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第66話



 雫たちが茂木に呼ばれて大教室に入ったときは、既に長野今井高校の一年生全員が腰を下ろして待っていた。一〇〇人を優に超える人数に、一目見たときから雫の緊張は膨らんでいく。何かを発すれば、声が裏返ってさえしまいそうだ。

 スクリーンには、「違法薬物を使用しないために」と題された教材が投影されている。薬物乱用防止教育当日を迎え、雫の心臓はバクバクと鳴っていた。

「皆さん、今日は長野少年鑑別所から職員の方が、薬物乱用の防止を訴えるために来てくださいました。しっかりと話を聞いて、これからの学生生活や人生に生かしてください」

 マイクを通さずに、よく通る声で須藤が言う。改めて生徒たちと向き合ってみると、全員の目が自分たちに集中しているようで、雫は息を呑んでしまう。

 それでも「では、よろしくお願いします」と、須藤から話のバトンを受け取ると、平賀はマイクを持って、穏やかな口調で話し始めた。

「皆さん、こんにちは。ただいまご紹介された通り、長野少年鑑別所から来ました平賀です」

「同じく山谷です」

 平賀に続いて、雫もマイクを通して第一声を口にする。でも、まだ講演が始まった段階では映像は動いていなくて、生徒たちの目は変わらず喋っている雫たちに向けられていた。

 緊張が止まない雫をよそに、平賀は飄々とした表情で続ける。

「では、さっそくお話をしていきたいのですが、その前に少年鑑別所って何? と思われている方もいると思うので、簡単に僕たちの自己紹介をします。僕たちが勤める長野少年鑑別所は、非行に及んだ一部の少年を収容して少年審判、大人でいうところの裁判ですね、がより適切に行えるように少年と面接をし、行動を観察する、いわゆる鑑別と呼ばれる業務を行っています。その他にも地域の方々から少年に関する相談を受けつけたり、こうやって今日皆さんの前で話しているような、関係機関への研修・講演も行っています」

 平賀が話している間、雫は緊張した状態で生徒たちを眺めていた。その中に輪湖の顔もあることを、雫ははっきりと見つける。

 目は合わなかったものの、ちゃんとこうして薬物乱用防止教育に臨んでいることが、雫には喜ばしく、緊張も少し軽くなっていく。

「では、さっそくですが、皆さんは大麻や覚醒剤、危険ドラッグといった違法薬物にどんな印象を抱いていますか? 簡単に高揚感を得られるものでしょうか? それとも一度手を出してしまったら抜け出せない、恐ろしいものでしょうか? 僕たちは今日、皆さんにそんな違法薬物が与える害についてお話に来ました」

 そこまで言って平賀は、手元のリモコンを操作して、パワーポイントの資料を動かした。画面には大麻や覚醒剤等の違法薬物の写真や、脳の組織図が映される。

「まずは大麻や覚醒剤、危険ドラッグといった違法薬物が、脳に与える影響についてお話しします。これらの違法薬物は、脳内の報酬系という快楽を司る中枢部分を直接的に刺激する性質を持っています。普段なら努力の結果得られる達成感や高揚感という良い気分を、これらの違法薬物では何の努力もなしに味わえてしまいます。そして、違法薬物で得たその気分をまた味わいたいがために、再び違法薬物を使用してしまう。このプロセスを繰り返すことによって、その人はどんどんと違法薬物なしではいられない状態、薬物依存症に陥ってしまうのです」

