何人かが入り口の方を一瞬見たけれど、それはドアが開く物音に反応しただけだということを、九野はもう知っている。
それでも、窓際にある自分の席に向かう途中で、話していた
しかし、安住たちは九野の方を一瞥もしなかった。仲間内で話し続けているだけで、九野が声をかけたことなんてなかったかのように振る舞っている。
毎日繰り返される光景。でも、今日こそは違うかもしれない。そんな九野の期待は、あっさりと打ち砕かれていた。
そのまま誰にも話しかけられることなく、自分の席に腰を下ろした九野は、スクールバッグからワイヤレスイヤフォンを取り出して装着した。スマートフォンを操作して流すのは、男性アイドルグループ「tiny dancers」の曲たちだ。毎日聴いていても飽きない曲が、九野の心をいくらか落ち着ける。
教室の話し声が棘のように刺さってくるように感じられる九野にとって、ホームルーム前のこの時間は、数少ない安らげる時間だった。
音楽を聴きながら、九野はそれとなく視線を遊ばせる。ワイヤレスイヤフォンをつけているからか、誰も九野のもとには近づいてこない。
視界の端では、安住たちが変わらずに談笑している。何かは分からないが、じゃんけんもしている。
そんななかで、ふと安住が九野のもとに近づいてきた。席まで来て、目の前で手をひらひら動かされれば、九野もワイヤレスイヤフォンを外すしかない。
安住はニヤニヤしながら、九野に話しかけてくる。
「ねぇ、九野さん。何聴いてたの?」
「音楽だよ。『tiny dancers』っていうグループの曲なんだけど、安住さん知ってる?」
「いや、知らない。それってどんなグループなの?」
薄ら笑いを浮かべている安住は、そこまで興味を持っている様子ではなさそうだったが、それも九野には気にならなかった。それどころか、「tiny dancers」のことを訊いてきてくれたことが、単純に嬉しく感じられる。
「『tiny dancers』はね、二〇一九年に結成された四人組のアイドルグループだよ。普段は東京で活動してるから、なかなかこっちに来ることはないんだけど、私は好きで毎日曲を聴いたりMVを見たりしてるんだ。キャッチーな歌とキレのあるダンスが特徴のグループでね、まだそれほどテレビに出たりはしてないんだけど、でもこれから確実に来ると思う。いっぱい良い曲があるんだけど、特に私は『ニュー・ミュージック・パラダイス』とか『READY TO THE FUTURE』が好きかな。どっちもYoutubeにMVが上がってるから、安住さんもすぐ見れると思うよ。それにね、メンバーもみんな個性的で。四人に四人それぞれの魅力があるんだけど、特に私はリーダーの
「分かった分かった。それくらいでいいよ。九野さん、詳しいんだね」
「うん、だって好きだからね」
そう言った九野にも、安住はニヤついた表情をし続けていた。
その表情の理由が気になって、九野は「安住さん、どうしたの?」と尋ねてしまう。安住は笑いながら応える。
「いや、九野さんオタクだなぁって思って」
「あっ、もちろんいい意味でだよ。それだけ好きなものがあるってことは、素晴らしいことだと思うし」安住はそう言葉を繋げていたから、九野が一瞬感じた違和感もすぐに消えた。褒められているのが純粋に嬉しい。
「うん。『tiny dancers』は本当に良いグループだから、よかったら安住さんも曲聴いたり、MV見たりしてみてよ」
「まあ、気が向いたらね。じゃあ、九野さん。私そろそろ自分の席に戻るね」
「うん。分かった」
自分の席に戻った安住を確認してから、九野は再びワイヤレスイヤフォンをつけて、再び曲を最初から再生する。
でも、その瞬間に九野の耳はワイヤレスイヤフォン越しでも、安住と自分たちの会話を見ていたその友人との会話を捉えてしまう。
「
「うん、なんかよく分かんないけど、アイドルグループが好きみたいでね。めっちゃ話してきて、キモかった。オタクじゃんって」
「だよね。やっぱ九野って、どっかおかしいよね」
「もう。今後こういうことはなしにしよ」
「いや、でもじゃんけんで負けた佐柚が悪いんじゃん」
「まあ、それは。でも、今度は負けないから」
安住たちは、大口を開けてまで笑っている。ワイヤレスイヤフォンをつけている九野には聞こえていないと思っているのだろうか。
でも、九野はその会話を、はっきりと聞いてしまう。自分がバカにされていたことに今さら気づいて、胸が痛む心地がする。
紛らわすために、九野はもう一度曲を再生した。何度も聴いている大好きな曲。それがホームルームが始まるまでの、九野のささやかな癒やしとなっていた。
一二月も半分を過ぎて、迫ってくる年の瀬に、街もどこかソワソワし始める。気温もグッと下がり、過ごしやすかった秋はとうに終わりを迎えていて、出かけるときにもコートやアウターといった防寒着が欠かせない。
雪の舞う日もちらほら見え始め、初めて体感する長野の冬は、雫にとっては気温は東京とさほど変わらなくても、それでも冷え込みの種類が少し異なるように感じられた。
鑑別所に流れる空気も、どことなく年末特有の忙しなさを漂わせていて、雫も毎日のように仕事に追われる日々を過ごしていた。
そんなある日、出勤した雫は自分の机につきながらも、少し緊張していた。警察からの調書に目を通してみても、心はどこか落ち着かない。今日はまた新しい少年が入所してくる日で、その担当技官に雫は指名されていたのだ。
何回も経験していたとしても、新しい入所者がやってくる日は雫にとっては新鮮で、何度も机上の時計を確認してしまう。その少年がやってくる時間は、予定通りならもう間もなくだった。
職員室にチャイムが鳴らされると、すぐに雫は担当教官である平賀とともに職員室を出て、玄関に向かう。カードキーをかざして玄関を開けると、そこには警察の職員と思しき男性と、一人の小柄な少女が立っていた。
一六歳という年齢以上にあどけなさを残す顔立ちが、幼気な印象を雫たちに与える。今日入所する九野珠梨だ。
立っているだけでも凍えそうだったから、雫たちは簡単に言葉を交わすとすぐに所内に入った。
九野はかすかに表情を強張らせていたけれど、鑑別所にやってきた直後だから無理もないと、雫は感じた。
平賀とともに、雫は九野を二階の居室へと案内しようとする。
でも、九野は一度階段を上りかけたと思ったら、すぐに下りて上り直していて、雫はかすかな違和感を覚えた。
それでも、二階の階段を上って一番手前にある居室に案内すると、九野は少し驚いたような表情をしてみせた。もしかしたら、想像していた居室とは違ったのかもしれない。
雫たちは「制服に着替えたらまた声をかけてください」と九野に呼びかけて、ドアを閉める。数分した後に声がかけられて、雫たちがドアを開けると、水色の制服は小柄な九野の身体には少し大きそうだった。