます。何か不安なことでもあるのでしょうか?」

「あの、私普段は夜の十一時に寝てるので、その時間に寝られるかどうか、分からないんですけど……」

「そうですか。でも、ここで規則正しい生活を送っていれば、その時間には自然と眠くなっていると思いますよ。ですので、そんなに心配しなくても大丈夫です」

 そう答えた平賀にも、九野は「そうですかね……」と、少し気がかりな表情をしていた。

 確かに夜の九時に消灯というのは、一般的に見れば早い方ではあるのだろう。九野だって、今までの生活習慣を変えるのに、少し苦労するかもしれない。

 でも、ここに来た以上はルールはルールとして守ってもらう必要がある。

 雫は、目で九野を説得するように試みる。それでも、九野の心配するような表情はまだ収まってはいなかった。

「それでは、九野さん。他にも何か質問はありますか?」

 平賀が再び尋ねると、九野は少し困ったように目を泳がせていた。それでも、気になって仕方ないというかのように、再び口を開く。

「あの、食事のことなんですけど」

「はい。食事がどうかされましたか?」

「朝昼晩の食事は、用意してもらえるってことでいいんですよね?」

「はい。栄養バランスにも配慮した、適切な食事を用意させていただきます。ここに入所してくる少年は、食生活が乱れている場合もありますから。それがどうかされましたか?」

「……いえ、それならいいんです。ちゃんと食事が用意されるようで、安心しました」

「はい。でも、くれぐれも他の入所している少年とは喋らないでくださいね。これも守っていただきたいルールの一つですから」

「分かりました」と再度頷く九野。でも、雫はそこに含みのようなものを感じてしまう。少し言いよどんだことも、その証だ。

 もしかしたら九野は、スナック菓子やファストフードなどを好んで食べていたのだろうか。

 でも、鑑別所ではそんな食事はさせてはあげられない。他に食べたいものがあったとしても堪えて、用意された食事を食べてもらうしかないのだ。

 それでも、雫は大丈夫だろうと予測する。他の少年から食事がまずいとは、雫はまだ聞かされていなかった。

「では、他にも何か質問はありますか?」

 そう平賀が三度尋ねると、九野は何かを言い淀む様子を見せていた。それは時間にして数秒にも満たなかったが、雫は気にせずにはいられない。

 それでも、他でもならぬ九野自身が「いえ、大丈夫です」と言っていたから、今この場で深追いすることは、雫には得策ではないように思えた。明日、個別に鑑別面接をするから、詳しいことはそのときに聞けばいいだろう。

 平賀が「では、これにて入所時のオリエンテーションを終了します。この後は準備が整い次第、医師の診察があるので、それまで少し居室で待っていましょう」と言う。

 その瞬間、九野の表情にかすかに安堵の色が見えたのを、雫は見逃さなかった。




「それでは、これから初回の鑑別面接を始めさせていただきます。九野さん、よろしくお願いします」

 九野が入所してきた翌日、雫はさっそく第一面接室で、九野と向かい合うようにして座っていた。

 九野は、おそるおそる「よろしくお願いします」と言う。その表情はまだ硬くて、当然だが鑑別所にまだ慣れていないことや、雫との面接に緊張していることを窺わせた。

「では、最初は九野さんの緊張を解す意味でも、軽い話題から始めましょうか。九野さんは、何か趣味などはありますか? 何をしているときが、一番楽しいと感じられますか?」

 雫がそう尋ねると、九野はわずかに目を泳がせていた。もしかしたら、いきなり今回の事案について訊かれると思っていたのかもしれない。こんなことを言っていいのかというためらいも、かすかに見られる。

 それでも、雫が穏やかな目を向けていると、九野はおずおずといった様子で答えていた。

「あの、趣味と言えるかどうかは分からないんですけど、それでも音楽を聴くことは、少し好きかもしれません」

 九野の答えに、自分との共通項を見出せた気がして、雫は少し嬉しくなってしまう。声も弾みそうになったが、公式な面接の場だったので抑えた。

「そうなんですか。私も音楽を聴くことは好きですよ。九野さんは、どんな音楽をよく聴かれるんですか?」

「あの、山谷さんは知らないかもしれないんですけど、『tiny dancers』ってグループの曲をよく聴いています」

 九野が挙げたグループは、雫が初めて聞くものだった。思わずキョトンとしてしまいそうになるのを抑えて、「そうなんですか。ちなみにそれはどういったグループなのでしょうか?」と尋ねる。

 すると、九野の瞳が少し明るくなったように雫には見えた。

「『tiny dancers』は四人組のアイドルグループです。二〇一九年に結成されて、主に東京で活動してます。なかなか長野ではライブをやってくれないんですけど、でも私は毎日曲を聴いたり、MVを見たりするほど好きです。歌は一度聴いたら思わず口ずさめるほどキャッチーですし、四人とも子供の頃からレッスンを積んでいることもあって、ダンスにもキレがあるんです。まだそれほどテレビに出てるわけではないんですけど、これから確実に人気が出ると、私は思ってます。代表曲の『ニュー・ミュージック・パラダイス』や『READY TO THE FUTURE』など多くの曲がYoutubeにアップされているので、『tiny dancers』で検索すれば、山谷さんもすぐに見ることができると思いますよ」

 よほどそのアイドルグループが好きなのだろう。九野は何の前触れもなく饒舌になっていて、雫は少し驚く。

「tiny dancers」のことを話している間は九野に強張った表情は見られず、あたかも自分の家で喋っているかのようですらあった。

「そうなんですか。九野さんはその『tiny dancers』というアイドルグループが、とてもお好きなんですね」

「はい。歌もダンスもメンバーのキャラクターも全部大好きです。その中でも私が推しているのは、リーダーの川鍋錬磨くんですね。リーダーなのに、意外と天然キャラで。スイカと間違えてコンビニのポイントカードを改札にかざして止められたみたいなエピソードが、いくつもあるんですよ。それでも、とても優しい性格をしていてファンサも良いって評判ですし。今はなかなか難しいんですけど、でもいつか東京に行って林くんをはじめとした『tiny dancers』のライブを、生で見てみたいです。直接会ってみたいです。それが今の私の、一番の夢ですね」

 九野は、なおも饒舌に畳みかけてきた。一を訊いたら十を返すという様子に、雫はどれだけ九野が「tiny dancers」のことを好きなのかを、重ねて認識する。

 熱っぽく語られて、雫でさえ少し気になってくるくらいだ。帰ったらさっそく「tiny dancers」の曲を調べてみようかとも思う。もしかしたら、九野を理解する助けになるかもしれない。

 それからも雫が相槌を打っていると、九野は「tiny dancers」のことを話し続けており、それはこのまま放っておくと、何十分も話し続けてしまいそうなほどだった。

 だけれど、九野の集中力等を考慮すれば、面接を何時間も行うわけにはいかない。雫には適当なところで、話題を区切る必要があった。「九野さん。少し九野さんがここに来た理由について、確認がてら尋ねてもいいですか?」と切り出す。

 すると、それまで明るい表情を見せていた九野の顔には、息を呑むかのような緊張の色が再来した。

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