 平賀は過度に脅かして生徒たちを不安がらせることがないよう、落ち着いた口調を心がけていた。でも、その声は確かな説得力を持って、生徒に届いているだろうと雫は思う。

 パワーポイントに記載されている図やイラストも的確で、薬物依存症の構造をこれ以上ないほど平易に伝えていて、生徒たちの理解を助ける。

 雫はマイクを持ち上げた。平賀と自分がある程度交互に話す形にすることは、予行演習を重ねる中で決まっていた。

 改めて生徒たちの顔を見ると、新鮮な緊張が雫を襲う。それでも、雫はただ覚えてきたことを読み上げるロボットにならないように、実感のこもった話し方を意識した。

「薬物依存症に陥ってしまうと、頭は一番に薬物のことを考えてしまいます。自分の中で大切にしていたもの、家族や友人、自身の健康や将来の夢よりも、薬物が上に来てしまい、薬物中心の生き方を選択するようになってしまいます。それは誰にとっても、もちろん使用している本人にも良いことではありません。さらに、薬物を入手する資金を捻出しようとして、知人や消費者金融等から借金を重ねたり、最悪の場合は窃盗や詐欺などの犯罪に至ってしまう場合もあります。これが社会的に許されることでないことは、皆さんもご存知だと思います」

 緊張している状態でも、雫の口はしっかりと予行演習通りの内容を喋ってくれていた。一語一語を話していると、緊張からだんだんと自分の心を取り戻せている感覚が、雫にはする。パワーポイントを操作している平賀とのタイミングも合っている。

 生徒たちがちゃんとスクリーンを見たり、説明に耳を傾けてくれている実感があったから、雫は慌てることなくゆっくりと着実に説明を続けられた。

「こうした違法薬物がその人だけでなく、周囲や社会にまで悪影響を及ぼすことを防止するために、大麻や覚醒剤といった違法薬物はたとえ使用はしなくても、所持するだけで厳しい罰則が科されています。例えば、大麻取締法違反の場合は五年以下の懲役、覚醒剤取締法違反の場合は一〇年以下の懲役が科されます。これは成人の場合ですが、今の皆さんにとっても例外ではありません。違法薬物を所持・使用した場合はたとえ皆さんの年齢であっても逮捕・拘留され、保護観察や少年院への入所といった保護処分が科される可能性は大いにあります。薬物乱用は誰が行っても、れっきとした法律違反なのです」

 そう話していながら、大教室に走る緊張を雫は感じる。いくら薬物乱用の防止に繋がるといっても、違法薬物の所持や使用について科される刑事罰を伝えることは、脅しているかのようで、雫にとってはあまり気分が良いとは言えない。

 でも、ここは検討の末残した箇所だ。どんな理由があろうと、生徒たちには違法薬物を使用して、人生を難しくしてほしくない。そのためには、伝えづらい現実も伝える必要があった。

「よって大事なのは、違法薬物の最初の使用、そのきっかけを作らせないことです。市販薬の乱用も同様です。もしかしたら皆さんのこれからの人生のなかで、そういった違法薬物を勧めてくる人がいるかもしれません。だけれど、その際は皆さんは毅然とした態度で断ってください。たとえ、その人との関係にヒビが入ってしまったとしても、皆さんの身を守ることが大事です。違法薬物の使用はたとえ一回でも『ダメ。ゼッタイ。』このことを胸に刻みながら、これからの人生を送っていってください」

 市販薬を乱用する危険性についても説明してから、平賀は生徒たちにそう告げていた。真に迫る言葉に生徒たちの表情も、いつの間にか真剣なものになっている。

 話を結ぶには、申し分ない言葉。実際に雫たちが手を加える前の教材は、ここで終わっていた。

 だけれど、平賀はそこから「ですが」と、話を繋ぐ。思いもよらない言葉に、生徒たちの視線が一斉に平賀に集中したことを、雫は感じる。

 それでも、平賀はそのことをものともせずに続けていた。

「万が一、本当に万が一の場合ですが、皆さんが違法薬物を使用してしまうことも、もしかしたらこれからの人生では起こりうるかもしれません。そうでなくても、市販薬の乱用はより皆さんの身近にある問題です。もし使用してしまって、薬物依存症に陥ってしまった場合、どうすればいいか。それを僕たち大人は、今まで皆さんに伝えてきませんでした。それでは、薬物依存症に陥ってしまった時にどうすればいいか、分からないのも当然です。ですから、ここからは薬物の問題を抱えてしまったときにどうすればいいか。それをお伝えしたいと思います」

 平賀はそう言って、教材を次のページに切り替えた。そこには長野県の地図と、いくつかの施設の電話番号が記載されていた。

 それを横目で見ながら、雫は再び息を呑む。ここからの説明は、雫に割り振られていた。

「まず依存症などの薬物の問題を抱えてしまったら、決して一人で解決しようとしないでください。薬物依存症は、自分の意志では薬物の使用をコントロールできなくなってしまった、れっきとした病気です。ですから、まずは長野県をはじめとしたお住まいの地域の精神保健福祉センターや健康福祉事務所、保健所に相談してください。大丈夫です。通報されたり、個人情報や相談の内容が外部に漏れることは、決してありません。安心して相談してください」

 雫は生徒が感じているであろう不安を少しでも取り除こうと、より落ち着いた穏やかな口調を意識した。大教室の雰囲気から生徒の多くは真剣に耳を傾けてくれていて、それは薬物の問題を自分事として感じているからに他ならないだろう。

 雫たちの誠実な思いは、ちゃんと生徒たちに届いているようだった。

「そして、薬物の使用や依存症に困っている場合は、専門の医療機関を受診してみることも、一つの有用な方法です。依存症専門医療機関は全国に点在していますし、当然長野県にも存在しています。主に集団で治療を行っているので、一人で頑張って回復に努めるよりも、より適切な効果が期待できます。ですが、依存症専門医療機関はまだ数が限られており、近隣にないという場合もあるかもしれません。その場合には、全国にある薬物の問題を抱えた当事者同士の自助グループ、ナルコティクス・アノニマスへの参加や、同じく当事者同士で共同生活を営みながら回復を目指していくダルクへの通所も、検討してもいいでしょう。回復への道を歩んでいる先輩から話を聞いたり、自分の正直な気持ちを話せるようになることは、当人の回復にも大きな効果を発揮します」

 雫は冷静に、それでも気持ちを込めて説明を続けた。スクリーンには依存症専門医療機関で行われている治療内容や、NAやダルクの連絡先などが表示され、視覚と聴覚の両方で生徒たちに訴えかける。

 いよいよ講義も終盤だ。

 雫に代わって再びマイクを持ち上げた平賀が、切実な目と口調で生徒たちに今回の講義の要を話し出す。

「繰り返しになりますが、依存症をはじめとした薬物の問題で大切なのは、決して一人で抱え込んだり対処したりしようとしないことです。薬物の問題が厄介なのは、自分の意志ではどうにもならず、歯止めが利かなくなってしまうことです。もしかしたら、薬物を使用してしまったことで、自分はダメな人間だ、助けてもらうに値しないと思ってしまうこともあるかもしれません。ですが、僕たちはそんなことは絶対にないと断言します。助けを求めるには少し勇気が必要かもしれませんが、それでも精神保健福祉センター等の窓口に相談して、病院で適切な治療を受け、もしくは自助グループと繋がって、他の当事者の方と一緒に回復への道を歩んでいくことを、僕たちは切に願っています。ありきたりな言葉ですが、皆さんは一人ではありません。助けてくれる人は必ずいます。だから、薬物の問題を抱えてしまったときはそのことを信じて、回復への道を助けてくれる誰かと繋がってください。それが今日僕たちが伝えたいことです。皆さん、まずは違法薬物を使用せず、それでも万が一使用してしまったら、人と一緒に回復への道を歩んでください。皆さんの人生が薬物の問題に振り回されてしまわないことを、僕たちは願っています」

「ご清聴ありがとうございました」そう口にしてから頭を下げた平賀に、雫も続いた。限られた時間のなかで、自分たちが伝えたいことは、全部伝えた実感がある。

 そして、その思いは生徒たちから鳴らされる拍手を聴いた瞬間に、より強まった。形式的なものではなくて、多くの生徒が「ためになった」「講演をしてくれてありがとう」と伝えてきているように、雫には感じられる。自分の勝手な思い過ごしでも構わないと思えるほどだ。

 須藤がマイクを持って、締めの言葉を口にしてから、雫たちは一足先に大教室を後にする。

 茂木の後ろについていき控え室に戻る間に、雫は平賀と顔を見合わせた。平賀は満足げに微笑んでいて、きっと自分も同じような表情をしているのだろうと、雫は感じた。



(続く)


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